18

「…………」
「…………」
「…………」
「(い……息苦しっ……!!)」

 話し相手になる、などとよく言ったものだ。
 斜め前を歩く河上は、真琴に船内を案内するだけで会話という会話すらしていない。「ここが〜〜だ」「アッハイ」程度だ。時間にしてものの十分程度であるというのに、真琴には一時間のように感じられた。
 ストレスから痛む胃を押さえていると、不意に慣れない光が視界の隅に入った気がした。
 河上に着いていく足を緩め、そちらへ視線を向ける。ほんの僅かばかり開いていた扉の隙間からその正体を捉えた真琴は、思わず「え、」と掠れた声を漏らした。
 それから、自分が見てはいけないものだったと、彼女が理解するのはそう遅くはなかった。
 目が眩むような紫色を、扉が大きな音を立てて遮る。扉から手を離した河上は、それからゆっくりと真琴に向き合った。
 ──ああ、馬鹿か、わたしは。やってしまった。彼が説明を入れなかったのは、わたしが知る必要のないことだったからじゃないか。それをあんな、反応なんてしなければ素通りで終われたものを、ああ、馬鹿、死ねわたし。

「見たのか」
「……み……ちょっと、だけ……」

 ──やっぱ重要なやつじゃん! ちゃんと鍵かけて管理しといてよガバガバなのはそっちの落ち度じゃん!!
 胸中悪態をつきつつも馬鹿正直に答えたが、どうせ嘘を吐いたってすぐにバレることは明白だ。彼の雰囲気で分かる。そもそも、真琴自身上手く誤魔化せる自信など一ミリもなかった。
 河上は口を開かない。真琴も顔を上げない。嫌な沈黙が二人の間に流れた。

「……あれが気になるか」
「エッ!? アッいや別にそんなあのっ……」

 「教えてくれ」と頼めば事細かに説明してくれるとでも言うのか。そんな気など毛頭ないくせに何を言う。しかし結局小さく頷いた真琴に、河上はクツリと喉を震わせた。それがどこか高杉を彷彿とさせ、やはり仲間同士仕草は似るのだろうかと妙に納得したと同時に、その恐ろしさに思わず悲鳴を上げそうになった。

「真琴殿はいちいち面白い反応をするでござるな」
「ヒッすすすみません!!」
「……その事あるごとに謝る癖をどうにかしろ。いい加減鬱陶しい」
「すみまっ、じゃなくて嘘嘘今の嘘ですナシナシ!!」
「………」
「………」

 河上はそっと真琴から顔を背けると、口元を隠すように押さえた。僅かだが明らかに肩が震えている。からかわれていると気付くには充分すぎた。羞恥と悔しさから頬が熱を帯び、思わず眉間にしわが寄った。

「クッ………何、教えてやってもいいのだが……それは拙者ではなく、晋助に訊ねた方が良いだろう。なァ、晋助?」
「ヒッ!?」

 まるで背後に高杉がいるかのような言いぐさに、真琴は反射的に振り返る。元忍とは言えど、ブランクもあり相手との実力差が圧倒的であるのなら気配に気付けないのも無理はないが、それにしたって自分の能力は衰えすぎなのでは──

「…………、」

 振り向いた先には、誰一人いなかった。

「フッ……くくく……いやァ真琴殿は本当に面白い。晋助はなかなか良い拾い物をしたでござるな」
「なっ、なんっ……なっ……」

 遊ばれている。完全に遊ばれている。
 忍者学校時代の同期に言わせれば、真琴は相手に「ちょろい」と思わせるきらいがあるらしいのだが、それにしたってこの有り様は酷い。完璧に馬鹿にされ弄ばれていた。我ながらあまりにも情けなく思えた。

「……そっ、んなことより! あれっ、教えてくれるって、さっき言ってたのは! どうなったんですか!」
「……あァ、そうだったな。仕方がない、出血大サービスでござる。教えてやろう……いや、教えてもらえ、晋助にな」
「だからっ、その手はもう……うぎゃっ!?」

 突然強めの力で河上に肩を押された真琴は、一歩二歩後退したのち結局バランスを崩した。しかしその結果尻餅をついたわけではなく、何か──少なくとも床よりは柔らかい何かに受け止められたのだった。その袖の色は真琴の脳味噌によく刻まれているもので、状況を理解した途端、真琴の背中は凄まじい早さで冷えていった。
 どこかから河上の「あとはお主次第だ、真琴殿」と究極に投げやりな声が聞こえる。
 待てアンタ、一体、何てことをしてくれたんだ。

「あ、ああぁぁぁあの、その、」
「随分とまァ、仲良くなったみてェじゃねーか」
「ヒッ……」
「で、俺に何を教えてほしいと?」

 高杉の左手が真琴の腰に回り、ぞわぞわと肌を粟立てる。残った右手は、真琴の喉をスルリと撫でるとそのまま顎を持ち上げた。
 受け止められた体勢のまま上を向かされた真琴は、自分を見下ろす高杉に顔を青に染め、口元を引きつらせている。この恐怖心が拭える日など、きっとこの先何度転生したって起こらないに違いない。

「返答次第じゃ、教えてやってもいいぜ? 勿論、タダとはいかねェがな」
「ヒイッ……!」

 果たして、大丈夫なのだろうか。
 例えば河上が真琴を陥れようとして、わざわざあの戸を開け放しておきこの流れを作ったとしたら。漫画などでよくある「そいつを見られちゃ、もう生かしてはおけねェな」などといった恐ろしい展開が、真琴を待ち受けているとしたら。
 しかし妖艶に笑っているがこの男、心なしか表情から「はよ言えやゴルァ」といったような感情が滲み出てきている気がしてならない。
 言うべきか、言わぬべきか。

「……あ、あの、そこの……部屋って……なに……?」

 さんざん迷った挙句の発言は、結局真琴に後悔をもたらした。
 おぞましささえ感じる、ギョロリとした鋭い瞳が、真琴の身を抉らんばかりに見つめてくる。──あ、これ、わたし死ぬんじゃないだろうか。いや、でも、そもそもそっちが悪いだろう。あんなこれ見よがしに隙間作っておいて。そんなに大切なものなら鍵とは言わずともせめて扉くらいきっちり閉めておけ。わたしにすべての非があるわけではない。つまり何が言いたいのかというと怖い倒れる怖いマジで死ぬ死ぬ超怖い助けて雪ちゃん銀さんヘルプミィィィィ!!

「来い」
「……えっ?」

 唐突に体から手を離されたかと思うと、高杉はその派手な着物を翻し件の部屋に向かう。真琴は一等困惑したが、逆らうこともできず彼に続いて歩き出した。
 再び高杉の手によってその扉が開かれると、目眩がするような強い紫の光が漏れ出す。入り口にもたれ掛かったままの高杉を横目に見つつ、真琴は恐る恐る足を踏み入れた。
 透明なケースに保管され、目映い閃光を放っている無数の刀。それらはじわじわとゆっくり、真琴の全身を感覚まで支配していってるようだった。これをずっと見続けていれば、頭が可笑しくなってしまいそうだと、そう思えるほどに、真琴はその刀をやけに美しく感じた。

「紅桜……それがこの刀の名前よ」
「べにざくら……」

 その名前を、真琴は囚われたように何度も反芻する。それから我に返ったのは、羊水のような役割を果たしているであろう、紅桜を包んでいた水がごぽりと泡を吐き出した時だった。
 真琴は二度ほど静かに深呼吸をし、どうにか心を落ち着かせると、高杉と向き合う。

「こ、これ……こんなにたくさん作って……何をする気なの……? ……教えて、ください」
「あァ、いいぜ……ただし、」

 高杉がまっすぐ真琴に歩み寄ってくる。それから真琴の両手首を掴み上げると、流れるような動作でよどみなく彼女を押し倒した。

 なにが、おきているのか、脳が理解してくれない。

「交換条件だ」
「……!!?!?!!?」

 色気を孕んだ低音が耳朶を打つ。眼前に迫った隻眼。猟奇的に弧を描いた唇。

「ちょっ待っ……!? いやっいやいやおか、おかしい! おかしいってば! あいやあの嘘嘘嘘嘘ごめんなさいわたしが悪かったですだからちょっと待ってェェ!!」
「待てと言われて素直に待つ馬鹿が何処にいるよ」
「(アアアアやばいやばいこれは本当マジでやばい!!)」

 縄で拘束でもされたのなら、忍者学校時代に叩き込まれた縄抜けを実践できたかもしれない。しかし真琴の手を掴んでいるのは高杉本人だ。男女の力量差……それもパワーには自信のない真琴との差は歴然だった。そもそも、目の前の圧倒的な存在感に、とてもじゃないが思考回路を上手く回すこともできず。
 自分の力じゃ、この犯罪者を一度出し抜くことすらも出来ないのか。
 いつの間にか、真琴の両手首は高杉の大きな片手で掴み直されていた。彼は空いた片手で、あろうことか真琴の身体をなぞり始める。ぞぞ、と身の毛がよだつ感覚に、真琴はひと際体を跳ねさせた。
 その指先があちこち動き回り、真琴の袖口にするりと入り込む。彼が何をしているのか、考える余裕すら彼女にはもうない。
 だがしかし、鬼兵隊が画策する事の内容を知れるチャンスでもある。それをみすみす逃すのも憚られた。いっそこのまま余裕ぶって、その交換条件とやらを受け入れるべきか。いや落ち着け早まるな。いやでもしかし……そんなことを考えているうちに、彼の少し長い前髪が真琴の額をかすった。その距離は、もはや数センチにすら満たない。

「(いやいやいやいやっ、ちょっ、待っ、む、む……、)」
「お前は──」

 ──辛うじて生きていた真琴の思考能力は、この崖っぷちの状況下において、最良か最悪かも分からぬ答えを導き出した。

「……無理ィィィ!!!」

 ゴンス!! と鈍く痛々しい音が部屋に反響する。少し遅れて、猛烈な痛みが真琴の額から全身を駆け抜けた。それは、先程まで目の前にいた彼も同じだったに違いない。
 くらくらと揺れる視界、ああ、やってしまったと、心の中で自嘲気味に呟いた真琴が最後に見たのは、額を押さえる高杉の姿。それから、彼の手から離れていく、いつの間にか探られ抜き取られていたらしい己のクナイだった。