名前
「あっ、お、はようございます」
「はよ……で、何て? ああ、回覧板?」
「あ、と、はい」
「ん、ドーモ」
「あ、あの……」
「ん?」
「あ、いや……何でもないです……」
尻すぼみしていく声に、彼はわずかに怪訝そうにしながらも部屋の中に帰っていく。ふわふわの銀髪が見えなくなってから、どっと息を吐き出した。
わたしがお世話になってるスナックお登勢の二階に住んでいる、坂田銀時さん。わたしより年上の、淡白で少しそっけない男の人。
わたしは、いまだに彼をなんと呼べば良いのかわからずにいる。
『え? 別に好きに呼んでいいけど』
最初に会った頃、思い切って聞いてみたら、返ってきたのはそんな適当な答えだった。彼は本当にどうでも良さげで、わたしに何と呼ばれようがきっと気にしないのだろう。だけどわたしにとってはかなり不慣れなことで、相応の準備が必要だった。
普通に坂田さん、でもいいんだけど。少し距離を感じるような、いや、実際に距離はあるので間違いでもないんだけど。でも呼び方というのは、最初に定着したものがずっと続くことが多いから。お二階さんなのにずっと他人行儀なのもなんか少し、少しだけ惜しいような気がした。だって、そんなふうに彼を名字で呼んでいる人を、わたしはまだ見たことがない。
お登勢さんは彼を「銀時」と呼んでいる。対する彼のほうは「ババア」なんて品のない呼び方をしてたけど、お登勢さんのなんだかんだ世話焼きなところや、彼女にはいつも押し負けてるところも相まって、母親と息子に見えるな、なんてちょっと思った。っていうかぶっちゃけ、最初に出会った時はそうなのかと思っていた。
屋号なら向こうも呼ばれる覚悟ができてたりするだろうか? 「銀ちゃん」? いや急に距離詰めてきてなんだこの女馴れ馴れしいとか思われたら死ぬし、だいたい男の人にちゃん付けなんてしたことないし。ハードルが高すぎる。ありえん。ナシナシ。
スナックお登勢の常連さんは、結構「銀さん」と呼んでいるのを聞く。やっぱり、銀さん……銀さんかァ。でも皆がそう呼んでるからといって、わたしにそんなふうに気さくにあだ名で呼ばれて不快じゃないとは限らないし皆とわたしが同じだなんて思わないほうがいいし呼んだ後に嫌そうな顔されたらメンタル滅茶苦茶になること請け合いだし。
じゃあ何だ、もっと丁寧な……「銀時さん」? いや、ねーわ。新婚さんかよ。一番駄目。ナシナシ。
(向こうがわたしのこと呼んでくれたらな……)
生憎、彼がわたしの名前をまともに呼んだことはまだない。だって、そもそも会話したことさえ数えるほどしかないんだから。
もし向こうが名字呼びだったらこちらだって合わせるべきだし、さらっと名前で呼んでくるようなら、こちらも勢いで名前呼びができるかもしれないのになァ。
そこまで考えて、こんな、誰もが些細だと思いそうなことまで他人主体の人任せにしないと駄目な自分に、ますます憂鬱さが募った。
*
早いもので、再びスナックお登勢に回覧板が巡ってきた。中身を確認したお登勢さんから、万事屋のほうに回すよう手渡される。わたしも何となくペラペラとめくってから、緊張した心地で外に出た。まだ、彼を何と呼べば良いのか分からないまま。
恐る恐る階段を上がっていく。流石にもう起きてるかな。この間行った時は、昼も近いのに見るからに寝起きですといった様相で、そんな気の抜けた姿を人様に晒せる豪胆さと、そんな隙のあるところをわたしが見てしまって良かったのかという一種のドキドキ感があった。
インターフォンを鳴らして少し待つと、のしのしとテンポの遅い足音が近づいてくる。扉が開くと、ちゃんと身なりを整えた彼が私を見下ろした。
「こんにちは、あの、回覧板です」
「ああはいはい、どーもね」
回覧板を手渡して、それ以上の用事もないため「それじゃあ……」と一歩下がる。私がもっと明るくて社交的だったら、今日は天気いいですねーとか、とりとめもない話題でいくらかキャッチボールができたんだろうな。なんて、どこか惜しく思いながら。
「カレー?」
「えっ?」
ふいに掛けられた声に、思わず肩が震える。動揺したのをなんとか悟られないようにして、相変わらず何を考えているか分からない彼の瞳に視線を滑らせた。
「あ、はい、そう、さっき仕込んでて……すみません匂いしました?」
「いや、アンタが来る前から漂ってたよ」
「ああそっか……この距離だと届いちゃうんだ……す、すみません」
「いや怒ってるわけじゃねーけど。カレーね……甘口?」
「えっどうだったかな……中辛?」
慌ててカレールウの箱に書かれていた辛さを思い出す。そういえば、彼は甘党だった。前に思い切ってお裾分けなんてしてみた時に得た情報だ。甘口の味付けのかぼちゃサラダを、彼はいたく気に入ってくれたようだった。
今日のカレーは、甘口ではない、けど。
「あの……良かったら食べに来ます?」
「……え? マジ? いいの?」
「たくさん作ったし……多分、お登勢さんもいいって言ってくれると思うので」
「行く行く。あとでぜってー行くわ」
「よ、用意してますね」
所作や言葉尻が妙に軽やかになった彼は、要するに楽しみだと言ったふうなことを一言二言続けると、会話を切り上げてさっさと部屋の中に戻っていく。そう。もう会話は途切れた。話す必要のあることは互いに話し切ったはずだ。なのに。
「ぎっ……」
今なら呼べるかも、なんて。
「……銀さん!!」
腹の底から飛び出した声は、後ろ手に扉を閉めかけていた彼の動きを止めた。心臓がバクバクしている。驚いてるかな。嫌そうな顔をされるかな。
「──なに? 真琴」
こともなげにわたしの名前を呼んで、振り返る。まるで彼の中では、ずっとそう呼んでくれていたみたいに。私を煙たがる顔は、どこにもなかった。
「んなでっけー声で呼ばなくても聞こえてるけど」
「あ、いや、あの、」
「で、何?」
責められているわけじゃない。急に大声で呼び止められたから用件を窺っているだけ、当たり前の流れだ。だけどわたしは妙に焦ってしまい、頭が真っ白で、何も考えられなくなった。
「わ……忘れちゃった……」
いっぱいいっぱいの中でなんとか絞り出した、あまりにも間抜けな返答。最悪だ。顔どころか首まで熱くなって、汗が浮いて、外気が当たって冷えまで感じて。滑稽極まりない。恥ずかしい、帰りたい……、
「……ぷっ、」
徐々に下がっていた顔が、声につられて再び持ち上がる。
あ、笑ってる……。
初めて見た、銀、さん、の笑顔。
小さくふき出して、それからくつくつと。控えめだけど、性根のやさしさが滲んだみたいな笑い方は、彼を少し幼く見せて、こちらを変な心地にさせる。何だかとても貴重で、特別なものを見せてもらえたような気がした。きっと全然そんなことはないのだろうけど、それでもわたしは、彼が見せてくれた笑顔を特別で大切なものみたいに感じていた。
がんじがらめになっていた緊張の糸が、いつの間にかほどけていく。顔の熱はもう引き始めていて、わたしも彼につられるように笑っていた。
「お……思い出したら、また話す、ね」
「おーそうしろそうしろ」