猫は恩返しせず

 実にのどかな日だった。穏やかな気候の中、沖田は屯所の縁側にて仰向けにうたた寝していた。仕事? いんや、人間、時には休息が必要なんでィ。誰にともなく説明を入れながら、彼は心地よい空気の中微睡む。
 遠くでドタバタと忙しない足音が聞こえた。続けて聞こえてくるのはよく通る朋子の声。ったく、いつまでたってもアイツはお子様だねィ。自分のほうがずっと年下であるにも関わらず、達観したように胸中でそんな感想を述べた。
 しかし、その騒がしい音がどうにもやまないため、沖田はお気に入りのアイマスクをずらしながら、不服そうに上体を起こす。一発バズーカでもブチ込んでくるか──そんなことを考えていると、視界に何か不可解なものが映った。

「あ?」

 前方に植えられた木から、コロン、となにかが落ちてきた。あれは一体なんだろうか。あれは木の実や果実の生るものではなかったはずだし、猿も木から落ちるとは言えど、野生の猿に早々お目にかかれるはずもなく。

 寝ぼけ目で不明瞭な視界の中、じっと目を凝らすと──それは下駄の片方だった。しかも恐らく、かなり小さい。もしも沖田が履けば踵がまるごと出てしまうのでないかと思われた。こんな小さな下駄を履くのは、この屯所内において一人しかいない。
 沖田は気だるそうに縁側から腰をあげ、その木にゆるゆるとした足取りで近づいた。

「何してやがんでェ、羽月」

 木から数メートル離れた、しかし声はしっかりと届く距離感で沖田は声を掛ける。太い木の幹の上に乗り、四つん這いになって何やら腕を伸ばしていた羽月は、おもむろにそちらへ首を回して冷たく言い放った。

「……貴方には関係ありません」
「へー」

 沖田の適当な返事を受け、羽月は再び前を向き直した。不安定な足場の中、懸命に手を伸ばす先には何があるというのか。気になってよく見てみると、葉の陰に隠れて何かが蠢いているのがわかった。あれは──子猫だ。
 登ったはいいが、下りられなくなったというところか。それに気がついた羽月が、自らも登り助けにいったと見て、ほぼ間違いないだろう。しかし、あの動きづらそうな女物の着物姿のまま、よくもまあ木を登ろうなんて考えられるものだ。野生児か。

「おいで、おいで」

 普段よりも高く、舌で転がすような甘い声。沖田は彼女のこんな声を聞いたことがなかった。それどころか、沖田に普段向けられる声は普通の声よりも低く冷淡さを帯びていた。

「大丈夫です、怖くないですよ、ほうら」

 彼女は相変わらず誰に対しても、猫に対しても敬語を使う。流石に何の恩恵も受けていない見ず知らずの猫に払う敬意などはないだろうから、やはり癖のようなものなのだろうと沖田は思った。そもそも、羽月が敬語を相手への敬意を示すために使っているのであれば、沖田に対してタメ口で話さないわけがなかった。

「ささ、こっちに来てください」

 羽月がいくら声を掛けても、子猫はその場から動かずぷるぷると震えている。その様子にとうとう痺れを切らしたか、羽月は注意深く両手を離して、その猫に腕を伸ばした。

「落ちんぞ」
「貴方には関係ありません」

 先程と一字一句違わぬ返答。暗にお前と話す気はないと言っているようだった。それもそうだ、何せ羽月は、沖田のことがめっぽう気に食わないのだから。
 だから沖田自身も、無視してその場を去ればいいことはわかっている。それなのに、彼は何故かその場から動くことができなかったのだ。

 小さく震える伸びた手が、すかさず猫の胴体をがしりと掴んで捕らえる。「やった!」羽月は歓喜と安堵の声を漏らした。しかしそれも束の間、突然のことに驚いたのか子猫が大きく身をよじった。

「あっ……駄目!」

 暴れる子猫を、身を乗り出すようにしてなんとか胸に抱き抱える羽月。ようやく子猫は、羽月の腕の中に大人しく収まった。その直後のことだった。
 ──ふわり。
 羽月の体を、どこからかやってきた浮遊感が突き抜ける。かと思えば、なんと奇怪なことか、足下に青が広がり、空は突然行き止まり。これは、そう、天と地が逆転しているではないか。はて、これはなんだ?

「えっ……?」

 困惑しながら、少し離れた沖田の、上下逆さまの大きな瞳が、さらに丸く張られるのが見えた。しかしすぐに視界から消えてしまう。その時羽月はようやく状況を理解したのであるが、そこから対処するにはあまりに彼女の思考は動いていなかった。

 せめて、と思ったわけではない。しかし羽月は無意識に、自分より抱えた子猫の方を庇うように体を丸める。そうして羽月は他になす術もなく、重力に抗うこともできず、地面に落下──

 した、かに思えた。

「ってェ……」
「う……ん……?」

 多少の衝撃はあったが、どこも痛くはない。羽月は反射的に瞑っていた瞼を開く。目の前にあったのは、さらさらの木蘭色の頭髪。歪められた端正な顔は、紛れもなく彼女の嫌いな人間のもので。
 羽月の華奢な背中にしっかりと回されていた黒い腕が、微かな体温が、離れていく。

「お……き、たさ……」

 羽月の腕の中に収まっていた子猫が、にぃ、とか細い声で鳴くと、するりとそこから抜け出す。「んぐっ!」そしてあろうことか仰向けになった沖田の顔面を通り、逃げてしまった。

 あまりの事態に、ますます思考が働かない。働かないながらも、密着したこの体勢のままでいてはいけないことだけはわかった。羽月は下敷きにしていた沖田から慌てて降りると、腰を抜かしたようにその場に尻餅をついた。

「オイ……」

 ようやく解放された沖田が、ゆらりと上体を起こす。それから一歩二歩、しゃがんだままふらふらと羽月に近付いた。そしてその彼女の胸ぐらをふん掴むと、顔と顔をぎりぎりまで突き合わせ、しっかりと間近にあるその目を見て言い放ったのだ。

「馬鹿かてめーは! 危ねェだろうが!」

 ──それは、普段の喧嘩腰ではなかった。まるで叱るような、心配するようなそれに、羽月は面食らったようにきょとんとする。しかし、柄でもない自分の言動に、最も驚いていたのは沖田自身だった。何故自分は、こんなことを、こんな風に。

「ご……ごめんなさい……」

 羽月がなんとか絞り出した謝罪に、沖田は舌打ちを一つ落として、胸ぐらを掴んでいた手を軽く突き飛ばすように放した。それからすぐに立ち上がり、地面に座り込んだままの羽月に背を向けると、早足で逃げるように去ってしまう。

「お、沖田さん!」

 羽月はそんな彼を慌てて呼び止めた。しかし、沖田が足を止めることはない。それでも羽月は大きく息を吸って、その場から声を張り上げる。

「あ、りがとう、ございました!」

 ──人から何かをしてもらったら、お礼を言いなさい。
 彼女には、彼女が幼年「おじいさま」から教わったことが、しっかりと根付いている。例えその相手のことが気に食わなかろうと、やさしくしてくれた人に「ありがとう」を伝えることがどれほど大切なことか。彼は深く深く羽月に説いた。お世辞にも物覚えの良いとは言えなかった羽月の、骨の髄にまで染み渡っている教えだった。
 沖田は何の反応も示さずにその場を去っていく。羽月の想いは、果たして彼に届いただろうか。



三周年企画/沖田と赤主の話