79
江戸某所の黒い湾を、小さな屋形船が悠然と進んでいた。控えめに波立つ水面は、船の灯りによってその辺りだけ煌々と色を落とされ、しんとした空間は、弦を弾く高い音に断続的に揺らされる。
船内の座敷に続く通路には、ゆるりと腕を組んで壁に凭れ掛かる男が一人。今しがた座敷から出てきた河上は、彼の姿を認めると数テンポ遅れて低い声で問うた。
「ぬし、何故ここにいる」
「いやァ、アンタ労ったろ思て。おかげで春雨ちゃんは無事密航できたで」
「左様でござるか。して、仮死薬を用意したのはぬしか」
「何の話かわからへんけど、そないなことはしてへんなァ」
阿見原は何が楽しいのか、ケラケラと笑って手を横に振った。座敷の奥では依然として、物悲しい三味線の音が奏でられている。
「俺は部屋案内のひとつもしてへん。勝手に船内うろちょろしとんのは見たけど、そん時パクられたんやろな。何、あんだけ優位に立っといて結局出し抜かれたん? いやァ〜あかんわァ、アンタは存外お人がええんやなァ。普段から天然ボケの片鱗見えとるもんなァ。もしかして悪役向いてへんのとちゃう? にしてもまァた真琴ちゃんに逃げられてしもたなァ〜。もう完全にロケット団とピカチュウやんけ。いやいやこないな予定やなかってんけどなァ」
相変わらず一人滔々と喋り続ける阿見原。彼の声が耳障りなのか、それとも頭に巻かれた包帯が妙に気になるのか、河上は己のこめかみ付近に指先で軽く触れた。
「なんぼ捕まえてもスルッと逃げよる。死にたい死にたいっちゅうツラしといて、元気な本人も死体も帰ってこォへん。つまりそゆことや。そらアンタもフラれるわなァ。ま、ほでもあの困ったちゃん連れてきたんは俺やのに、高杉さんなーんも問い詰めんで、やっさし〜」
「さて、黙って減俸されてるやもしれんな。ぬしも拙者も」
「ゲッそら勘弁」
言いつつ、やはりその顔には胡散臭い笑みが張り付いている。対する河上も、サングラスに覆われた顔からはその感情が読めない。互いに腹の内を掴めぬうちに、河上のほうが無言でその場を立ち去り、残された阿見原は彼の背にニヤニヤと手を振っていた。
高杉は座敷でひとり、障子を開け放した窓枠に腰を掛けて空を眺めていた。先ほどまで興じていた三味線は傍らに置かれ、代わりに愛用の煙管に火がつけられている。まばらに浮かぶ雲の輪郭を、奥から差す月光が仄かに照らしていた。
ふう、と煙が吐き出される。ゆるゆると閉じられた瞼に、彼女と出会った時の、あの諦観を含んだ、美しい笑みが蘇ってくる。
やわらかく弧を描いた唇と、やさしく細められた目元。まるで己の死を前にして、無邪気に笑うように、喜ぶように、それを甘んじて受け入れているようだったと、高杉はあの時そう感じていた。
だがやはり、彼女は──
「あのまま俺に殺されるつもりなんざ……さらさらなかったんじゃねェか?」
誰に聞かせるでもなくつぶやき、愉快げに小さく笑う。誰にも見せることのない、彼ひとりだけの笑み。
「なァ……真琴よ」
くゆる紫煙は、まんまるの黄色い月に向かって溶けていく。
*
雨が降りだしそうだった曇天は、いつの間にか切れ目をつくり、そこからやさしい月光が降り注ぐ。この空模様がずっと続くことはないとわかっているけれど、その心地よさに彼女は長い睫毛を伏せた。
今日は、綺麗な月だ。
*
「えー! 捨てちゃうの!」
ある朝の真選組屯所。朋子の大きな声に、土方は鬱陶しそうに目を細めた。部屋の中には紐で縛られた漫画本や、ごみ袋に詰められたアニメグッズの数々。
「トッシーはもう土方さんの一部じゃないですか、トッシーが大事にしてたものなんだから大事にしてあげなよトッシー」
「俺までトッシー呼ばわりしてんじゃねェ」
「いでっ!!」
ずかずかと部屋に入り込んできた朋子の頭を、土方がそこそこ強めにはたいた。しかし彼女本人はただのじゃれ合いと捉えているようで、反省する様子もない。
「あーあ、でもホントもったいないなァ。とはいえあたしが引き取るのもなーもう場所全然ないしなー。やっぱ最近はもう電子書籍の時代なんですかねェ。あたしは断然紙派だけど、電子も画面キレイだしどこでも読めるしいいところたくさんありますもんね〜」
「いやしらねーよ」
「アッこれ気になってたやつじゃん! ちょ、あたし読んでもいい? てかもらっていい?」
「うるせーよもう好きにしろよ」
「ヤッター! いえっさ!」
巻数順にきちんと並んで縛られた漫画のシリーズを、朋子は嬉々として抱え上げる。どうせ捨てるのに、こういうところは几帳面だよなァと内心でうなずいた。
「オラ、それ持ってったらテメーもさっさと持ち場につけ。遅刻したら切腹させんぞ」
「はいよ!」
と元気に返事をして、朋子は部屋を出ようとする。しかし敷居をまたぐ前に、今一度振り返った。
「ねェ土方さん。次、呪いに負けそうになっても安心してね」
「あァ?」
「あたしらが、殴ってでも土方十四郎を引きずり出したげる」
「ンな機会はもう一生こねェよ」
彼は振り返らないままはっきりと答えた。
再び黒い外套を纏ったその背中は強く、頼もしさをもたらす。それは紛れもなく、朋子が長年ずっと追いかけてきた背中だった。
自力で呪いをねじ伏せた彼はもう、それに呑まれることはないのだろう。
真選組鬼の副長、土方十四郎。彼は二度と、その精神を失うことはない。朋子は軽く目を伏せると、ひそやかに頬を緩ませ──
──トロピ〜カ〜ル〜ジュ! プ〜リ〜キュア〜!!
ピッ。
「はいもしもし、土方でござる」
華麗にずっこけた。
*
*
*
「しばらくぶりですね」
「……そうだね。君は相変わらず元気そうでなによりだ」
「ふふ、健康は私の取り柄のひとつですからね」
彼女はそう言って、上品で少しあどけない笑みを浮かべた。しかし彼はそれ以上なんと言葉を返せば良いのかわからず閉口する。もとより、おしゃべりなタチではないのだ。こんな時、自分がもっと、あのよく喋る豪放磊落な男のようであればと、少し思う。
そうこうしているうちに、再び彼女が唇を開いた。
「そうそう、お茶っ葉をですね、買ったんです」
「茶葉?」
「はい。貴方と飲みたくて」
「……君は本当に『いい子』だね」
「あら、社交辞令だとお思いですか?」
「それ以外に何かあるのかね」
「おおありですよ。貴方は、誰かに向けられた好意によほど弱いみたいですね」
「……それは、彼にも言われたな」
一回りは離れていないだろうが、それでもずっと年下の、聡い少年に言われたことを思い出した。ひねくれ者の彼は、その実、うんと自分に素直だった。羨ましいと、思った。
「私が、貴方とお茶するために、買ったんですよ。貴方がお好きと仰っていたものを見つけたので」
「……そうか。それならば、本当にすまなかった」
「あら、なんのことですか? まるで心当たりがありませんが」
「約束を、していただろう。……護れなくて」
それはあの女性に言伝を頼んだが一蹴されたものだった。約束を破り、あまつさえその謝罪を他人に任せようとしていたなんて、それで、伝わるはずなどないのだと、改めて思う。
「……ふふ、私、そんなに気が短いつもりはありませんよ」
「……?」
「待っています。だから貴方も、待っていてくださいね」
まるで当たり前のように、彼女はそう笑った。「……フフ、」彼の口から、小さく声がこぼれる。
最後に約束した相手はあの男だった。戦場の中で至極簡便に、荒っぽく交わされた、大事な約束だった。そこにまたひとつ、新たなそれが重ねられる。
「……君は本当に、変わった
気難しそうにつり上げていた眉を下げ、鋭い瞳をやわらかく曲げて。慈しむように、彼は笑った。
*
*
*
水を吸って重くなった布を、籠から一枚ずつ取り出す。パンパンッと振ってしわを伸ばし、羽月は軽く腕を伸ばして目の前の棒に引っ掛けた。踵は僅かに地面から浮かせるだけ。その作業を幾度も繰り返すこと数分。
ようやく空になった籠を抱えた羽月は、ふいに天を見上げた。降り注ぐ明るい陽射しに、眩しそうに目を細めて笑う。
「本日も良い天気です」
夏の頃より低くなった新しい物干し竿で、真っ白な手拭いたちが楽しそうに揺れていた。
カラフル 真選組動乱篇(了)