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その顔を見た時、いっそ清々しいほどに羽月の眉間に皺が刻まれた。ああ、何故。何故にこの男は自分たち女中の聖域であるこの厨房に現れたのか。それも、よりにもよって自分がいる時に。もはや嫌がらせとしか思えなかった。
「……こんにちは」
最低限の礼儀として会釈を返した羽月は、そのまま何も無かったかのようにお茶を淹れる作業に戻る。それを盆に乗せ、お茶請けの煎餅の袋に手を伸ばしたところで、再び視界に彼の存在が入り込んできた。端的に言えば、彼の手によって煎餅を取ることを阻止されたのだ。
「……あの、離して頂けます?」
「おめーが離せばいいだろーが、羽月」
「私は局長さん直々にお茶を淹れるよう頼まれたんです。邪魔をなさらないで下さい」
「その人数分の湯呑みの中に俺のも含まれてんだよ。だったらお前が持っていこうが俺が持っていこうが同じことだろ」
「では私が持っていけば済む話ではないですか。一体何がしたいんですか貴方は」
言葉を交わせば交わすほど、苛々が募っていく。羽月が思わず掴み掛かりたい衝動に駆られた時、がらりと引き戸が引かれ、そこから女中の先輩が姿を現した。
「羽月ちゃーん、ちょっと良いかしら?」
「えっあ、はい!」
「あら、もしかしてお取り込み中だった?」
「いえ、丁度沖田さんにお茶請けのお菓子をお渡ししていたところです。このお煎餅、きっと沖田さんもお好きだと思うので、是非美味しく食べてくださいな」
「あらあら、仲良しね〜」
にっこりと愛想よく袋を手渡す羽月。今までのやりとりが嘘のように、いとも容易く手元に渡った煎餅を沖田は凝視する。そんな彼をよそに、彼女たちは二、三言会話するとすぐさま別れていった。去っていく背中に行儀良く頭を下げる羽月に、沖田はぼやく。
「……猫被り」
ぴくり、と肩を揺らしたものの、何事もなかったかのように平然とお盆を持ち上げた羽月。煎餅はもう諦めたらしい、これ以上ここにいても無駄だと言わんばかりに、彼女は厨房を後にした。早くこれを局長さんに預けて、休憩に入ろう。そう決心しながら。
しかしここでまた、羽月の苛立ちゲージにとぷり、と水が注がれた。しかも原因となっている彼にはその自覚があると、鈍感代表の羽月にでさえ気づけるほどに、人を小馬鹿にするようなオーラが出ている。
駄目だ、相手にするだけ時間の無駄だ。そう心に言い聞かせるも、羽月の気はそう長い方ではなかった。足を止めないまま、振り返らずに、羽月は沖田に平淡を装った声色で問いかけた。
「何故ついてくるんですか」
「目的地が同じなんだからそうなるに決まってんだろ。嫌ならおめーが俺の後ろ歩け」
「そんなもの御免被ります」
「だろーなァ。そんなおめーはなァんでそんないい子ちゃんぶってんでィ」
「……誰がですか。普段の私が良い子ではない、みたいなその言い方やめてください。そもそも、貴方が私に嫌なことばかりするのがいけないんでしょう」
「いやいや、お前本当大したことねェから。そのくせ妙に見栄張ってんじゃねーか。ヘラヘラヘラヘラ、白々しいっつってんだよ」
ぴたり。羽月が立ち止まり、それに合わせるように沖田も彼女の後方で足を止めた。僅か数秒の後に、羽月はくるりと優美に振り返る。その上品な仕草はずっと染み付いているものなのだろう。それだけに、くしゃりと歪んだ顔とはあまりに不釣り合いだった。
「私、本当に貴方のこと嫌いです」
「へーへ、そりゃ結構」
強い語調で言い放たれた言葉に、沖田は平然と答えた。それがまたさらに羽月の癇に障り、苛立ちを強める。いつも腹を立てているのはこちらばかりで、余裕綽々と言わんばかりの沖田の態度は、どうしたって煩わしい。
──本当は悪い奴じゃないし、なんだかんだやさしい子なんだよね。だからさァ、ほんの少しだけ、長い目で見てやってくれたらいいなって。
ふと、以前朋子に言われたことが脳内を巡る。とくに思い出したかったわけではないし、今の今まで完全に忘れていたことを、何故、今。
(…こんな人、嫌いになるなと言うほうが無理あるじゃないですか)
羽月は沖田にやさしくされたことなどなかった。女中の件で手を貸してくれたのだって、未だに真意は分からないが、今思えばあれはきっと何か見返りを求めてのことに違いない。先日の、考えようによっては羽月を案じた風な忠告も、曰く貸しを作る為らしい。そして、常日頃の人を馬鹿にするような言動。──無理、無理ですよ朋子さん。いえ、本当に、本気で、無理です。
心の中で朋子に断った羽月はそれから、あれ? と首を傾げた。そういえば、いつも突進するような勢いで絡んでくる朋子に、今日はまだ会ってない。と、軽く独り言ちる。だから返事を貰いたいわけではなかったし、まさか返ってくるとも思っていなかった。
「あ? お前聞いてねーのかよ」
「……はい?」
*
上品な笑い声。華々しいドレスやスーツ。目が眩むほどの無数の照明。飛び交う聞き慣れない小難しい単語。
この会場で唯一朋子が好きになれたのは、彼女の食欲を存分にそそる、真っ白なテーブルクロスの上に幾多も並んだ豪華な食事だけだった。──と、それから、時折見かける美男美女の絢爛な姿も追加。
「……オイ、貧相な顔になってんぞ朋子」
「失礼ですね。土方さんこそマヨは控えてくださいよあそこのオッさんガン見してんじゃないですか」
小声のやり取りののち、朋子は土方の手からすでに半分ほど食されたマヨネーズを取り上げた。彼から抗議の声が上がるが、無視。とぐろを巻いたマヨネーズの下でか細い呼吸をしている可哀想なフライドチキンに、彼女は思わず憐憫の念を抱いた。
マヨネーズをセルフサービスの調味料の中に適当に戻し、手持ち無沙汰になった右手で、朋子はそっと瞼に触れる。慣れない異物を随分付けていたものだから、いい加減ぱしぱしと乾いてきた。目が水分を文字通り渇望しているのがよく分かる。
朋子はため息をついて目薬を取り出し、部屋のさらに端の方に寄った。それから、ふたを開けて点眼する。……はずだったが、どうやっても水滴は目蓋や頬に落ちるばかりで、肝心の目に入ってこない。
「うーん下手すぎる……」
諦めて顔を下げると、低い舌打ちが耳に入る。それから、頭の両サイドが圧迫感で襲われたと同時に、朋子の視界には再び天井が映し出された。
「ぐぇっ」
その天井を隠すように、上下逆の不機嫌そうな土方の顔が朋子を覗きこむ。背後から頭を掴まれ、強引に上へ向かされた事を理解した時には、手元の目薬も彼に奪われていた。
「目ェ開けてろ」
土方の意図を理解した朋子は、僅かだけ逡巡した後、彼の指示に従い目を大きく見開いた。視界いっぱいに土方の顔が映り、ほのかに煙草の残り香が鼻をくすぐる。腰ほどまであるウィッグの毛束が、するりと肩の前から後ろへ滑り落ちた。同時に雫が落ちてくるその寸前に、朋子は「あー、土方さんやっぱイケメンだわ」などとあまりに場面にそぐわないことを考えていた。
「……オラ、終わったぞ」
「あざっす。……いや、いえ、ありがとうダーリン」
「……」
「ちょっと本気で青ざめないでくれます? 仕方ないじゃないですか元はと言えばそっちが半ば無理やりあたしを連れてきてええェェェ痛い痛い痛い!」
「でけェ声出すんじゃねェアホ! 不審がられたら計画がパーだろうが!」
「アンタに言われたかねェェェ!」
がたがたと品も無く騒いでいたせいだろう。視線がいくつか集まっているのに気付いた朋子は、瞬時に土方の腕にするりと絡み付き、上目遣いで彼を見やった。
「やだもうダーリンたらお茶目さんなんだからっ」
「……は、ハニー……も、な……」
朋子とは対照的に、びきりとあからさまに引きつった笑みを見せる土方。無理に目尻と口角を上げているせいで、気味が悪いことこの上ない。果たして彼はそれに気付いているのだろうか。
周囲の目が他を向き、なんとか場を切り抜ける。朋子は照れるように自分の頬に手を添えた──と見せかけ、ウィッグに隠れた通信機にそっと呼びかけた。それから、会場の隅で何やら話し込んでいるパーティー参加者、もとい此度の標的の動向を横目で見やる。
朋子は仕込んだホルスターの存在をドレスの上から指先で確認すると、土方と目を合わせ頷き合った────