記憶喪失

「ふーん」

 今日の目玉焼きはLサイズの卵で作ったんだよ……と言われた時の反応としても成立しそうな。ようするに、心底どうでもよさそうな。抑揚も熱もない雪の返事に、新八はレンズの奥の大きな瞳を二、三瞬かせた。

「ふーんって……そ、それだけですか」
「新八ィ。雪にオーバーリアクション求めたって仕方ないヨ。ノーリアクション芸人としてやってけるレベルアル」
「いやいやそれにしたって……」
「まァまァよく考えてみ。記憶喪失なんて結構そこらへんにゴロゴロ」
「転がってるかァァァ!!」

 ──銀時が記憶喪失になった。
 誰のことも、自分のことすらも何一つ思い出せない。そんな非常事態にも、雪はいつも通りの淡々とした真顔を装備して、限りなく薄い反応しか見せない。興味がないのか、よほどの胆力ということなのか。今でも狼狽える気持ちが抜けない新八は、彼女のあまりに揺らがない姿勢に一周回って感嘆した。
 玄関先に呼び出されていた雪は、いよいよ興味をなくしたように踵を返す。その白い腕を咄嗟に掴んだのは、頭に包帯を巻いた銀時だった。

「あ? 何」
「あの……君も、僕の……知り合い? なのかい?」
「そォだよ見ろこの鳥肌。パーのオメーが急に真面目くさるから肌も怯えてら」
「プーの上にパー!?」

 掴まれた腕をわざとらしく持ち上げて見せつける雪に、人が変わったように大人しかった銀時は愕然とした。
 雪は鬱陶しそうに手を振るって払うと、視線をずらして一点をじっと見つめる。その先に居た新八は、思わずどきりと肩を揺らした。彼女の目はいつだって冷たくて、鋭くて、聡明で、時折誰とも違う景色を見ているようだった。

「ま、大事なことならそのうち思い出すだろうよ」
「そんな一時的なド忘れみたいに……」
「いくら圧かけたって思い出せねェモンは思い出せねんだから時間の無駄無駄。不毛なことしてんなって」

 手をひらひらと仰いで一刀両断する雪は、取り付く島もなさそうだ。自分たちよりも銀時との付き合いが長い雪と色々話せば、もしかして何か思い出すヒントになるかも──そんな望みを持って隣家の戸を叩いたというのに。ものぐさで熱量の少ない雪らしいといえば雪らしいが。

「夜寝よう寝ようとしても上手く寝付けねェ時、逆に寝ようとしないほうが寝落ちるじゃん。アレだよアレ」
「え、」

 珍しい言い方だと思った。雪にも、眠れない夜があるのだろうか。墓穴を掘ったか、垣間見えた人間味が珍しくて、新八は思わずしげしげと雪を見つめ返した。

「何」
「あ、いや、なんでも……」
「ま、幸いこの町も人間も、そいつに絡みついた縁が蔓延ってる」
「えん?」
「手当たり次第突撃すんのもアリかもね。どっかで引っ掛かりゃ芋づる式に思い出すかもしんねェし」

 病院で世話になった医師や、お登勢と似たようなことを言うのだと新八は思った。自分とそう大きく年が離れているわけでもなさそうな彼女は、いつも酷く達観していた。だからこそだろうか、彼女は外野から見ているような口振りが多いのだ。

「……雪さんも、その一人じゃないですか」
「そうアルよ、少なくとも私達よりこの天パと付き合い長いアル」

 雪は一瞬黙ったようだった。何を考えたのか、ワンテンポ遅れてから口を開く。

「でもバーさんと会っても特になんも思い出さなかったんだろ。じゃあ駄目じゃん」
「そうですけど……でも、もっと色々話してたらもしかして、」
「しつけーなドせっかち。忘れたままでも死にゃしねんだから、こんなの気長に適当にやるところだろうよ」

 言って、追い払うように羽織の袖を翻す雪。──深く関わろうとしないようでいて、淡々としたその口調にはやさしさが潜んでいるように新八は思えた。それは銀時にも感じられたようで、彼は雪と会って初めて、緊張を解いたように表情をやわらげた。

「……ありがとうございます。雪さんはとてもやさしくて素敵な女性ですね」
「え……キッメ……」

 そして新八はその日、雪と出会って初めて彼女の本気のドン引き顔を見た。







「あの時はありがとうございます。雪さんの言葉で、僕は気が楽になったんです。お礼ができて良かった」
「あそ」
「どうしたって思い出せない……前の僕を語られても、僕ではない誰かを求められいるんだと感じてつらい。彼らの期待に応えてあげられないのもつらい。というか過去の自分のヤバさがつらい」
「ふーん」
「記憶も住まいも失って……僕の存在を証明するものはもう何もありません。あの子たちにも、もう僕のことは気にしないでと告げてしまった。だけどおやっさんたちみたいに、新たな僕を認めてくれる人たちがいれば、きっと僕はまた新しくやっていける」
「……餓鬼どもの記憶差し置いて、ちと不義理だな」
「えっ? すみません、聞き取れなくて……」
「ま、自分の中のモンですら、無形は不確かだよな」
「……? あの、何の話でしょう」
「無理して思い出すこたねェし好きにすりゃいい。そこはオメーだけの領分。でもアイツらがオメーのこと忘れないのも、アイツらだけの領分。オメーがどうにかさす権利はない。そゆ話だよ」
「雪さん……」
「アイツらはどうせ、オメーの居場所突き止めてやってくるだろうよ。私からは教えてねェけど……精々オメーのまんま太刀打ちしてみるこった」
「雪さんは……どうして雪さんは、今の僕を見てくれるんだ」

 雪は最後の団子に齧りつき、引き抜いた串をパックにカランと放った。他人の金で食ったそれを咀嚼し、嚥下して、飽きたように立ち上がる。

「ここにいんのは今のオメーだろが」