ハンカチ

 例えば。傘を持って出掛けると雨が降らないのに、持っていかない日に限って雨が降るとか。もやしを買っておくと使わなくて消費期限過ぎちゃうのに、ない時に限って必要になるとか。
 そういうふうに、「そういう時に限って」うまくいかないことっていうのは、人生で山ほどあった。雨に関してはもはや、わたしが傘をどうするかによって天候が左右されるんか? と感じるくらい、事前の動きがまともに機能したことが少なかった。
 だから今わたしの手にある、そんなに高くはない男性もののハンカチ。これは結局、今年も渡せることはなく、あまりわたしの趣味ではない私物と化するんだろう。

 八月二十二日。今日は幼馴染みのお兄ちゃんの誕生日だった。

 彼はそれなりに忙しい人だった。その上神出鬼没だし、わたしはケータイを持ってないから、連絡先も知らないし。家は知ってるけど、普段どこにいるかなんてわからない。家で待ち伏せしたりポストに入れておくほど、彼に対して律儀で献身的だなんて思われたくないし。何せ彼は昔から、隙あらばわたしをからかってこようとする。
 だから毎年、当日に彼に会えた試しなんて結局なかった。別に、どうしてもお祝いをしたいわけではないし、なんなら彼がわたしの誕生日を祝い返してくれるわけでもないけど。それでも、どうしても、当日にカレンダーを見ると「あ、今日全蔵さんの誕生日だ」と思い出してしまうのは、わたしがお祝い事が好きだからというのもあるんだろう。

 これはただの自己満足だった。彼の誕生日を覚えていた上で何も用意しなくて、そういう時に限って彼にばったり会う日が来たら、なんか悔しいから。もしも何かを用意していて、タイミングよくスマートに渡せたら、わたしが気分いいから。
 まあでも、これまでの人生経験上から推測するに、「だからわざわざプレゼントなんて用意した時に限って、彼に会うことはない」が成立する。つまりわたしが、彼にプレゼントを渡す日は一生来ないということだ。

「よォ真琴」
「いや来たじゃん」

 2コマ漫画のようなテンポの良さで、買い出し帰りのわたしの前に、ウチの屋根から人間が降ってきた。流石に八月、いつもの暑苦しいロングコートは着ておらず、少しだけ涼しげだ。

「久しいなァ。よォ何、なんかますます別嬪になった?」
「知っ……じゃなくて依頼なら受けない代わらない手伝わないから他当たってください」
「つれねェなァ」

 わざとらしく煽ててくる時は、絶対に何か裏がある時だ。先手を打って断りを入れれば案の定、彼の反応からロクでもない案件を持ってこようとしたのだとわかる。そもそも、全蔵さんが突然やってくること自体、どうせロクなことじゃない。それこそこの人生で裏がとれていた。

「……っていうかホント、わたしにこだわらなくていいじゃん。もっとそういう仕事に積極的な人とか、優秀な人いるでしょ」
「いやァ、お前ほど押しに弱い甘ちゃんもいねェからな」
「せめてオブラートに包もうよ」

 喧嘩売ってんのか。完全にナメてかかられている。まあ、咄嗟に否定ができないくらい、わたしは自分が意志薄弱であることを自覚してるんだけれど。

「んじゃ今日は松尾にでも押し付けて……」
「え、あ、もう帰るの?」

 やけにあっさりと踵を返した彼に、思わず口から引き留める台詞が飛び出した。そんなつもりじゃなかったんだけど、だってそれなりに久々に会ったってのに、たったの十秒二十秒。いやしかし、スーパーの袋の中にこっそりしまいこんでいたハンカチの存在が気になって、妙に挙動不審気味になってしまう。
 わたしのうっかりを受けて、全蔵さんは愉快そうに口元を歪めた。

「なに? 寂しくなっちゃったわけ? カワイイ奴だなァお前」
「なっ、いやっ、全っ然違うしさっさと帰ったらどうですかハイサヨナラ」
「へいへい」

 慌てて全否定すれば、全蔵さんは軽く笑って、今度こそ本当に背を向けた。その膝が僅かに沈んだと思えば、瞬く間に軽々と屋根のほうへ跳躍していく。彼はそのまま屋根を伝って、もう行ってしまうだろう。間も無く、数秒もせずに。来た時と同じく手ぶらのまま。

「……全蔵さん!」
「何……うおっと!」

 周囲に人がいないことを確認して投擲したクナイは、まっすぐ全蔵さんのほうへと飛んでいった。彼はそれなりに大きなリアクションを取りながらも、余裕そうな様子でそれを受け止めると、それとわたしを交互に見つめた。こちらが下から見上げているから、とても珍しく、彼の驚く目元が前髪の隙間から少しだけ見えた。

「ち……違うから! それ、こないだお世話になったお客さんにお礼としてあげようとしてたやつだから!」

 クナイに咄嗟に縛り付けた新品の黒いハンカチを見て、全蔵さんはしばし呆気に取られたのち、カラカラと楽しそうに笑った。

「素直じゃねェなァ」

 わざわざ今日に限ってウチに寄っといて、人のことばかり言うのはどうかと思う。