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「あ? 真琴が可笑しい?」

 だらしなくカウンターに頬杖をついていた雪は、お登勢の台詞を復唱した。その言葉を何度か咀嚼し、自分なりの返答を述べる。

「べっつにあの挙動不審さとヘタレ具合はいつものことじゃねェの」
「そら知ってるっつーの。そういうことじゃ無くてだねェ。何つーかこう、常時上の空っていうか覇気がないっていうか……」
「んだァオイ、今更不思議ちゃんキャラで行くのは無理あんぞ」
「そういう話じゃねーよ。あんだけあからさまにボケた面してりゃ、アンタも気付くだろ、雪」
「生憎、アイツ自身が最近わざとらしいほど私に会おうとしないんでね。そのモッサい面とやらは一度も拝んどらんわけよ」

 ま、その時点でいつも以上に変だけど、と雪は続ける。
 彼女が真琴の顔を暫く見ていないのは、疲れが溜まっていると踏んだお登勢が、三日ほど前から仕事を休ませていることも原因の一つではあった。しかしそれにしたって、普段はたびたび顔を突き合わせていたわけだから不信感は募るばかりだ。
 お登勢は紫煙を吐き出すと、腕を組み直し雪に告げた。

「とにかく、そんな様子で今日も朝出掛けたっきり帰って来ないのさ。つー訳で真琴のこと捜してきとくれ。頼んだよ、雪」

 少し間を開けてから「……へいへい」と気だるそうに返す雪。それから、さも面倒ですと言わんばかりに頭を掻いて、重い腰をゆっくり上げた。







 一方当の真琴はというと、夜の江戸を一人徘徊していた。
 ──高杉からの誘いを受けたあの時、どうしてすぐに答えを出せなかったのか。何故一瞬でも迷ってしまったのか。そのことばかりが頭に浮かんでは沈む。ぐるぐると後ろめたさばかりが渦巻く。
 マイナス方面に向かった思考回路は、自己嫌悪と共にどんどん加速していく。それでも、やはり自分が一番可愛くて大切で、傷付きたくなんてない。それを分かっている為に、更に自分が嫌になる。そんな負の連鎖だ。
 馬鹿みたいだと思った。自分も、どういう訳かこんな馬鹿を引き入れようとした高杉も。

(早く帰んないとさァ、お登勢さんたち心配するしさァ……)

 それは分かっているのだが、どうにも足が帰路へと向かない。それどころか、少しでも離れようとする。普段の弱腰とは裏腹に、どんどん人のいない道へと進んでいく。
 自分は一体、何がしたいのだろうか。周囲の人間から離れて、一人になって、それで一体何になるというのだろうか。思考が纏まるわけでもないし、この間に何かが解決されるわけじゃない。
 そもそも、真琴自身が勝手に問題を作っている訳であり、例えば彼女が朋子のような根っからのポジティプ思考であれば何事もなく今まで通りだったのだ。それこそ、周囲に何かを言われたわけでも遠回しに指摘されたわけでもないのだから。
 つまり、ただ単に割り切ってしまえばそれだけの簡単なこと。しかしそれは、どうやったって真琴には難しいことだった。

 ──我ながら鬱陶しいとすら思えるほどに考え込んでいたその時、左肩が衝撃を受けた。向かいから歩いてきた人物と、結構な力でぶつかってしまったらしい。真琴は慌てて顔を上げた。

「す、すみませっ……、」

 言葉が途切れる。
 恐怖と、ざわざわとした落ち着かなさと、それらを上回る、自分自身でもよく分からない、形容しがたい感情がこの一瞬で真琴の全身を支配した。
 彼女の大きく開かれた瞳に映っているのは、空にぽっかりと浮かんだ、気味が悪いほど大きい満月と、それを背景に低く笑う男。

「……ククッ、確かにいずれとは言ったが……こうも早く再会するとはねェ」

 一体、自分はどれだけ低い可能性を引き当てたというのだろう。誰もいない夜道、よりにもよって、彼と再び縁を繋いでしまうという、奇跡にも等しい偶然を。

「用のねェ散歩もしてみるモンだなァ」
「──た、か……すぎ……」

 掠れた声が、回らない舌が、かろうじて名前を紡ぐ。
 高杉の存在を脳が、全神経が把握し認識した途端に、周りの音が一切遮断された。世界から隔絶されたかのような感覚が真琴を襲う。動悸が早まる、呼吸が詰まる、肌が粟立つ。
 呆然と立ち尽くす真琴を他所に、笠の下で意図の読めない笑みを浮かべた高杉は、真琴との距離を更に詰めた。真琴は肩を揺らし、一歩後ずさる。高杉がまた距離を詰め、真琴がまた後ずさる。それを何度か繰り返しているうちに、真琴の背中にドン、と硬い物が当たった。見なくても分かる。またも彼に追いつめられたらしい。完全にあの日の二の舞だった。さらにはゆるりと右腕掬い上げられ、思わず抵抗できないでいるうちに静かに壁に縫い付けられた。乱暴な手つきではないにも関わらず、力が出せない。着々と逃走が困難な状態へと陥っていく。

「真琴」
「ヒッ……、」
「返事は決まったなァ?」
「へ、へんじ……?」

 わざわざ聞き返したが、高杉の言いたい事など分かっている。しかし、それを真琴に問うた理由は解らなかった。高杉が真琴を妙に気に入り出したのはあの一件で確かであるし(勿論、ただの真琴の自惚れであるのならそれが一番平和だが)、それ以前に過激派攘夷浪士などと言われている彼のことだ。自分の返答がどうであろうと、無理やり引きずり込むくらいはするのではないだろうか。

「どォだい、俺と、この世界に喧嘩を売ろうじゃねーか」
「わ……わたし、は……──貴方とは、違う、から、」

 それでも、真琴は必死に、震える声で最大限の抵抗をして見せる。

「わ、たしは、もっと、ただの……普通の、一般人で、貴方みたいな人とは、住む世界が違うから、だから、何で貴方がわたしを誘うのかも、分かんないし……」
「ハッ……よく言うねェ」

 高杉は伏せ目がちに笑う。すると、鼻先が触れ合いそうなほどに自分の顔を真琴に近付けた。まつ毛の一本一本すら見て取れるその近さで、彼の鋭い目に覗き込まれ、思わず呼吸が止まる。顔が痛み、頭が痛み、クラクラと目眩に近いものを感じた。彼はそのまま真琴の耳元へ口を寄せると、低く、艶のある声でささめいた。

「なら、お前の中で燻ってる感情は何だ?」

 ばしゃり。水を掛けられたような衝撃と、全身の血の気が一斉に引いていく感覚。冷たい何かが、ぞわりと無遠慮に背筋を撫で上げるようだった。

「自分でもわかってんだろ? 自分の中にいる、壊してェ壊してェとのたうち回ってる獣が。四六時中鎖を解けと暴れ回ってる黒い獣がよォ」
「そっ……んなの、知らないし!」

 自由な方の手で高杉を突き飛ばそうとするが、恐怖で力があまり入らなかったらしい。多少揺らぐ程度の効果しか発揮されず、現状打破には至らなかった。

「まァ、どっちみちお前は俺に着いてくることになるがな」
「な、何、言って、そんなの、わたしが決めること、で、」
「逃げんならそれはそれで、俺ァ構わねェよ? ……だが」

 高杉は一層声を潜めて、真琴と視線を合わせる。

「お前の周囲の人間は、この町はどうなんだろうなァ?」
「………な、にを……」

 右腕の拘束が、ゆっくり緩んでいく。わざわざ、真琴がこれまでにないほど蒼白な顔を晒したこの瞬間に、"逃げ道"を作った彼は相当に捻くれていると思った。
 そう、真琴は今、逃げようと思えば逃げられた。ほとんど力の入らない手でも振り切れる拘束。目の前の高杉を押し飛ばして、今すぐ走って逃げることができた。
 だが、そんなこと、できるはずもなかった。実質的にはともかく、感覚としてはもはや八方塞がりで、真琴にとっての逃げ道など何処にもなかった。
 真琴は精一杯の虚勢を張るように、涙で濡れた目で高杉を睨みつけた。

「……わたしの、友達に、何かする気? それとも、かぶき町に、何かするってこと?」
「ハッ、わざわざお前を引き入れる為だけに、そんな大層なこたァしねェよ。ただお前さんは運が良い。今、此方に来れば、お前さんは俺たちの計画を食い止められるかもしれねェ。その機会を与えてもらったんだからよォ」

 心底愉快そうに喉を震わす高杉は、今にも崩れ落ちそうな真琴とは酷く対照的だった。
 真琴の腕を掴んでいた手をとうとうほどき、代わりにそれを差し出す。その手を取った瞬間に、そちらへ一歩足を踏み入れることになると思うと、体の奥底からの震えが止まらない。だがこの期に及んで、この手を掴まないことがどうしてできるだろう。それにもう自分の頭では、成す術なんて思い付かないし、逆らう気すらも起きなかった。
 今、もし気絶でもできたら、どれほど楽だったのだろう。そんなことを頭のどこかで考えながら、真琴は強制などされない、自分の意思で、自ら、彼に己の手を預けたのだった。