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コッ、コッ。疲れと恨みの籠った音を、高すぎず細すぎないヒールと地面が奏でる。途中、道の端にいたホームレスが不機嫌そうに視線を投げたが、笠の下の彼女の顔を見るや否や、己の存在を限界ぎりぎりまで希薄にするために呼吸と瞬きを止めた。
彼女の機嫌の悪さは、その曲がった眉や口元からも明らかだった。ここ数日用心棒として働いた労力と時間が、イレギュラーの登場ですべて無駄になった。有り体に言えばタダ働き。気分は最悪だ。ボランティアほど苦労に見合わない馬鹿げたことなどないというのに。
鬱陶しいほどの暑さも相まって、苛立ちは収まるどころか増すばかりだ。じわりと汗の浮く首元を、後ろ髪を払って外気に晒すが、一時的なそれが涼を与えてくれるわけでもない。暑い、暑い。誰に聞かせるわけでもなく、また小さく舌を打つ。通算四回目。その響く音はどんどん洗練されていった。本人からすれば嘆かわしいことだが、もはや舌打ちのプロといったところである。
「おーい、雪ちゃあ〜ん」
そんな彼女の様子を知ってか知らでか、耳慣れた間抜けな声が彼女を呼び、雪は胸中の忌々しさを増幅させる。殺意さえ籠って見える重々しい視線を寄越せば、すぐ傍ら、ゴミ捨て場の山積みの袋を布団にして、広々と大の字に寝ている白髪の男が一人。そいつが力の抜けた手を持ち上げ、おちょくるかのように雪に向かってゆらゆらと振った。
「よ〜ォこんな夜更けまでお仕事たァごくろぉなこって」
「そゆオメーはようやく己が社会のゴミだって気付いたかカス」
「いつにも増してんなァ〜。そのよぉすじゃあ一件フイにしちまったってとこかァ」
ピクリ。銀時の鋭い指摘に、雪の目尻が僅かにひきつる。大酒食らって前後不覚にでもなっていると思わせておきながら、その観察眼は健在というのだから油断も隙もあったものではない。
「家だいすきなお前がめずらしい〜く何日も帰ってこねーからやさしーぎんさんは心配してやってたわけだけどお、余計な世話だったみてーだなァ」
舌足らずだがその顔はニヤニヤと厭らしい笑みが浮かんでいる。彼の煽りに、彼女の腰に差した仕込み杖が鋭く風を切って投擲された。
「……チッ」首を傾け、紙一重で避けた銀時に、雪は五回目の舌打ちを漏らした。それからすぐに馬鹿馬鹿しくなり、己の得物を回収しにかかる。ごみ袋同士の間に挟まった杖をずぼっと引き抜いていると、寝そべったままの銀時に逆の腕を掴まれた。予想していなかった事態にうっかり一秒間が空いたが、次の一秒で容赦なく振りほどく。
「汚ェ手で触んなやゴミ」
「なァに、きれーだったらいいわけねェ〜?」
振りほどかれた手を浮かせたまま、ニヤニヤ、ニヤニヤ。癇に障る笑みは止まない。どれだけ罵倒しようとも冷水のような眼差しを浴びせようとも、へべれけの彼にはさしたる効果がなかった。そんな彼にこれ以上なにか言い返すのも無駄であると、雪は無視に徹することにして己の腰に得物を差し直す。まったく、こんな馬鹿に付き合ったせいで、ますます疲れが増した。
雪の用心棒としての仕事は、そもそも自ら勝手に始めた商売だった。コネも後ろ楯もあったものではない。だから舞い込む依頼も、例えば幕府が絡むような公のものではなく、小金持ちや何かに追われた一般市民、裏社会で生きているような人間からのものばかり。時にはきな臭い依頼だって請け負って見せる。故に今日のようなことがあろうとも、文句は言えないのだ。選んでいては仕事を、すなわち金を得られなかった。
だからこそ、帰ってさっさと寝て一度リセットしよう。睡眠は良い。ある程度の苛立ちや、どうしようもない感情にですら、ある程度区切りをつけてくれる。……と、そう考えていた矢先にこれだ。雪はもう一度だけ傍らの酔っぱらいに睨みを利かせた。すると背面をゴミ袋に吸い込まれたままの銀時は、まるで突然正気を取り戻したかのように目を細めて、鋭く雪を見返したのだ。
「なぁに引っ掛かってるわけよお。素直に動けばいいんじゃねーの?」
は、と息を呑んだ自分に、雪は一瞬気付けなかった。
何もかもわかっているかのような冷徹な瞳。頬は赤みがさしているのに、温度の低いその目は、雪がそっと隠していたものに的確に向けられていた。
見透かされた。
普段であれば、酔っ払いなど無視してさっさと立ち去っていた。反応すらしなかっただろう。にも関わらず、今日は律儀に足を止め、酒臭い戯言に付き合ってやるほどの器量を見せた。
彼が疾うにそれに気が付いていたのは、彼だったからだろうか。彼が、恐らくその人生遍歴に依った極めて聡い人間であるからだろうか。できるならそうであってほしい。そうだと雪は思いたかった。──そうでなければ、いつの間に私はこうなってしまったと言うんだ。こんな、自分ですら気付いていなかった自分の綻びを、赤の他人にほじくり返されるほどの間抜けで筒抜けな人間に。
「不自由な奴だねェ」
「……そーだな」
けれど。魔が差したとでも言うのだろうか。それとも、ふわふわとした彼の声のせいだろうか。どうせそこまでわかっているのなら。なんて、彼女は思ってしまった。それ以上考えるのも億劫になって、ついうっかり、滑る己の口を諌めようとしなかった。酔った銀時は、記憶が飛んでいることがあるから、なんて限りなく薄い可能性に期待をかけてまで。
「私ァ、オメーが羨ましいよ」
夜は静かで、大通りとは離れているおかげで余計に物音がしない。気温は高いが、暗い場所であるからか蝉の鳴き声も聞こえなかった。雪が小さな声量でポツリと落とした言葉は、嫌に空間に浮遊する。しかしそれはすぐに闇に馴染んで、たちまち消えてしまった。まるで何事もなかったようであったし、その言葉が存在したことを証明するものも何一つない。言葉と言うのは何よりも不確かで、無形で、なかったことにできてしまう。彼女のほんの気の迷いも例に漏れず、どこにも刻まれることなく夜に葬られた。──というわけには、やはりいかなかったのだろう。
「よっこらせ」
銀時がむくりと緩慢な動作で起き上がったと思えば、老体のような重い動作で起き上がる。そうして間髪を入れずに雪の腕を掴むと、そのまま脈絡なく歩き始めたのだ。雪は引かれるがままに、彼の丸まった広い背中について行かざるを得ない。
「オイ、触んなっつってんだろが」
酔っているはずであったのに、彼女の手を引く力は強く、その足取りもほとんどしっかりしていると言えた。ニ、三度振りほどこうと試みたが、彼の鍛えられた手から解放されることはなかった。蹴りを入れるか、もっと暴れるかをすれば逃げ出せたかもしれないのに、この時の雪にはこれ以上どうすることもできなかった。
彼の手の熱が、久方ぶりに感じた他人の温度が、まさか自分にそうさせたとでも言うのだろうか? そんな馬鹿なことがあってたまるか。そんなことを考えて、先に「疲れ」や「面倒くささ」といった理由が浮かばなかった自分に、雪はいよいよ反吐が出そうだった。
背後の雪の様子に気付かない銀時は、未だ酔いを孕んだ目をとろとろさせながらも、迷いなく『目的地』へ進んでいく。
「酔い醒ましだ、ちっと付き合え」