78
暗い沼の中に沈んでいるようだった。
体中が重くて、息苦しくて、もう何もかもが嫌になっていた。真っ暗なそこは何も見えなくて、ただただまとわりつくような怠さだけが蔓延っていた。
突然、世界が光度を増した。
割れた破片がきらきらと反射して、沈んでいた身に光を届けた。呼ばれた名前に心臓が動いた。
落ちるヘリコプターを飛び出し、重力に従い落下していく間、しかし堕ちている心地はなく、近づく地面に臆することもなかった。もとより、高低差のある地の移動は忍の十八番だ。しかしその男は知ってか知らでか、大慌てで駆けてきて、真琴とそう大きく体躯の変わらない身で、だき抱えるように彼女を受け止めた。ヘリコプターが墜落した余波に加え、勢いを殺しきれず地面に派手に転がったが、真琴が痛みを感じることはなかった。
「うぐっ……ぶ……無事……?」
「や、ま、ざき、さん……」
痛みを堪えて地面に手をつき、体を起こす。背中に回されていた彼の腕が、力なく流れ落ちた。
初めて出会った時も、そういえば彼を下敷きにしてしまったのだと不意に思い出す。白目を剥きかけて、顔を大いにひきつらせて、けれど無理やり笑みに転換させた、まったく彼らしい人の好い顔。
仰向けになった彼から降りて、その顔を改めて見る。ちゃんと無事だ。生きている。生きて──
「…………」
「……えっ山崎、さん? 山崎さん? 山崎さーん!?!?」
ひきつった笑みのまま、がくりと横に倒れた顔。うっすら開いた瞼の間からは、白目が見えている。完全に気絶したであろうその姿に、真琴は全力で叫んだ。
「よーお、なんか殺されかけてたみたいじゃん」
「! 雪、ちゃん……」
傍らにフラリとやってきたのは雪で、敵地にいるとは思えぬ落ち着きぶり……もとい、眠そう怠そうな様相でこちらを見下ろしていた。こうして言葉を交わすことも、もうできないと思っていた。
「ったく、一丁前に
面倒くさそうに差しのべられた手のひら。しかし真琴がそれを取ることはなく、地べたに座り込んだまま視線を下げる。
「雪ちゃんは……わたしを捜しに来たの?」
「オメーが消えるとバーさんが私ご指名してくんだよ毎度毎度。いい加減にしろよマジで」
「なんで……見限らないの、雪ちゃんも、山崎さんも……」
隣に横たわる彼の頬に、微かに指を触れさせ、煤をぬぐう。それはほとんど意味のない動作だった。
「あ? 内輪揉めに駆けつけたら、民間人が敵に捕らわれてた。それ助けんのはおまわりの義務なんだろ。しらんけど」
自身も問われたことをしれっとスルーして、雪は適当に吐き捨てた。しかしそれはおおよそ的を射ており、だからこそ真琴は、鬼兵隊の人間と共にいた自分のことを、それでも「民間人」と認識していた山崎への不可解さに、胸を詰まらせる。
「わ、たし……帰れない」
「あァ?」
「……わたし、いつも、みんなと違って、全然頑張れてない。今回だってそうだ……」
「……」
「居たたまれなくて……強くて、いつも、頑張ってる、すごいみんなと一緒にいると……自分の駄目さが、浮き彫りになる……」
「……」
「挙句、こんな……わたしもう、みんなに、合わせる顔なんて、」
「あんだろがここに顔一個」
「いーだだだだだだ頬ちぎえる頬ちぎえる!!!!」
突き出されていた手で片頬を容赦なく引っ張られ、真琴は再び絶叫した。さらに摘まんだついでに力強く顔を引き寄せられ、悲鳴を重ねる。しかし雪は何一つ気にせず、白い皮膚を掴んだまま真琴の前にしゃがみこんだ。
「ごちゃごちゃうだうだ鬱陶しんだけど。なに、オメーは『人生めちゃくちゃ頑張ります』って天に誓って頼み込んでやっとこさ生まれたわけ?」
「え……」
「頑張んないと生きてちゃ駄目なんてクソだるい世界、私は御免」
ぱっと頬を離され、名残でじんじんとした痛みに襲われる中、真琴は意表を突かれたように目を丸くする。彼女を置いて立ち上がった雪は、相も変わらず表情の乗っていない顔で淡々と告げた。
「人生ご立派に生きてェならどうぞご自由に。だけどなァ、人生に意味なんてねェぞ」
突き放すような荒い口調。けれど彼女の声は、真琴の中に光を宿す。
強い人の生き方を、真琴は知らない。雪や、例えば銀時。幼馴染のあやめや全蔵。真琴にとっては山崎もそう。彼らが何を考え、どんな信念で生きているのか、何も知らない。
けれどいつだって強くて、毅然としていて、自分を信じ、ぶれることなく突き進むその姿に憧れ、焦がれ、けれど自分には決して手の届かない生き様だと思っていた。
知らないことに幻想を抱き、羨んで。彼らのことを、天上人だとでも、思っていたのだろうか。
「……じゃあ、」
「あ?」
「じゃあ、雪ちゃんはさ、意味なんてないのに、なんで生きてるの……?」
「イヤだから意味なんかねーっつったろ。生きてるから生きてるだけ」
「い……生きるのが面倒くさくなったり、死んだほうがマシだって思ったり、したことない?」
「いや死ぬのも面倒くせーし痛いし怠いじゃん」
「そ……、」
「あと今死んだら持ち金もったいない」
憎らしいほど適当に、はっきりとそう言ってのけた雪に、真琴は困惑した。──えっ? 面倒くさいから? お金がもったいないから生きてるわけ? それだけ? それだけなの?
あまりにも理解が及ばず、真琴は困惑して、困惑しきって、それからしばらくしたのち、ぶはっ、と、唇の隙間から笑い声が飛び出した。
「なに、それェ……」
くつくつと喉が震える。あまりのおかしさに、目元を曲げて、眉を下げて、肩を震わせる。
これまでぐだぐだと考え込んでいた自分が、いっそバカにさえ思えて。雪のいつもとまるで変わらない調子に、心底安堵して。
もう二度と会えないと覚悟を決めていた彼女たちに。もう二度と会えない『彼』への会いたさに。あの時船で、高杉のことを傷つけてしまった哀しさに。動かなかった過去への後悔に。そのやるせなさに。死にたい気持ちに。死にたくない気持ちに。感情の波が一定量を越えて、怒涛のように押し寄せる。
「……っ、」
笑い声が次第にくぐもる。堪えた声が嗚咽となって、わずかに口の端から漏れ出した。
──どうにかして、この虚しさから逃れるすべはないかとずっと考えていた。
失敗ばかりで、何をやっても大した結果も出せなくて。大事な人を失って、それでもその人の遺志を継いだりだとか、無念を晴らしたりだとか、そういうこともできなくて、夢も目標も何もなくなって。
いつも自分のことばかりで、誰かの力になるようなこともできなくて。何も行動を起こさない、怠惰で臆病な自分が嫌いで、大嫌いで。そんな自分を、少しでも好きになる努力すらも惜しんで。
そんな自分の目を通して見ているからだろうか、この世界も本当に馬鹿馬鹿しく見えて。息づくことすら嫌になったのは、いつ頃だっただろう。
此処でなら死ねると思っていた。
もう帰っても皆に合わせる顔なんてないし、どっちつかずのフラフラした人間を演じていれば、裏切り者として殺してくれると思った。殺される前に、目の前の命を少しでも助けられたら、少しは自分の人生に意味があったと思えるかもしれないと、思った。それが志半ばになったとしても、『彼』の顔を最後に見ることができたから、もうそれだけで充分だと思った。唯一、こんな自分にも死んだら悲しんでくれるであろう人たちがいて、死んでなおその人たちに迷惑をかけてしまうことだけは、心苦しかった。
上空からは戦場が一望できていた。この場所で、一体何人死んでしまっただろう。地面に倒れて動かなくなる人を、たくさん見た。
なんでこんなにも、人はすぐに死んじゃうんだろう。
なんで、こんなに、人の死が近い。
いつも、いつも、手の届くところにある。
命が軽い。
あまりにも軽すぎる。
頭がおかしくなりそうだった。
それなのにどうしてか、自分のような存在だけは妙にのうのうと、でかい顔で此の世に居座り続ける。自分の命ほど軽いそれもないのに。世界は斯くも不平等だった。人の頑張った分に合わせて、幸せがもたらされて、その命が繋ぎ止められればいいのに。どうしてかそうはならない。むしろ、やさしい人や頑張っている人ばかりが早死にしたり、苦しい目に遭っている。どうしてだろう。どうして、なんだろう。
「適当でいいんだよそんなんは。帰んぞ」
それでも。
どんな人でも、死ぬ時は死ぬし、避けることはできない。そんな理不尽の中で、自分はまだ、生きている。生きようと抗い、得物を手放さずにいる。
雨は止まない。あの日からもうずっと、飽きるほどに続いている。
だけど、どこから落ちようと受け止めてくれる人がいた。真琴のこれまで抱えていた人生観念を情緒も身も蓋もなく、至極雑に破壊しきった人がいた。「帰るぞ」と、手を差し伸べてくれた。降りしきる春霖の中、そばにいてくれる人たちがいた。
「……うん」
その温もりは、今手放してしまうにはあまりにも惜しい。
*
河上を乗せたヘリコプターが墜落し、鬼兵隊側に狼狽が波及する。しかしそれとは対照的に、荒れた列車内は異様なくらい静まり返っていた。
「……伊東さん、なんで、」
虚脱したのか力を使い果たしたのか、ふらりと倒れ込んだ伊東を咄嗟に支えたのは朋子だった。肩を貸しながらゆっくり腰を下ろし、そのまま静かに問いかける。
命を落としていたかもしれない。
重なった偶然が、彼の命を未だ奪わないでいた。しかし彼は、ほとんど確実に、自分の死を覚悟して朋子たちの前に飛び込んでいた。それは誰の目から見ても明らかだった。
「……さァね、僕にもわからんよ。考えるより、先に、体が動いていた」
「伊東、お前は……」
「無駄話をしている暇があるのか……副長、指揮をとるんだ……」
口を開きかけた土方を、伊東は静かに制した。土方はなにか言いたげに一度だけ瞬きを落としたが、すぐに背を向けて列車を飛び出した。彼の後ろに、局長と一番隊隊長、そして元副長補佐の姿が続く。
「──総員に告ぐ! 敵の大将は討ち取った!! もはや敵は統率を失った烏合の衆! 一気にたたみかけろォ!!」
副長の号令が戦地を波打たせる。それに合わせ、隊士たちは今一度己を鼓舞すると、創痍の体を奮い立たせて駆け出した。
ひとり残された伊東は、片腕を失い、全身の爆傷に蝕まれ、静かに憔悴していく。
「……やっと、気づいたんだ……大事な繋がりに」
ぽつりと、誰ともなく溢した声は、偽りない彼の本心。
「なのにどうして……いつだって、気づいた時には、もう遅い。やっと手に入れた、繋がりでさえ、自ら壊してしまった……どうして……なんで……」
狭い通り道を無理やり押し通ろうとしているようだった。か細く震えた声が、言葉では表しきれないほどの莫大な後悔をまざまざと表す。
確かに心に泰平が生まれていたのを、気づかないでいた罰だ。どれだけ切望しようと、もう戻ることはできない。彼らのそばに立ち、この隊服に誇りを持って刀を振るうことなど、もう──
がしゃん、と何かが目の前に落ちた。
伊東は眼鏡越しに細い目を見張る。──一体どこからか見つけてきたのだろう、それは彼の刀だった。
そっと顔を上げる。自分のことを嫌いな男が、いずれ殺してやると言い合った男が、伊東を真っ直ぐ見下ろしていた。彼が此処に戻ってきてそれを寄越してきた理由などわかりきっていて、だからこそ理解ができなかった。
「き、みは……この期に及んで僕に背中を預けると言うのか」
「あ? バカ言え。お前なんぞに預けるくらいならロッカーに預けるわ」
ぶっきらぼうに言い捨てた土方は、会話を続ける気などないのかすぐに踵を返す。
「くたばんなら、コイツ振り回してくたばりやがれ」
最後にそう言い捨てて、彼は再び戦地へと駆け出した。
伊東は遠ざかる黒い背中を見つめていた。腹の奥から何かがこみ上げる。導かれるように、地面に片手をついた。体に力を籠め、己の足でしっかりと立ち上がると、彼が見つけてきた抜き身の刀をその手の中に収める。
伊東は駆けた。
怪我が痛い。足が重い。血が足りない。けれど硝煙の混ざった秋風を切る体は、驚くほどに自由だった。
「土方ァァァ!!」
伊東の怒号。浪士たちの中で戦う土方が、彼に気づいた。近藤や沖田、散り散りになっていた隊士らも、現れた彼の姿に視線を奪われる。
「伊東ォォォ!!」
呼応するように叫んだ土方。二人は互いに向かって刀を構え、そして──すれ違いざま、互いの背後に迫る敵を斬り伏せた。
「俺が殺すまで殺されるなよ」
「そっくりそのまま返してやろう」
互いに言い捨てると、再び、彼らは駆け出した。
敵は退却する者もいれば、未だ抗おうとする者もいる。彼らはひたすら目の前の敵を斬り倒した。一人でも多く仕留められるよう、刀を振るい、その数が着実に減っていく。
そうして幾ばくかの時が経ち、真選組の猛攻によって、ようやく戦場の鎮圧が見えてきた頃。
──土方は、近藤の背中に銃口の狙いを定める男を見た。
「近藤さん!!」
咄嗟に手を伸ばして駆け出す。気づいた近藤が振り返り、
いや、
駄目だ、
間に合わない──
パァァァン!
鋭い銃声。胸元から歪な赤い花が咲く。そのすべてがスローモーションのように感じられた。
近藤がその名を叫んだ。間を空けずに、朋子が敵の銃手を己の拳銃で撃ち倒す。近藤を狙った二発目が外れて、地面に着弾した。
短い砂色の髪が風を含んで揺れる。彼は急速に熱を失っていくその薄い唇に、ほんの僅かに笑みを乗せ──
「伊東ォォ!!」
倒れた反動で外れたシルバーフレームの眼鏡が、血だまりにパシャリと落ちた。