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「羽月はどういうものが幸せじゃと思う」
「しあわせ?」
澄んだ秋空の下。
幸せ。意味なら知っている。それが『どういうもの』かと言われたら……羽月はほくほくとした黄金色の芋に想いを馳せながら、パッと笑って答える。
「おなかいっぱいごはんを食べることです!」
「フム、いい着眼点じゃ」
「ちゃくがんてんってなんですか?」
「目の付け所じゃ」
「? おでこのしたですか?」
「それはさておきな、羽月」
「?」
ニコニコとしたまま首をかしげる羽月。近くで平らな石を椅子代わりにしている老爺は、その場から皺だらけの厳粛そうな顔をまっすぐ羽月に向ける。
「無論、お腹いっぱいのごはんも『幸せ』じゃ。けんども、本当の幸せというのは──」
伸ばした白い髭の下で、そっと紡がれる言葉。羽月は彼の教えを反芻するように、ぱちぱちと瞳を瞬かせた。あどけない顔つきは、少ししてからいっぱいの花が咲くようにほころぶ。
「じゃあ、おじいさまもわたしもしあわせですね!」
「……フフ、そうじゃのう。さて、そろそろ頃合いじゃな」
「わあい! やきいも!」
はしゃぐ羽月の姿に、老爺もまた髭の下でひっそりと口もとを緩めた。
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「や゛……やっと、追いっ、づいた……」
「離せっ! なんなんだよアンタ!」
肩で息をし、膝に片手をついて前傾する羽月。そんな疲労困憊の体でいながら、もう片方の手は、ジタバタと暴れる少年を易々と捕まえていた。
短くないおいかけっこの顛末は、羽月の勝利で幕を閉じた。羽月の細腕をどうやっても振りほどけない敗者、もとい少年は、せめてもの抵抗に丸い目を三角にして彼女を睨みつける。──返ってきたのは、膝元と手のひらに挟まれていた小物だった。
「それ……、」
少年は大きく目を見張る。その様子からして、どこかのブランドマークが入ったその革製の財布は、彼にとって確かに見覚えがあるらしかった。
それなりに厚みのあるそれは、他のどの大人が見ても、この幼く身なりも貧相な少年が持つには気張りすぎていると思いそうなものだが、羽月はこれが彼のものであると少しも疑っていない。彼女は少年の腕からようやく手を離すと、額の汗を拭いながら彼に笑いかける。
「これ、貴方のものですよね?」
──時は少し遡る。
江戸の某地区で、羽月はひとり、休暇の時間をもて余していた。無趣味なわけではないが、故郷で遊び場としていたような大自然はこの近隣にはなく──以前、一人で遠方に遊びに行こうとして、その場にいた山崎に全力で止められたことがあった──とくに買いたいものがあるわけでもない。場合によっては、朋子が貸してくれた漫画を読んでみたり、ドラマの録画を消化する休日もあったが、今日の彼女は外で陽の光を浴びたい気分だった。
とはいえ、知っている道をただ散歩するだけでも、羽月は楽しめる性質だった。このままぶらりと宛てもなく歩いて、入ったことのないお店で美味しいものを食べるのもいい。そんなことを考えていると、
「このガキッ!」
と、どこかから男の嫌な怒号が聞こえてきた。
声のしたほうを見ると、二人の男が幼い子どもに詰め寄っているのが見えた。少年は腕を掴み上げられ、顔を歪めている。周囲の人間は遠巻きに、あるいは巻き込まれぬようそそくさとその場を去っていた。
嫌な空気だ。
羽月はその場で一度深呼吸をすると、人の流れに逆らうように、威風堂々男たちに歩み寄っていく。──彼女は特別、強い正義感を持っているわけではなかった。しかし、困っている人がいれば迷わず声をかけるし、助けを必要そうにしていればためらいなく手を貸そうとする。それは、そうすることが「正しくて」「良い子である」と思っていたから。そうすれば、周りの皆が自分を好いて、味方になってくれると思っていたから。
「あの!」
けれど、今は少し違った。真選組に身を寄せ、彼らと共に過ごしていくうちに、少しずつ、羽月の中で変わっていったものがあった。思い出したことがあった。羽月は胸中に灯った感情のままに、一歩も引かぬ強い瞳で男たちと対峙する。
「放して差し上げてください。痛がっておられるじゃないですか」
「はァ?」
「んだてめェ」
突然割り込んできた羽月に、男たちは怪訝そうに眉根を寄せた。しかし彼女の顔を見るや否や、すぐに気をよくしたように、黄色い歯をニヤリと見せる。
「……ネーちゃん、ちィと幼いが相当上玉だなァ」
男たちの興味が自分に移ったことに気が付き、羽月はびくりと肩を震わせる。しかし大きくひるむことはない。彼らなど、怖いものにも入らない。
少年の腕を掴む男の手から、わずかに力が緩む。その隙に、少年は捕らえられていた腕を振り切ると、勢いよく駆け出した。
「あっ」
とす、と控えめな音を立てて、地面に落ちたのは黒い財布。「落としましたよ!」羽月は咄嗟にそう叫ぶも、少年には届いていないのか無視されているのか、彼が足を止める気配はない。
羽月は躊躇なく財布を拾うと、男たちの間をするりと潜り抜けて少年を追い始めた。後ろから不意を突かれた男たちのがなり声が聞こえたが、羽月の中の優先順位はすでに固まっていた。
──そんな経緯で、『落とし物』を渡そうとここまで追いかけてきた羽月だったが、何故かどこまでも少年に逃げられてしまい、ようやく捕まえた頃には双方とも息を絶やしていたというわけだった。
「…………」
少年はじとりと羽月を睨みつける。羽月は笑みを絶やさない。一向に受け取られない財布が、宙で掲げられ続ける。
「……それはアイツらの金だよ」
「え?」
ようやく対話ができた、と同時に、羽月は体をこわばらせた。──ん? 今、彼は何と……。
「盗んだんだよ、アイツらから。それがバレて捕まってたんだ。アンタ、バカなのか?」
「え…………エ゛!?」
羽月の喉から、潰れたような醜い声が出た。──え? だってこれは落とし物だと思って、だけどこの人のものではなくて、さっきの男性たちのもので、なら、彼らを振り切って、これを持って走り去った私は──
「こ、こっ……これじゃ私がドロボウじゃないですかァ!!」
愕然と張り上げられた声が、見知らぬ街に轟いた。
「どっ、これ、ど、どうすれば……!」
「しるかよ……要らないってんならもらうけど」
「だっ駄目に決まってるじゃないですか! 人様のものを盗むのは良くないことです!」
「アンタもな」
「ううっ……帰ったら朋子さんに相談しよう……」
青い顔ですっかり意気消沈した羽月。その傍らで、少年は呆れと戸惑い混じりに息を吐き出した。
「アンタ、早く帰れば。すごい浮いてるし」
「……そうですね。あまり長居しても……というか、そもそもここは……」
少年に促され顔を上げた羽月は、改めて周囲に視線を巡らせた。
無我夢中で少年を追って、いつの間にか足を踏み入れていた知らない町。煌びやかなネオンに、ひしめく看板にはよく分からない言葉ばかりが刻まれている。羽月のような若い少女や、彼のような幼い子どもは他に見当たらず、衣紋を大きく抜き、胸元を露出させた女性がカラコロと優美に下駄を鳴らす姿が目立つ。それから、そんな彼女たちに鼻の下を伸ばす男性たち。
そして……。
「……ここは、不思議な町ですね。空が閉ざされている」
たった先ほどまで、赤く染まった空の下を走っていたはずなのに。光の届かないこの町の空は、墨を垂らしたように真っ暗で、真っ黒で、まるで宵闇だ。
「あの天井は何なのですか?」
「そんなことも知らないで来たのか? アンタ本当にバカなんだな……」
「ば、バカバカ言わないでください。いいでしょう、知らないことがあっても、これから知っていけば」
「……ここは吉原桃源郷だよ」
少年が教えてくれた単語に、羽月は首を傾げた。聞き覚えの無い語句は脳内で漢字に変換することも難しく、とにかくそういう町があるのだという認識しかできなかった。
「夜王鳳仙の支配下にあるんだ。そいつがここを牛耳ってる」
「ヤオーホーセン?」
「めちゃくちゃ強い夜兎族のジーさんだよ。元、宇宙海賊春雨の団長で──」
「はるっ……!?」
急に声を上げた羽月に、少年がビクッと体を震わせた。跳ねるように辺りを見回す彼女は明らかに不審な挙動だが、あまりに切迫したその様子に、少年も口を挟むことを忘れたように目をしばたたかせる。少しして羽月は我に返ったようで、「……あ、す、すみません」と少年にぎこちなく視線を戻した。
「なあ、アンタ……」
「そ、それより! お腹空きませんか!?」
「はァ?」
「私は空きました! 江戸に戻って一緒にご飯を食べに行きませんか!」
「な、何言って……」
「私が奢りますから! さあ、早く行きましょう!」
「ちょ、ちょっと!」
少年の返事も聞かず、羽月は再び彼の手を掴んで歩き出す。その力は強引といえば強引であったが、彼は今度は大きな抵抗もせず、しかし口だけは回し続ける。
「あ、アンタ一体何なんだよ! っていうか誰なの!?」
「私は秋……──」
聞かれるがままに答えようとした羽月は、はたと動きを止めた。不意に頭をよぎったのは、先ほど少年から聞いた春雨の名。急に足を止めた彼女に、少年も胡乱げな瞳をその背に向ける。
「わた、私は……」
羽月は大袈裟に首を動かすことはもうしなかったが、それでも周りを気にするように視線が左右に動いていた。その瞳がようやく正面に戻ってきてから、彼女はばっと振り返って、
「てっ……照山、モミジ、です……!」
ひきつった笑みで答える羽月に、少年はますます眉間にしわを寄せて口を開く。
「……ねェ、出口はあっちなんだけど」
「…………」
*
所変わって、江戸の某ファミレスチェーン店のテーブル席。ウキウキとメニューを開く羽月の正面で、少年は居心地が悪そうに肩を縮こまらせていた。
「さて、食べましょう! 好きなものをなんでも頼んでください。どうぞ、遠慮はいりません」
「……」
「私はまずチキンサラダ大とハンバーグとサラミのピザにします。貴方は? あ、急がなくて大丈夫ですよ。どれも美味しそうですからね、迷ってしまいますよね。何なら、迷っているもの全部頼んでもいいですよ! もし食べきれなかったら私がお手伝いするので!」
「……なあ、アンタなんでオイラを連れてきたんだよ」
「え?」
「盗っ人のガキにメシ奢ったって、アンタに何の得もないだろ」
視線を下げて呟く少年に、羽月は大きな瞳をぱちぱちと何度か叩く。
「でも、お腹いっぱいご飯を食べると幸せな気持ちになるじゃないですか」
「だ、だから、なんでそういうのをオイラに向けるんだよ」
「? 幸せな気持ちになれるからです」
「いやそうじゃねーし! 何コイツ全然話通じないんだけど!」
「うーん……なら、私、誰かと一緒に美味しくご飯を食べるのが好きなので、一緒に食べましょう」
裏表のない笑顔に圧され、彼は押し黙った。
少年は机上に並べられたメニューにおずおずと手を伸ばす。ぺら、ぺらとゆっくりページをめくっていき、視線を何度も滑らせ、最終的に彼が指差したのはシンプルなオムライスだった。羽月は備え付けのベルを押し、ほどなくしてやってきた店員に自分の分と彼の分、それから勝手にチキンサラダの小さいサイズを追加で注文した。
「炭水化物はもちろん、野菜やお肉も摂るとさらにいいですよ。オムライスだけだとその辺り心もとないですからね」
「……なあ、オイラ、ほんとに金出さないからな」
「ええ、もちろん構いません。本日は懐に余裕がありますので、どんと任せてください!」
「……」
「それにしてもいい匂いがしますね。どのくらいで来ますかねェ。そろそろお夕飯の時間ですし、やっぱり混んでますから時間がかかるかもしれませんね」
「……」
「もう外もすっかり暗くなってしまいましたね。最近は少しずつ、日の入りが早くなってきましたよね。もうすっかり秋ですねェ。貴方は秋はお好きですか?」
「……まあ、過ごしやすいし」
「暑過ぎず寒過ぎず、いい気候ですよね。美味しい食べ物もたくさんありますし。私、焼き芋とか大好きで! あなたは好きな食べ物はありますか?」
「……かしわ餅、とか」
「かしわ餅! いいですね、私も昔はよくおじいさまと一緒に作って食べたものです」
「……オイラも、じいちゃんとよく分けっこしてた」
「仲良しなんですね、素敵です」
少しずつ心を開いてきてくれたのか、僅かに少年の口数が増えていく。羽月は嬉しそうに笑みを深めたが、彼は静かに顔を暗くさせて、
「……三年前に、オイラひとり置いて病気で死んじゃったけど」
「え──」
ぽつりと落とした言葉に、羽月は首が絞まったような感覚を覚えた。
彼は、その身なりや挙行、口ぶりからしても、恐らく家族がいない。住まいや金にもきっと困窮しているはずだ。
羽月にも、今はもう家族がいなかった。けれど、この年になるまでは義祖父と共に暮らしていたのだ。
しかし目の前の幼い少年は、恐らく十歳を超えてはいないだろう。その上、三年も前から天涯孤独の身であったというのか。それは想像するだけで気がおかしくなりそうな寂しさと、耐えがたい苦しみだと羽月は思った。少なくとも、自分にそれを耐えることは、できそうにない。
こんなに幼い少年が。寂しさを押し殺して、誰にも頼れない中、どうにか日々を生き抜いてきたというのか。
「お待たせしましたーチキンサラダ小と、こちら大になります」
「あ……ありがとうございます」
視界に割り込んできた店員に思考が切り替わり、羽月はかぶりを振る。正面を見れば、少年は目の前に置かれたサラダにくぎ付けになっていた。それから、羽月に視線を寄越すこともなく、カトラリーケースからフォークを握る。
「い……いただきます」
小さく呟いて、彼はドレッシングの掛かった新鮮なレタスをざくりと刺すと、そろりそろりと口に運んだ。
瑞々しい葉を割る音がする。少年のまるい頬が動き、喉が上下した。彼はあどけない瞳をさらに見開くと、次いで一口サイズに切られた鶏肉をレタスと一緒に頬張る。もぐ、ばり、次第にその動作は早くなり、気づけば彼はがつがつと頬張っていた。
羽月は自分のサラダに手を付けることもなく、少年を見つめて、小さな笑みを浮かべていた。喉の詰まったような苦しさは、未だ消えそうになかった。
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メインディッシュもすっかり食べ終え、二人は空になった皿を前に静座していた。少年はすっかり満たされた腹をテーブルの下で撫でながら、おずおずと羽月を見上げた。
「……あの、あり、がとう。ごちそうさま……」
「いいえ。私も美味しかったし、楽しかったです」
羽月が首を振って笑うと、少年は初めて、彼女に向けて少しだけ表情を緩めて見せた。その顔は存外穏やかで、いとけなくて、あるべき顔であるように感じて、羽月はそっと目を伏せる。
「……貴方は、何故あの町に行ったのですか? たまたまですか?」
「ううん……オイラ、父ちゃんも母ちゃんも知らない。物心ついた時から、じいちゃんだけが頼りだった」
「……はい」
「でも……もしかしたら、母ちゃんかもしれない人を、あの吉原で見つけたんだ」
「えっ!」
「だから、オイラ、その人に会いたくて、会って話がしたくて……! でも……簡単に会える人じゃないんだよ。吉原一の花魁なんだ。会うためには莫大な金が要るし、気にくわなければどんなに偉い殿様でも相手にしない人だ。オイラなんかじゃ……」
彼が抱え込んでいた激情が僅かにちらつき、また、羽月の喉には、よく噛まずに呑み込んでしまった時のような、妙な苦しさが生まれた。彼の望みをどうにか叶えてあげたくて、だけど話を聞くに、到底自分ではどうにもしてあげられそうにない。そもそも簡単に解決できることなら、とっくにどうにかなっているだろう。
数秒の間が開いた。それから喉の苦しさを押し込んで、彼女はそっと口を開く。
「……あの、」
「モミジちゃん」
「……え? あっ、はい?」
被せるように呼ばれた、先ほど咄嗟に名乗っていた偽名に一瞬反応が遅れたが、彼はさして気にした様子もなく続ける。
「今日、ありがとう。オイラ、もう行くね」
「え! あ、ちょっ待っ……!!」
羽月の静止の声も聞かず、少年は席から飛び出すと真っすぐ自動ドアのほうへ走っていく。羽月は咄嗟に追いかけようとしたが、その前に会計を済ませなければならないことに気づき、そうしている間に彼は完全に行方をくらましてしまうことは容易に想像できた。結局羽月には、彼の姿が見えなくなるまで、その場から見つめ続ける以外の選択肢は残されていなかった。