24
目の前にたたみ一畳分ほどもある、大きなステーキがあった。
一滴、二滴と、もったいぶるようにゆっくりに滴る肉汁。辺りに充満した美味しそうな匂いが嗅覚をくすぐる。
途端に腹がぐるぐると騒ぎ始める。そういえば、しばらく何も口にしていないのを思い出した。
ごくり、と喉が鳴る。
「肉……!!!」
「だァれが肉だ」
──眼前の巨体なステーキが、見る見るうちに淡く薄くなっていく。慌てて手を伸ばそうとするも、どういうわけか腕が鉛のように重たくて動かない。
そうこうする内に霧となって消えてしまったステーキの奥には、見慣れたシルエットが浮かんでいた。それは徐々に鮮明さを増していき、その気だるそうな瞳が露になっていく──
「……はれ? 雪さん……? ……と言いますかその包帯……、」
「オメーよくもまあそんなんで爆睡してられんな」
そんなん、と言われて、羽月は妙に手首が重く疲れていることに気付いた。はて、どうしたのだろうとそこへ視線をやれば、頑丈そうな枷で壁に固定された自分の腕が。寝惚けた頭が覚醒した。
「あっ……アルェ!? なっ、なんですかこれは!?」
思わず巻き舌になるほど仰天した羽月に、雪は呆れまじりにため息を吐く。自分が置かれた状況に今やっと気付いたということは、寝ている間に拘束されそのまま今までずっと眠りこけていたということなのだろう。呑気と言えば良いのか馬鹿と言えば良いのか。
雪は面倒くさそうに頭を掻くと、先程見つけた、壁に掛けてあった鍵を取りだした。狼狽している羽月をよそに、枷の鍵穴に差し込む。カチャリ、と小気味良い音がして、羽月の手が解放された。
「あ……ありがとうございます雪さん……」
「んでェ、なんでオメーまでこんな所いんだよ」
「え? えーと……あれ……確か……あ! そう! 神楽さんと一緒にヅラさんを助けに来たんです!」
そう言って屈託のない笑みを浮かべる羽月。今度はため息すら出なかった。
どうして何の後ろめたさもなく、自身の所属する真選組の敵を助けるなど言い放てるだろう。──ああそうか、馬鹿なのか。
つまるところ、彼女はきっと、
「……オメーはそれを"良い事"だと思ってるわけだ」
「え? 今なんて……」
「何でもねーよ」
「えっ、あのっ……雪さ、うわっ!?」
慌てていたのか、足をもつらせた羽月がバランスを崩す。彼女が地面にダイブする前に、雪はその腕を掴んで体勢を立て直してやった。
「……何やってんの」
「す、すみません……」
「そういやオメー神楽と来たっつったな」
「え? あ、はい」
「……んでこう面倒事が重なんの? この船何人知り合い乗ってんだよ……しかもどうせあの天パも乗り込んできてんだろーし……」
「雪さん?」
「まァいいわ……とりあえずオメーはここで寝たフリでもしとけ。無駄に出歩くよりは安全だろ」
「え! い、嫌ですそんなの!」
「嫌ですじゃねーよ。んなフラフラしてるような奴抱えてくほど元気じゃねェの私は」
ひっついてくる羽月を無理やり引きはがし彼女に背を向けるが、羽月はキッと目尻をつり上げると雪の袖を掴んだ。
「大丈夫です! 私は足手まといなんかじゃありません! 役に立ちます!」
「あ゛〜デケぇ声出すんじゃねェよクソガキ」
「私は! ……役立たずなどでは、ありません。だから、お役に立ちますから、連れていってください」
少しずつ声色が冷静さを取り戻していく。しかし、語調は強めたまま。譲る気は毛頭ないらしい。ものぐさな雪が折れるのも時間の問題だった。
「あーめんどくせ……なんなのオメー本当……オイ、間違ってもはぐれたりすんじゃねェぞ。そこまで面倒見てやる気はねェから」
「あ、ありがとうございます! 任せて下さい!」
ドンと胸を張る羽月に、訝しげに一瞥した雪。それから再びため息を吐き、羽織りの裾を翻し────
────ドガァァアン!!!
見事なまでにテンプレ通りの爆音が二人の鼓膜を揺さぶった。
「………」
「………」
相当至近距離での爆発だったのか、轟々と耳の奥で響き続いているそれ。船内も大きな揺れに見舞われている。
羽月と雪はちらりと目を合わせると、同時に頷き合い、一目散に駆け出した。
それから、僅か三十秒後。
「あら……? 雪さん?」
「………あーあ、もう知らね」
凄まじい早さで互いを見失った二人に、ツッコミを入れてくれる者など誰一人いなかった。
*
そこに高杉は佇んでいた。息を切らした真琴を一瞥すると、ゆるりと浮かべていた笑みを一層深める。それは見ようによっては狂気的に思えて、真琴は後退りそうになる足を必死に抑えた。
「………、」
言葉が、出てこない。自分は高杉に何を言いたいのか、それすらも分からない。
ただ、彼の顔を見ると、どうしようもなく泣き出したくなった。苦しくて苦しくて、逃げ出したくなるのは圧倒的な存在を目の前にしたからか。それとも。
「……あ……の、」
それでも、踏み出さなければいけない。それはある種の使命感に囚われているようでもあった。震える足取りで、真琴は高杉の元へ歩き出した。
「真琴殿……?」
「……え?」
そんな中背後から聞こえたのは、いるはずのない人の声。
「何故、お主がここに……」
「え……あ……」
「いや、そんなことはどうでも良い。その男には近付くな」
その男、桂は腰まで伸びていた髪を肩まで切り落としており、しかしいつもと変わらぬ精悍な顔付きを、真琴に対して歪ませていた。真琴が桂と高杉に交互に視線をやっていると、何を思ったか高杉が肩を震わせた。
「オイ……ヅラ、あれ見ろ。銀時が来てる」
その言葉につられて、真琴も桂と共に高杉の視線の先へと顔を上げる。そこには確かに、屋根の上で似蔵と対峙している銀時がいた。
「銀さん……!?」
「紅桜相手にやろうってつもりらしいよ。クク、相変わらずバカだな。生身で戦艦とやりあうようなもんだぜ」
紅桜。鬼兵隊がこれを以てして世界を相手取ろうとしている。そんな化け物みたいな兵器と、銀時は闘っている。
頭の中で整理がつかないことが混沌としている。それでも、「無理だ」ということだけははっきりと思った。
「なに、やってんの……あんなん、死んじゃうじゃん……」
「……あァ、確かに、あの男はこのままでは死ぬな」
「え……?」
「もはや人間の動きではない。紅桜の伝達指令についていけず身体が悲鳴を上げている」
真琴は銀時に対して言ったつもりだったが、同じくその光景を見ていた桂は「あの男」と、似蔵に対して、死ぬと。そう思ったようだった。
「高杉、貴様は知っていたはずだ。紅桜を使えばどのようなことになるか。仲間だろう、何とも思わんのか」
「ありゃ、アイツが自ら望んでやったことだ。あれで死んだとしても本望だろう」
「……何、それ。わ、わけ……わかんない……」
──やっとの思いで出した声は、思いの外震えていなかった。
「なんで、そんなこと言うの……なんで、だって、あの人は高杉のために闘ってんじゃないの……? 仲間だと思ってるの、あの人だけってこと……? それなのに、貴方にそんな風に切り捨てられて、死んじゃうの?」
「……真琴殿。お主が何故ここにいるのかは知らんが、あの男は敵だぞ。お主が気にかける義理など…」
「……だって、」
「死んで本望なんて、そんな人、ほんとうにいるの……?」
開かれた瞳が、ふるふると揺れる。それに真っ直ぐ射抜かれた桂は、ぐ、と言葉を詰まらせた。
「……クククッ、俺はお前を随分と偽善者ぶってる奴だと思っていたが……どうやらとんでもねェ馬鹿だったみてェだな。綺麗事も通り越してただのお人好しか」
高杉は愉快そうにただ喉を震わせる。それに嘲笑の意は含まれているのか、よく分からなかった。
「お前は面白ェくらい、此処にゃ向いてねェな」
そう言うと高杉は、不意に真琴の元へ歩み寄った。あまりの脈絡の無さに真琴も桂も一瞬動きが遅れる。高杉は真琴の顎をぐいっと持ち上げ、そして。
「っ貴様! 離れろ!」
二人の間に割り込んだ桂によって、高杉は笑みを崩さないまま退いた。それから二人に背を向け、そのままおもむろに抜刀する。
桂が顔を強ばらせるも、高杉は襲いかかる気は無いのか、その刀身を眺めながら恐らく桂のみに向かって話し出す。真琴は一、二歩後退し、彼の背中を見やった。
(……本当に、なんなの)
顎を持ち上げられた際、目尻に浮かんでいた涙を親指で掬った彼の真意は、真琴には分からない。