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「最初は、私、わからなかったんです」

 ──医師たちによる施術の音だけが、硝子の奥から微かにする。誰もが閉口してその様子を眺める中、羽月はゆっくりと、静かに口を開いた。

「でも、やっと理由がわかりました。私あの表情を知ってたんです。人が、人を思いやる時の顔。それも、自分を犠牲にして、相手の幸せを願うような。自分のことはもう、どうでもいいって……思ってるような」

 隣で拳を握りしめていた沖田は、彼女に目を向けることはなく、黙って耳を傾けている。その横顔が、何を思っているのかは誰にも測れない。

「分かってるつもりなんです、本人は。ちゃんと幸せにならないといけないって。自分のことを大切にしてくれる周りの人のために、自分でも自分を大切にしないといけないって。でも、だけどどうしても、心のどこかで思ってしまうんです……自分がもう、長くはないって、わかってるから」

 羽月は思いを馳せるように瞼を閉じた。そこに浮かんでくるのは、自分をここまで、ずっと育ててくれた老爺の顔。たくさんの皺を刻みながら、豪快に笑う彼には笑顔がよく似合った。その笑顔が一見気付かない程度に、しかし確実に変わってしまったのは、いつからだっただろう。自分の持ち得るすべての愛情を、自分自身にかけることなく、人に注ぎ切ってしまうような。そんな感覚を、羽月は覚えていたのだった。

「だから、私、あの人を見て、ずっと胸がざわざわしてたんです。苦しくて、気持ちが悪くて。ずっとイライラしてるんだと思ってました。私、出会って間もないあの人のこと、嫌いになってしまったんだと思ってました。でも、違ったんです」

 沖田は、何も喋らない。羽月の澄んだ声が、真っ直ぐな言葉が、静かに耳に溶けていく。

「きっと私は、こわかったんです。かなしかったんです」

 もはや羽月は、沖田に語りかけてはいなかった。その言葉は、かつての何もわからなかった自分へ向けられていた。

「かなしいなぁ」

 単なる独り言だからか、繕う心の余裕すらないのか。羽月の口からぽろりと零れ落ちたのは、普段は誰にでも使う敬語を取り払った、飾り気のない、そして嘘偽りのない言葉だ。

「生きてほしいなぁ」

 心からの願いだった。ミツバとの交流も、ましてや思い出なんて無いはずだけれど。それでも、一度縁を結んだ人間が死へ向かっていることが、羽月には耐えがたかった。痛いほどに締め付けられる胸に、思わず下唇を噛みしめる。裂けて血が滲みそうになるその手前で、廊下の向こうからやってきた近藤に気が付いた。

「総悟。いい加減お前も休め。羽月ちゃんも、きっと眠気も空腹も限界だろう? 下に売店があるから、ホラッお金あげるから何か食べてから寝て来なさい」

 彼の言葉で自覚したか、羽月の胃袋が、ぐう……とタイミングよく唸った。どんなに感情が乱れていようと、腹が減っていては気が滅入るばかりだと羽月は十分に知っている。少なくとも、自分自身の場合はそうだった。彼女は素直に近藤の言葉に甘えることにし、差し出された小銭を受け取ると、黙ったままの沖田に後ろ髪を引かれつつその場を去って行った。







 近くのベンチに腰を下ろし、売店で購入した総菜パンをペロリとたいらげたところで、羽月は考えた。大嫌いなはずの、沖田についてだった。どうして彼は、ミツバとはほとんど他人と言っても良い自分をここへ連れてきたのだろうか。たまたま近くにいたから? 少しでも不安を消し去りたかったから? どれも違うような気がした。彼は、羽月が行くべき明確な理由を、知っているような様子に思えて仕方がなかった。しかし、考えても考えても、その理由を羽月は知らないのだ。見当さえつかなかった。

(……考えていたって、仕方がない。分からないものは分からない)

 元々考えることは得意ではなかった。わからないならば、訊くしかないのだ。しかし、そんなことを訊ける状況ではないことくらいは、さすがの羽月もわかっていた。羽月は理由を探すことを諦める他なかった。
 腹も満たされたところで、羽月は先ほど横を通って見つけた仮眠室へ向かおうと腰を上げる。しかし、遠方の階段から見慣れた制服が降りてくるのが見え、思わず動きを止めた。近藤だ。後ろにはパーマの青年の姿も見える。はて、あんな髪型の隊士が真選組にいただろうか……?

(あれ……沖田さんがいない)

 早足で出入口の方向へと向かう二人。しかし、あの面子であれば沖田の姿があっても良いのではないだろうか。だが、二人の神妙な面持ちに気付いていながら、声をかける気は起きなかった。しばしば鈍感であると揶揄される羽月ではあるが、そこまで野暮ではない。
 もちろん沖田はどうしただの、どちらへ行くのかだの、訊きたい気持ちが無いと言えば嘘になる。しかし羽月は、その二つの背中が病院を後にするのをただじっと眺めていた。

 それから──仮眠室のことは一旦忘れることにし──ミツバのいる治療室まで戻ると、案の定そこには沖田が一人でいるのが見えた。否、床に座り込んだ彼が凭れ掛かる長椅子には、真選組と何かと縁のある万事屋の主人が、寝転んで鼾をかいている。

「……沖田さん、」

 貴方は行かれないんですか。そう聞ける雰囲気ではないことくらい、羽月にもわかった。……昔はさして必要もなかった察する力というのが、江戸にきて、真選組にきて、多くの人との関わりの中でいくらか磨かれてきたようだった。
 沖田の目だけがこちらを向く。その中にどこか含まれる僅かな弱々しさと、それを遥かに上回る、覚悟を決めたような意志の強さが、どうしてか羽月の胸を締め付けた。

 沖田は羽月から視線を外すと、おもむろに立ち上がる。気が付けば、その背後にいた銀時も眠りから覚めていた。目の下に立派なクマをこしらえているあたり、今まで狸寝入りを決め込んでいたのかもしれないが。
 二人は一言二言、くだらないやり取りを交わすと、そのまましっかりとした足取りでこちらに向かって歩き出す。羽月には何も声をかけない。羽月も、何も聞かなかった。
 静かな空間だった。足音だけが響いていた。二人が──沖田が、羽月の隣を横切ったところで「沖田さん」とその名が呼ばれた。
 ぴたりと足が止まり、今一度羽月と沖田の視線が交わる。彼のその顔を見て、彼女はほとんど全ての言葉を呑み込んだ。ただ一つ、声を掛けるとするなら────

「いってらっしゃい」

 沖田は少し驚いたように目を見張った後、羽月と──硝子の向こう側に向けたように、「いってきます」と小さく呟いた。