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暑い日だった。
皮膚を痛いほどに突き刺す、殺人的な陽射しだった。止めどなく汗が流れ、残った絞り滓みたいに体がカラカラに渇いていく。溺れもがくような息苦しさと、目眩がするほどに揺らめく陽炎の中。色濃く深い影が、鎖のように足に繋がっていた。
それはそれは暑い、夏の日だった。
*
*
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「残党ねェ……」
ぺらりぺらり、とそのホチキス止めの資料を手で弄んだ朋子は、目の前で煙草をふかす上司に視線を向けた。応えるように、ちらりと彼の鋭い眼光だけがこちらに寄越される。
「一応言っておくが、形式上伝えといただけであって
「
「どっちだよ」
──先日の一件から療養中の身であった朋子と土方は、医者からしばらくの謹慎を命ぜられていた。とはいえ、ある程度まで回復はしており、揃いの松葉杖とも本日からおさらばだ。その驚異的な回復力に、医者は驚きを通り越してやや気味悪がってさえいた。誠に心外である。
「つーかアンタ、お医者様に怒られますよ」
「あ?」
「煙草。治り悪くなるからって止められてたじゃないですか」
「……黙っとけよ」
「さーァどうしよっかな〜」
「減給すんぞ」
「ちょ職権乱用反対!」
親指を下に向け騒ぎ立てる朋子。身体は負傷してもその手と口の煩さは健在らしい。顔をしかめた土方は「用はそれだけだ」と、追い払うように手をはためかせる。未だ文句ありげな朋子だったが、未だ全快とはいかない片足を庇いつつ、しぶしぶと立ち上がった。
「それから」
資料を持つのとは逆の手を襖にかけたところで、土方が付け加えるように口を開いた。こちらを見ることもなく、また朋子も振り返ることはない。互いの表情を見ることなく、一度切られた言葉が続けられる。
「この件はくれぐれもアイツには内密に頼むぞ」
「……土方さんわりと私情挟むよね」
「……」
「ちょ何で刀抜くのねえまってまってわぁーってますから! へーへーへー!」
ったく、形式上はどうしたよ……そうぼやきながら、朋子は緩慢な動作で副長室を後にした。
*
日常は、非情にも元の姿に戻るのが早い。何かが変わろうと、欠けようと、いつの間にかその隙間は埋まり、わからなくなる。しかしそれは実のところ「元の姿」などではなく、何らかの変化を内包していて、例え元に限りなく違くとも、れっきとした別の「何か」なのだ。そうして、元の姿から「何か」にすげかえられた日常を過ごすうちに、失ったモノの記憶や感覚は少しずつ、確実に、薄れていく。日常には「必要のないもの」に変わっていく。どれほど過去に心を痛めようと、普通に生きていけるようになる。慣れてしまうのだ。
そうやって幾度となく変化を乗り越えてきた。それが正しい生き方だとわかっていた。そうしないと、数えきれないほどの失ったモノを抱えたまま、引きずったまま、前に進むことなどできなかった。
それはどんなに、悲しいことだろうか。
この先も、どれだけ大切なモノを失おうと、こうして日常は戻ってくるし、いずれ慣れて、普通に生きていけるようになってしまうのだろう。
本当は不変を求めていたかった。何も変わらない、ぬるま湯のようなあたたかい日々にずっと浸かっていたかった。そう望むのは悪いことなのだろうか。愚かだろうか。そんな問いの答えを探したところで、それこそ何も変わらないことくらい、わかっているのだ。
*
「よォ」
────自室に向かう途中に短く呼び止められ、顔が引きつりそうになるのをなんとかやり過ごす。間の悪い時に、と内心愚痴を漏らしながら、朋子は振り返った。
「総悟隊長じゃーん、どしたん?」
「隊長様を差し置いて副長殿となァに話してたんでィ」
「え!? いやん気になるのォ? 嫉妬なんてかーわいィィいいだだだだだ! ただの報告書の提出ですゥゥ!」
「嘘こけてめーはまだ療養中だろーが」
「あーはいはい見栄張りましたごめんっさい! 前に出した書類のミスで怒られたのォ〜もうやめてよすでに散々グチグチ言われてんだって!」
勘弁してくれ、と疲れを滲ませた顔で頭を振る朋子。そんな彼女を訝しげに見つめた後、沖田はやれやれと長いため息を吐いた。
「ま、そうだな。優秀な上司には無能な部下がつくほうが釣り合いが取れるってもんでさァ」
「あっそれわっかるゥ〜良かったね超優秀な朋子ちゃんが部下についてて!」
「どの口が言ってやがんでェへっぽこスカポンタン」
「いや滞納サボり常習犯の総悟隊長だけには言われたくないね! つーかボキャブラリーのチョイス古くね?」
「仕方ねーから、有能な上司様が手伝ってやらァ」
「え?」
ひらりと差し出される手のひら。それを凝視した朋子は、不服そうに目をすがめて見せた。
「いや、別にちょいとミス直すだけの簡単なお仕事なんだけど……」
「前科持ちが何いきがってやがんだ。オメーに任せてたら一生かかっても終わんねーよ。いいからその書類見せろ」
「は〜!? 朋子ちゃんをなめないでよね! このくらい余裕だっつーの! ひとりでできるもん!」
「きめェ声出すな人間ヘリウム。上司が手貸してやるってんだから遠慮すんじゃねーやい」
「だァから大丈夫だって」
朋子はポケットをまさぐると、巡回中に子どもから貰ったソーダ味の飴玉を取り出した。それをぽん、と差し出された手のひらの上に乗せる。
「あたしのミスなんだから、総悟様がいちいちお気になさらなくていいんだってェ」
いつものようにお道化た口調。そのまま空になった手を持ち上げ、朋子は沖田の丸い頭をがしがしと撫で付けた。沖田はそれを黙って受け入れる……かと思えば、その手を乱暴に払いのけ、呆気にとられる朋子を鋭い眼光で睨み付けると、
「────……いつまでも餓鬼扱いしてんじゃねェぞ」
前髪が揺れる。ぴりびりと振動が伝わる。眼前に迫ったふたつの目。落とされた陰に視界が暗くなる。未だかつて、聞いたこともないような、低く重く、冷たい声。巻き込まれて引っ張られた髪が酷く痛い。
壁を背に、勢いよく頭の左右すれすれに叩きつけられた手に、朋子はきゅっと口を結んだ。
手が、伸びる。
片方の手が、肩のそばを通り、肘の横を通り、腰に落ちる。その裾に、ゆっくりと、音を立てず、悟らせないよう、伸びていく────
「────餓鬼だよ」
がしり、と。
伸びた指先が、資料を内側に隠したそのジャケットに触れる前に、朋子の手によって捕らえられた。
「……チッ」
しばしの沈黙と睨み合い。それが沖田の舌打ちで解かれると、朋子は彼の腕を掴んでいた手をそっと離した。沖田は圧迫されていた手を煩わしそうに軽く振ると、それ以降は彼女と目を合わせることなくその場を去って行った。
残された朋子は、その背中が見えなくなったところで、張り詰めていた息を小さく吐き出す。それから、自分も自室に戻ろうと踵を返したところで沖田が落とした飴玉をゴリリと踏みつけ醜い悲鳴をあげた。
(────……あれ、私、どうして、隠れて、)
曲がり角に息を殺して身を隠す影に、気付くものはない。