38
「寝坊だーーーーっ!」
けたたましい叫び声が、周囲の耳の奥でわんわんと響く。よくもまあ、朝っぱらからそんなに大きな声が出せるなと、駆け抜けていく背中に呆れた目線が集まった。しかし、その本人はそんなことはお構いなしなのか気付いていないのか、乱れた髪を整えることもなく全力疾走だ。
「あら、朋子さん。おはようございます」
「おっと羽月ちゃん今日も超可愛いねおはよう!」
「何をそんなに急いでらしたんですか?」
「ちょっとね、前々から楽しみにしてたお客さんが来てるの! 羽月ちゃんもどう? 洗濯物もう終わったんでしょ?」
羽月の手元の籠が空であることを確認しつつ伺うと、さして断る理由も見当たらなかった彼女は二つ返事で了承した。それを聞くや否や、その白い腕を手袋越しに掴んだ朋子は、先ほどより速度を落としながらも再び駆け出した。
「いやーっそれにしてもミツバさんきっと驚くだろうなー! なんせこの屯所の食堂以外で、この朋子ちゃん以外にこんな若い女の子の姿があるなんて思いもしないだろうし!」
「みつばさん…?」
聞きなれない名を復唱する羽月。「羽月ちゃんも会ったら驚くと思うよ。何せ総悟の──」
そこで言葉は途切れた。目当ての部屋にたどり着いた朋子は、呆然と立ち尽くす羽月をその場に置き、部屋に踏み込む。──しかし、その部屋といえば、焦げ臭さと硝煙と隊士たちの屍で溢れており惨事そのものだった。
「な、なんですかこの惨状は……! 一体誰がお掃除をすると……、朋子さん?」
「ミツバさん!」
ミツバ。朋子がそう呼ぶ、恐らく女性を羽月は目で探す。壊れたちゃぶ台の傍で座布団に腰を下ろしている近藤。倒れた山崎ら隊士たち。それから、何故か四つん這いになっている、忌々しい沖田の姿。そんな彼の頭を撫でているのが──恐らくミツバなのだろう。その女性は、荒れ果てたその場所で一人、神秘のベールに護られているかのように美しく居座っていた。
聡明そうな顔は、聖母のような優しげな笑みを湛えている。駆け寄る朋子を抱き留める仕草一つでさえ、内の美しさが滲み出るようだった。羽月は出会って数秒で、ミツバがそういう人間であるのだと悟った。鈍感だと揶揄されることの多い自分でさえ、すぐに分かるほどの強いそれだった。
「久しぶりねェ、朋子ちゃん。会えて嬉しいわ」
「あたしも! ミツバさん体調はどう? 無理してない? てかハ〜もうまた一段と美しくなっちゃってねェも〜〜引く手あまたじゃん!」
「ガハハ! 朋子ちゃん、そんなに捲し立てたらミツバ殿が喋れんぞ」
「そうでさァ朋子、割り込んでくんじゃねーやい」
「うふふ、相変わらず賑やかねェ」
ミツバと向かい合っていた──中心の机は崩壊しているため、やや奇妙な光景とはなっているが──近藤の笑いにつられ、口に手を当て美しく笑うミツバ。
そんな彼女は、ふと敷居で戸惑っている羽月の存在に気付いた。朋子の読み通り、ミツバは羽月の姿を見るや否や、色素の薄いまつげで縁取られたその目を大きく見開く。
「あら……貴女は……」
「……ああ、姉上。あちらは住み込みで女中をしている羽月さんです。ボクもいつもお世話になっていて……」
ミツバの声に被さるようにして、誰もが予想しなかった声による羽月の紹介がなされた。朋子、近藤、それから沖田の発射したバズーカで黒焦げになっていた隊士たち。全員が一様に目を丸くし、その当人である沖田に視線を向ける。そんな中羽月はというと、ゆっくりとした動作で足元に籠を置き、ミツバの前まで近づいて膝をついた。
「……初めまして。私、真選組で女中を致しております、秋宮羽月と申します。沖田さ……総悟さん、には、いつも仲良くして頂いております」
「あら、まァ……初めまして。私、そーちゃんの姉のミツバと言います。羽月ちゃん、これからもどうかそーちゃんと仲良くしてあげてね」
「はい、もちろん」
にっこりと。誰もが完璧だと思うほどに美しく愛想のよい笑みを浮かべ、羽月はミツバの言葉に頷いた。
「だ……誰あの人たち……」
唯一の肉親に少しでも良いところを見せたい沖田と、他人に少しでも良いところを見せたい羽月の利害が一致したか。それにしたって、普段は一触即発の二人からすればあまりに異常だ。そう戦々恐々とする山崎をよそに、羽月たちのやり取りが一段落を迎えたのを見計らって近藤は提案する。
「総悟。お前今日は休んでいいぞ。ミツバ殿に江戸の町を案内してさしあげたらどうだ」
「ありがとうございます! ささ、姉上」
「え、近藤さんあたしは?」
「ガハハ! すまないな朋子ちゃん。今日は総悟の分まで働いてやってくれ」
ファーーーー! と甲高い声で叫ぶ朋子に、近藤は豪快に笑う。そんな様子を、ほんの少し、何か言いたげに眺めてる羽月には、誰一人気付くことはなかった。
*
「沖田くんのお姉さん?」
近所の団子屋で一息しにきた羽月は、偶然居合わせた真琴を見つけると迷うことなく隣に座り、今朝がたの出来事を打ち明けた。
「へェ〜あの子お姉さんいたんだ……なんか弟してるところがあんまり想像つかないような……」
「……」
「というか……羽月ちゃん何かあった? も、もしかして……怒ってる?」
「いいえ」
「いやァ〜……だってさっきから団子の量尋常じゃないんだけど……」
「私は元々よく食べます」
「それは知ってるけど……どうなってんの? 胃袋もそうだけどその細さ……う、羨ましい……」
もちゃもちゃ、ごくん、カラン。次々に増えていく団子の櫛。しかし、普段の羽月であればもっと美味しそうに、笑顔で咀嚼している気がするのだが、何故か今の彼女は淡々と真顔で団子を食べ続けている。有体に言えば大分怖かった。整った顔立ちなだけに、なおさら。少なくとも、これは甘味を味わいに来たのではないことだけはわかる。
(き……気まずっ)
咀嚼音だけが響き、妙な緊張感がその場を支配する。耐えかねた真琴は、残りの団子を一気に頬張ると高速で咀嚼し、ごくりと飲み込んだ。せっかくの至福のひと時だったというのに、まるで味がしなかった。嘘である。しっかり味わえなかったのが勿体ないほどに美味だった。
「じ、じゃあわたしはそろそろ行くね〜……」
「はい」
「お、お団子あんまり食べ過ぎないようにね……」
「はい」
明らかに静かなトーンの羽月の声を背に受けつつ、そそくさとその場を去った。一体全体、どうして自分がこんな目に遭わねばならないのだ。しかも、どうして普段あんなに愛想のよい羽月が、よりにもよって今、自分と二人きりの時にあんなに……機嫌を損ねていた、というよりは、何か言いたいのを我慢しているような、煮え切らない態度、だろうか。ともかく、羽月の発する雰囲気は、居心地の悪さを生み出していた。これも己の幸の薄さの成せる技か……そう考えて虚しくなった。
「──よォ、真琴じゃねーか」
「えっ? あれ、銀さん。……と、」
半笑いを抑えながら道を歩いていると、聞きなれた声が掛けられた。ぱっと振り返ると、銀時の他に沖田、そして彼とよく似た女性の姿があった。
偶然とは、続く時はやたらと続くものだ。その女性が、先ほど羽月から聞いた沖田の姉その人なのだろうと、真琴は一目見て気が付いた。
「銀さん、お友達ですか?」
「あー、ええ、まあ」
「えっと……話は聞いてます。沖田くんの、お姉さんですよね」
「ええ、はじめまして。ミツバと申します。そーちゃんがいつもお世話に……」
「やーっ、いえそんな! むしろこっちのほうがいつも仲良くしてもらってて……ハハ……あ、わ、わたし真琴と言います」
食い入るように見つめてくる沖田から目線を逸らしつつ、どうにか当たり障りのない言葉を紡ぎ出す真琴。そうしつつ、銀時が沖田に巻き込まれたこと、そして自分もこれから巻き込まれる可能性があることを直感した真琴は、それじゃああとは皆さんでごゆっくり〜と、フェードアウトしようとする。しかし、一歩遅かった。
「丁度いいや。真琴、お前暇だろ。呉服店だの雑貨屋だの案内してやれよ」
「えっ!? 銀さんちょっと何勝手に、」
「まァ……嬉しいけど、真琴さんにご迷惑が……」
「暇ですよねィ真琴?」
「暇すぎて死にかけてました!! 喜んでご案内させてくださァい!!」
「あら、本当……? ご迷惑じゃない?」
「いえそんなっ全然! むしろ一緒にショッピングできたら嬉しいです! はい!」
「あらそんな……とても嬉しいわ、ありがとう真琴さん」
半ば脅されて了承してしまったが、心から嬉しそうに微笑むミツバに何も言えなくなった。こちらを気遣って何度か確認も取ってくれたし、弟とはまるで違う良識人だ。最近もっぱら変わり者ばかりに囲まれていたため、あまりの新鮮さに一種の感動さえ覚えてしまう。
(全然良い人だと思うんだけどなァ……羽月ちゃんなんであんな顔してたんだろ……?)
だが、考えても考えても、羽月の気持ちは真琴には計り知れなかった。