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夏が嫌いだった。
「何してんだ、てめェ」
「……関係ない」
じわり、じわり。全身が暑さに侵されていく。噎せ返るような熱気。流れる汗はそのたびに命が搾り取られているようで、このままカラカラに蒸発して消えてしまいそうだった。にも関わらず、少女はただそこにじっと立っていた。声を掛けてきた男には一瞬目をくれるも、すぐに視線を落とし、ただただじっと足元を睨み付けていた。
男はその精悍な顔立ちを怪訝そうに歪めたが、すぐに興味を無くしたように踵を返して去っていった。暴力的なまでの日の下に残された少女は、依然としてこの世のすべてを憎むような、周りのすべてが敵であるような、到底年端もいかぬ子どものできる表情ではないといった形相でいた。
それからどれほど時間が経ったのだろうか。
再び足音が聞こえた。息をのむような声を聞いて、少女は一瞬声を上げそうになったが、その正体を目で確認してすぐに落胆する。
なんだあいつ、また戻ってきたのか。
そう思った途端、ずっと止まっていたと思っていた世界が、どういうわけか動き出した。ぐるぐる、ぐるぐると、それは渦巻き状の──いつか食べた、桃色と白の薄べったい飴を思い出させた。
今度は足元が急に軽く感じる。重力を失ったみたいにふわりとしていた。足首に羽でも生えてきたみたいだった。
「────!」
何か聞こえたような気がしたが、少女の耳は上手く音を拾うことができなかった。ただ、こちらに伸ばされた無骨な手だけはちゃんと視界に捉えることができた。それがどうしてか、こんなにも暑い熱い日の中だというのに、焦がれるほどあたたかそうに思えた。彼女は差し出された手のひらに向かって──まるでそれが、暗闇の中に差し込んだ一筋の希望の光のように、自分を救ってくれる光だと、確信したかのように。ある種の安心感さえも、その端っこに乗せて、まだ幼さの残るその手を真っ直ぐに伸ばした────。
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夏が好きだった。
「あっ……つゥ〜い……」
もはや汗を拭う気力もなく、ばたりと仰向けに倒れ込む朋子。草や土が付くことも気にしないで、彼女は地面に転がり荒れた息を整えていた。
「あつい……あぢいィ……何があついって、この、陽射しと、長々とした、髪……」
ぐちぐちと文句を垂れながらも、しばらくすると落ち着いたらしい。肺の苦しさが抜けていくのを感じながら、伏せていた瞼を開けば、一瞬で視界は青に染まる。暑すぎるのは難点ではあるが、それでも、真っ白な紙にソーダ水をぶちまけたような、清々しいくらい爽やかな夏の青空が朋子は好きだった。
「切っちまえやいいじゃねェか」
傍らにいた幼い少年、沖田に提案され、朋子はぐっと上体を起こす。顔のそばで揺れる、己の腰まで伸びた髪の毛を指先で弄った。
「そうしよっかなァ……邪魔だし」
もともと、長い髪にこだわりを持っているわけではなかった。ただ何となく、伸ばし続けてここまできた。だが稽古の度に結ぶのも、慣れてはいるがよく考えれば手間であるし、今日のような猛暑日には鬱陶しくて仕方がない。そろそろ潮時かもしれないな、そんなことを考えていると、突然頭を衝撃が襲った。
「わっ!」
それは痛みを伴うものではなかったが、しかし快か不快かと問われれば後者に分類されるだろう乱暴な手付きであった。ぱしぱしとはたかれたり、がしゃがしゃと揺するように弄られたり、優しく撫でられるのとはあまりにも程遠い。朋子はむっと睨み付けるように振り返り、犯人である青年を見上げた。
「何すんのさァ〜」
「草だらけの泥だらけだ」
「別にいいじゃん」
「おめーは女なんだからよ」
「……女関係ないし」
また、むっ、と眉間のシワが深くなる。男所帯の道場で、唯一女の身である朋子は、それでも強く逞しい男性陣と肩を並べていたかった。女であることを捨てたいとまで思っていたわけではないが、あからさまに性差を覚えさせる彼の発言に機嫌を損ねてしまうのも無理はなかったのだろう。その様子に気付いた青年、土方は、結われた髪が乱れることも気にせずガシガシと後頭部を掻く。
「……じゃなくてだなァ」
何か言いづらいことであるらしい、何度か言い淀みながらも、そのフォローの言葉──それは紛れもなく彼の本心でもあった──を放つ。
「俺と違って綺麗な髪してんだからよ」
「……!!」
柄でもない発言をした自覚はあったらしい。土方は決まり悪そうに、くるりと踵を返してどこへともなく歩き出し、朋子と距離を取ろうとする。その結われた黒の毛束が美しく揺れるのを見て。朋子は自分が息を止めていたことに気がついた。
──綺麗? あの綺麗な髪よりも、綺麗? そうあの人が感じたの?
じわり、じわり。元々火照った頬がさらに熱をもつ。心臓が静かに、速く跳ね始める。それらの、えも言われぬ心地よさ。
これはなんだ? 先ほど不快だと思っていた、乱暴に髪を弄った手つきですら、途端に記憶の中で快に転換する。
これはなんだ? きゅっと閉めていた口元が、どうにも抑えられぬほど、勝手にうずうずと持ち上がっていく。
「……総悟、あたしやっぱり長いままでいようかなァ」
「……いんや、おめーは短いほうが似合う」
「えっそう〜!? え〜どうしよっかな〜!」
「チョロすぎかよ」
冷めた目が朋子を刺すが、彼女はまるで気付いていないように頬に手を当てながら身をくねらせる。沖田は一つため息を吐いてから、遠く離れた土方に届くように、大きく息を吸い込んだ。
「土方もかーちゃんの腹ん中にセンス落っことしてきたんじゃねーのォ? こいつァぜってー短ェほうがマシだろ。しかもクッセー台詞まで、ププ」
「てめェ喧嘩売ってんのかァァ!!」
「おーい近くに川あったからお前ら……ってあーもう! 何喧嘩してんの! ただでさえ暑いのに騒がないの!!」
「あっはははは!」
戻ってきた近藤も加わり、どんどん騒がしくなっていく。天高く昇る夏の陽の下で、朋子は楽しそうに、幸せそうに、腹を抱えて笑った。
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「いやァ、夏といえばやっぱ祭りだな!」
一人の隊士が、胡座をかいた膝をぱん! と叩いて断言する。それを受けた他の隊士らが、何を負けじとと口々に主張した。
「いんや、縁側でキンッキンに冷えたスイカだね!」
「それよかビールだろ!」
「夏と言やァ海に決まってらァ!」
「おっいいねェ! 青い海、白い砂浜、そして輝かしいビキニから覗く白い女体……いっで!」
「てっめ子どもの前だろーが!」
「誰だよ海なんて言い出した不届き者はよォ!」
「あはははっ!」
下世話な話にも愛らしくきゃらきゃらと笑うその少女に、隊士らは満足そうに、あるいは一層楽しそうに、またあるいは気色の悪いほど笑みを深める。この人懐っこい少女は、常中むさ苦しい真選組屯所内において一種の清涼剤のように空間を癒し、浄化していた。彼女の招かれた客間には、多くの隊士が暇を縫って代わる代わる訪れていた。
その賑々しい様子を、部屋の隅で立ったまま見下ろしている人物が二人。
「……テメーはよォ」
ぴきり、と土方の眉間に皺が刻まれる。これはまた、武士の情けで屯所内にも残された喫煙所あたりで、ニコチンを多量接種しにいくだろうなと朋子はどこか遠くで考えた。
「俺ァテメーの仕事じゃねーといったはずだが……余計な面倒にまで首突っ込んでるたァ大層仕事熱心なこった」
「てへっ」
「ソレが完治した暁には、他隊の書類もテメーに回るよう調整してやらァ」
「いやァ〜ハハハ、マジ勘弁ってんですよォ……! あたしだってこんな展開になるたァ予想外だったもんでね〜え?」
周囲に聞こえないよう──とはいえ、青子は他の隊士たちとのお喋りに耳を傾けており、こちらのことは一向に気にしていなかった──声を潜めながら二人は話し込む。珍しく反省しているらしい、眉を曲げながら視線を泳がせている朋子に、土方は眉間を揉んだ。
脳内で、青子から受け取った父子の写真と、今朝方朋子にも渡した、顔写真付きの書類を照らし合わせる。またひとつ、ため息が漏れた。
「で、どうするつもりなんだ。お前」
「……ま、どうもこうもやるこたァ変わらないでしょうよ。あの子の親族調べて、駄目ならウチで引き取り手探す。元の仕事もキッチリこなす。ま、そこまではあたし『たち』の仕事じゃあないですけどね」
暗にお前の仕事でもないんだぞと、自分のことは棚に上げて含ませる朋子。もともと土方は、真面目と言えば聞こえは良いが働き過ぎのきらいがあった。
「おうい、朋子ちゃん」ふいに青子を取り囲んでいたうちの一人に呼ばれる。どうやら、青子はそろそろ家に帰るつもりらしい。開きっぱなしの襖から外を見やれば、確かに青い空に橙が溶けはじめているのが見えた。もとより見送りをするつもりとはいえ、あまり遅い時間に幼い少女を帰すのも良くない。
「じゃっ、青子ちゃん。おうちまでパトカーでビュビュンと送ったげるね! そこの頭ツルツルのおじさんが」
「って俺かよ」
華麗にツッコミを入れた原田であったが、確かに本調子でない朋子に運転などさせられないのも事実。彼は立ち上がって、にこやかに青子に手を差し出す。しかし。
「大丈夫だよ」
「え?」
「わたし、歩いて帰りたい」
「ええ? でも、結構おうちまで遠いんじゃ……」
「そんなことないから大丈夫! あとね、もうちょっと、その……」
「ん?」
もじもじと照れ出す青子に、原田はクエスチョンマークを浮かべる。そんな彼を無視して、青子は朋子にちらりといじらしく視線を向けた。
「朋子おねーさんとおはなししたいなぁ、って……」
搾り出すように語られた希望に、朋子はしばし目を瞬かせる。それからニッと笑って「もちろん!」と嬉しそうに返した。
「いやー……わかんねェな、子どもの好みって」
「いやそれは失礼じゃないかね原田どん」