12
雨。それは多くの乙女の天敵。
湿気によって広がり、纏まらず、うねる乙女の命、髪の毛。余程髪質の良い人でない限り、とくに梅雨などは毎年苦痛なことだろう。
まさに自分のことである。真琴は更に気を落とした。
今朝方悪戦苦闘した結果、なんとかもっさりと広がっていたシルエットは抑えられたが、朝から無駄に労力を使ってしまった。ああ、縮毛矯正かけたい。一回綺麗なストレートになってみたい。いやでもあれ高いらしいしな……そんなことを悶々と考えながら、雨にも関わらず賑わっている繁華街を進む。
さっさと買うもの買って帰ろう。『雨の日だからこそ、家に籠ってなんかないで外に出た方が気持ちが晴れる』そんなことを言う人もいるが、真琴はこんな日は『家でゴロゴロしていたい』派であった。空気はジメジメと湿っており蒸し暑く、人とすれ違いざまに水が跳ね足袋が濡れることも少なくない。そもそもそんなことが無くとも、大雨だと足袋は確実に搾れるまでに浸水する。総じて気持ちが悪い。雨の日の外出は、あまり好きではなかった。
薄暗い灰色の空。そこから零れた雨粒が地面を叩く音。湿ったにおいが鼻につく。生ぬるい空気は鬱陶しい。景色が透明な水滴たちに遮られ、世界がなんだか、酷く小さく感じた。
(……そういえば、あの日も、)
こんな天気だった、と、不意に思い出したのは、本当に偶々で。真琴は気分に比例するように下がっていた視線を、斜め上へと向けた。
とめどなく降り続ける雨。
人波の中で、ふと止まりそうになってしまった足をかろうじて動かす。小さく息を吐いた後、ほんの僅かの間、目をきつく閉じ、再び開いた。
「────え?」
勝手に口から漏れた声は、掠れていて。けれど、そんなことはどうでも良くて。
心臓がドクリと跳ねる。
いま。
隣をすれ違った男に、過去の景色が記憶の引き出しから顔を出す。編笠からのぞく、サラサラの髪の毛。どこか厭世的な鋭い目付き。
その背中は、振り返った時にはもう随分と遠くにあって。それが人混みに消えていく前に、真琴は駆け出した。
着物も、せっかく整えた髪も次第に乱れていく。水たまりに踏み込み、足袋や裾が冷たい。人にぶつかった衝撃で傘が手から離れた。それを拾うこともせず、雨粒を浴びながらただひたすら走り続ける。
「はァっ、はっ……! 待っ……! あっ、す、すみませ……!」
人が多くて、何度もぶつかり、なかなか前に進む事ができない。追いかけている後ろ姿はどんどん小さくなり、とうとう人に埋もれて見えなくなってしまった。それでも、真琴の足は止まらない。
息が上がって苦しい。肺が痛む。雨は冷たいのに、体温が上昇していくような感覚。
「はっ……はァっ……! ……ゲホッ、」
しかし元々少ない体力は著しく減っていき、どんどん速度が落ちていく。しばらくして、真琴の足は完全に止まってしまった。
道の端に寄り、両手を膝に乗せ呼吸を整える。濡れた髪から滴がボタボタ落ちた。顔の水滴を袖で乱暴に拭う。ファンデーションが混じった雨粒が布に染み込んでいった。
(……見失っちゃった)
そんなことを思って、はっと我に返る。
違う、自分は何をしている。何馬鹿な事を考えているんだ。ぐっと唇を噛み締め、頭をふるふると振った。
今になって、濡れた着物のせいで身体が冷えてきた。傘は置き去りにしてしまったし、大分道を戻ってきている。第一、こんな全身びしょ濡れの姿で買い物なんかできない。
仕方ない、一度帰ろう。真琴はお登勢への言い訳を考えながら、進行方向を同じくして歩き出す。あーあ、これ絶対明日風邪ひいて──
数メートルほど進んだところで、真琴は唐突に足を止めた。
血の、におい。
忍だった真琴の、研ぎ澄まされた五感の一つが、その鉄のようなにおいを確実に感知する。雨のにおいと混ざった微かなそれは、少し前方を左に曲がった路地裏から流れていた。
駄目だ、行ってはいけないと脳が警告を鳴らす。
(駄目だよ、早く帰って、着替えて、さっさと買い物行って、そう、それでいつも通りに過ごせばいいじゃん)
そう自分に言い聞かせるように何度も何度も心の中で唱える。それなのに、震える真琴の足は一歩、また一歩と路地裏へ向かっていて。
駄目だ、止まれ、わたしが行くべき場所はそんな薄暗い所じゃないから、だから、待って、止まって、止まれ、止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ────
「……ぁ、」
路地裏にいたのは、濡れた地面に倒れた浪士。そしてその前に立つ、真琴が追い掛けた人物の手には、血塗れの刀が握られていて、
「…………" "?」
紡いだ名前は、自分の耳ですら聞き取れないほど酷く掠れており、もはや今本当に言葉を発したのかすら分からなくなるほどだった。
振り返った男は、包帯で片目が痛々しく覆われていて、その顔を真琴は、当たり前のように知らなくて。
知らないことをわかっていて、その名前を呼んでしまった訳は。
危険なことを理解していて、一歩、二歩と彼に近づいていってしまった理由は。
二つの面影が、重なって見えたから。
「……っ!」
男の、ギラギラとした瞳が真琴を映した。刹那。
彼女の首筋に、冷たく鋭い何かが当てられていた。
「誰だテメーは」
「……あ………わ、たしは……」
上手く声が出せない。喉がカラカラに渇いていく。心拍数が異常なほどに上がる。胃から何かせり上がってくるような気持ちの悪さ。感じたのは、至極純粋で単純な恐怖だった。
先程まで右側にあった壁が背中に当たる。突きつけられた刀の切っ先だけで上手く誘導されたのだと、止まってしまいそうな思考回路でかろうじて理解した。
顎を滑り落ちたのは、雨粒か汗か。
「…………と……あ、の……」
なんとか絞り出した声は、状況を打破するには全然足りなくて。だけどそれ以上はもう、言葉が出てこなかった。
口を真一文字に結んだ真琴に、男は痺れを切らしたか刀を引くと、ゆっくりそれを振り上げる。刀を染めていた浪士の血が、ぴちゃんと頬に跳ねた。真琴の身体は何かに縛りつけられてるかのように、少しも動かない。雨の音が、やけに遠く感じる。
刀身が不気味に光った時、あ、わたし死ぬのかと、真琴は漠然と思った。
まばたきすら許されないような緊張感の中、声を失っていたかと思っていた喉からは、最期の言葉とでも言うように。
小さく、この場にそぐわない笑い声が溢れた。
「────……え……?」
刀が何かに突き刺さった鈍い音が、耳の奥で響く。
視線を少しだけ横に向けると、顔のすぐそば、皮膚に触れるギリギリの位置に刀が突き刺さっている。それから、喉を震わす低い声。
男の意図が読めず、何故だか楽しそうに口元をつり上げる目の前の彼を、真琴は呆然と見つめた。
「テメー、今何を思った」
「え……?」
「『このまま殺されるのも良いかもしれない』……そんなところか?」
「……!」
また、声が出なくなる。心の内側でも覗かれたようなおぞましさが、全身を駆け巡った。
男は壁に亀裂を入れた刀を引き抜くと、強く振り下ろして血を弾き落とし、鞘に納める。そしてもう一歩こちらへ近づいた。頭の横の壁に片手を置かれ、顔と顔の距離が一気に縮まる。
「テメーもまた随分酔狂な奴だなァ。わざわざこんな薄暗ェ所に踏み入って、殺されると思えば笑い出す」
愉快そうに男は笑う。雨のにおいと、血のにおいと、微かな煙草のにおいが混ざりあう。間近で見た男の容姿は、やはり全然知らなくて、しかし、あの時追いかけてしまったのも無理はないと、そう思えるような容姿でもあった。
(だけど、この人……)
「テメーもこの腐った世界に大切な人を奪われたか」
蓋をしていた感情が、心が、かき乱されていく。息がつまって、溺れたように苦しい。どうしようもなく涙が出てきそうで、それを必死に堪えた。
「高杉晋助」
唐突に呟かれた言葉が、彼の名前であるということはすぐ分かった。
この名前を真琴は一方的に知っていた。過去に一度耳にした覚えがある。どうして今の今まで気付かなかったのか。彼は、高杉晋助は指名手配されている攘夷志士、犯罪者だ。一般人ではないことくらい、刀の存在で分かっていたけれど。そんな危険人物であることを知っていて、「お前は」と名を訊かれると、真琴は自分の名前を震える声で、しかし詰まることもなく答えていた。
高杉の冷たい手が、真琴の頬をするりと撫でる。先程刀から跳ねた血を、強く拭った。
「真琴、俺と来るか」
「え……、」
この人は、何を言っている。真琴は理解できなかった。そんなこと訊かれたって、答えはノーに決まっている。
それなのに、そのはずなのに何故かすぐに言葉が出てこない。
(まさか、迷ってる?)
高杉に着いていくことと、今までと同じように皆と過ごすこと。それらを天秤にかけて、拮抗しているとでも言うのか。
馬鹿馬鹿しい。そんなわけあるはずがない。だというのに、心の底に仕舞い込んでいた思いが、じわじわと真琴を支配していく。それがどうしようもなく恐ろしく、ぎゅっと目を瞑り俯く。そのまま、ふるふると横に首を振った。今の真琴にはこれが精一杯だった。
早く何処かへ行って。これ以上、わたしの心に踏み入らないで。
そんな真琴の思いが通じたか、壁に置かれていた手が、離れた。
「……まあいい」
じゃり、と土を踏む音。たっぷり時間をかけて恐る恐る目を開けば、高杉はすでに真琴に背を向けていた。
「いずれ、また会うだろう」
それは、どういう意味か。何を根拠に、そんなことが言えたのだろうか。言いたいことはたくさんあったのに、すべて言葉にならず、混ぜこぜになって心に重く残る。
高杉の姿が見えなくなり、張り詰めていた空気がとけた。膝から力が抜け、ずるずるとしゃがみ込む。
『テメーもこの腐った世界に大切な人を奪われたか』
彼は、過去に大切な人を奪われたのだろうか。だから、道を外れてしまったのだろうか。だからあんな目をしていたのだろうか。
雨足が、家を出た時よりずっと強くなっていたことに気付く。
高杉に触れられた頬を、真琴は異様なほど冷たく感じていた。