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「だァーーーめだって! まだ寝てて! 君丸一日寝てたんだから!」
「っさいはなしてよ! はなせ!!」
「いでででマゲ取れちゃうマゲ取れちゃう!!」

 止めようとする男を振り切って、外に出た。見慣れない風景だったから、ほとんど勘を頼りに走った。昔から勘だけは鋭かったから、たどり着ける自信があったし、実際にたどり着くことができた。けれどそこには誰もいなくて、周りを探してもやっぱり誰一人いなくて。恐ろしく絶望的な心地だった。もわもわとした凄まじい存在感の熱気が全身を包んで、狂暴なまでの虚脱感を叩き込んできた。

「……つだ」

 次に沸き起こるのは、腹の奥底を揺すぶるような憎しみだった。後先を考えぬ怒りに指先まで支配されて、喉の奥が熱くなり目の奥が痛くなり、体の中が煮え返る。

「あいつだ、あいつのせいだ……! あいつが余計なことしなければ……!!」

 誰もいない炎天下で、渇いた喉を無理やり動かして張り裂けんだ。愚かなことにもあの時、やり場のなかった憤怒を、あたしは差し出されたあたたかな温もりに向けたのだ。








 私服なのは都合が良かった。ここで自分が公的な警察機関であるとバレるのは、余計な敵を増やす。第一、邪魔をされるのはまっぴら御免だ。
 周りの浪士らはただの悪党同士のチャンバラとでも思っているらしい。別段気に留められることもなく、時折愉悦そうな野次まで飛んでくる。それらを意にも介さぬ朋子は、仕立て直しのされた男物の袴をはためかせ、治安の悪く汚れた地下の世界を駆け回る。標的を狩るためのその足は速く、迷いがない。

「ぐっ……! あの晩といい、どうなってやがんだ! たかだか女! スカーフ無し! 雑魚隊士のはずだろ!?」
「ざァんねん」

 息を切らしながら張り叫ぶ残党の一人に、朋子は低く漏らした。歩幅をさらに大きくし、男との距離を一気に詰める。

「天下の真選組に、雑魚なんざいやしないよ」

 斬り伏せられた浪士が、吐血しながら地べたにゆらりと倒れていく。幾人もの血と脂で汚れた刀を振って、滴る返り血を飛ばした朋子は、その浪士の奥から怯えるような瞳を向けていた男と視線を合わせた。

「……あとはアンタだけだね」

 ようやく最後の一人を追い詰めた。そんな口ぶりではあった。……否、彼女は事実として、敢えてその男を残していたのだ。そうできるほどの戦力差が、朋子にはあった。
 真選組隊士の全員が、どんな浪士も圧倒できるほど抜きん出た武力を持っているわけではない。それほどに腕の立つ人間は主に、残党らが叫んだようにスカーフの与えられた幹部の役職に就いていた。
 無論その限られた幹部以外が「雑魚」であるわけではない。定められた枠数から外れ、肩書きを持たぬ平隊士として燻っている者もいる。そうでなくとも、真選組には日々鍛練を行い己を叩き上げている男たちばかりだ。
 しかし朋子は、その中でも。女の身でありながら、なお。誰も彼もを護れるくらい誰よりも強くあろうと、努力と経験を積み重ねてきた。隊内でもトップクラスの実力を誇る土方や沖田と肩を並べられるほどに。
 彼女は天才ではない。まして肉体の強さはどう足掻いても男に劣る女の身。それでも己が居場所を護るために、剣を振り続けてきた。

「……転海屋、奥峯清弐(おくみねせいじ)

 言葉を切って、息を吐く。打刀を己の一部のように操る朋子と、ほとんど使ったことすらない脇差を手に握る男──奥峯。どちらが優勢かなど言うまでもなく、万に一つも、奥峯が生き残るとは到底思えぬ光景だった。

「武器密輸及び、不逞浪士との違法取引の容疑で──……」

 朋子が凛然と言い放つ、そのさなか。
 死を目の前に、奥峯は最後の最後に悪足掻いた。

「真選組の女隊士だァァ!!」
「!!」

 時が止まった。(ごみ)や汚れにまみれ、嫌な臭いが充満する掃き溜めのようなこの地下に、奥峯の金切り声が響き渡る。それが辺り一体に浸透し、消え、そして──盤面が返された。
 窮鼠猫を噛む。追い詰められた弱き者による強者への反撃。
 束の間の水を打ったような静寂が破れ、辺り一体が瞬く間に雑音に飲み込まれた。こうなればもう、彼女は目の前の獲物から一度手を引かざるを得ない。ああ、まったく往生際が悪い。腹の奥がまた滾りを増す。だが一番腹が立つのは、怒りに呑まれて予想できたことをしなかった自分自身だ。

「独りか!? 本物だろうな!?」
「真選組ィィ! よくも俺の同胞を!!」
「信念も持たぬ売国奴め!!」

 沸き出した浪士たちがここぞとばかりに朋子を潰そうと襲い掛かる。戦況はひっくり返された。奥峯は周囲の浪士に紛れ、すでに姿を消している。朋子は憎々しげに、鋭く舌を打った。

「誰だ此処まで案内しやがったのァ!! 引き摺り出してぶっ殺してやる!!」

 しかし奥峯もまた、警察に追われたまま攘夷浪士の温床へと足を踏み入れれば、報復として奴等に地獄の果てまで追われかねないことを分かっていただろうに。朋子を撒き、あるいは周りの浪士に代わりに始末させたとて、次に狙われるのは奥峯自身に違いない。
 逃がしてなるものか。
 ここで自分が殺されるのも、奥峯が自分から逃げ果せるのも、彼が浪士たちに殺されるのも、あってはならない。
 だがしかし、複数の攘夷党に支配されているであろうここは一枚岩ではない。まして、この手の地は天人が違法に関わっている場合もある。奴ら同士で潰し合ってくれれば幸いであるが、警察の自分が下手に全員手に掛けていくわけにもいかない。収拾がつかなくなる。だから、こういった場所は野放しにされている。
 襲いくる攻撃を往なし、躱し、朋子は奥峯を捜す。あくまでも今、自分の目的はあの男ただ一人だ。しかし、殺す気の無い一人が、殺意を巡らせる多勢より優位に立つことなどどうしてできよう。峰で打ち、拳銃で殴り、十数人の包囲網を切り抜けても、その先にはまた複数の浪士。手足に刀傷が増えていく。肩が深く斬られた。ほとんど治っていたはずの怪我が開いている。底なしと自負していた体力の底が見える。痛い、苦しい、暑い、鬱陶しい、煩わしい。
 
 ──あたしは何をしているんだろうか。

 誰にも相談せず、勝手に単身で乗り込んで、感情任せに動いて、追い詰められている。とても弱くて無様で愚かだ。憐れにすら思えてくる。他人どころか、自分すら護ることができていない。
 青子に選択肢を与えてあげたかった。しかしそれは紛れもなく朋子のエゴであったし、さらにはそれすらも怒りに呑まれて忘れていた。
 だけど、本当に許せなかったのだ。津波のような憎悪感に襲われ、息ができなくなってしまった。
 ミツバを利用した転海屋、その残党。憎くないわけがなかった。けれど、ある日目の前に現れた無辜な少女の、その父親であることを知った。父親と会うことを切望する彼女に、その父親に、望みを掛けてここまで来た。けれども彼は幼い青子を捨て、もう自分の子ではないと言い張った。信じたかったものはあっけなく打ち砕かれ、頭に浮かんだ青子の無垢な笑顔が朋子をさらに苦しめた。
 前方からの斬撃を躱し、相手の腹を強く蹴り飛ばす。しかし軸足から力が抜け、朋子は後ろに倒れ尻をついた。土の匂い。汗が飛び空が遠くなる。目の前に別の浪士の白刃が迫る。頭の中が鈍くなり、一瞬反応が遅れた。朋子は慌てて手に力を籠め、攻撃を防ごうとする──握った柄に衝撃が走るより早く、覚えのある鍔が彼女の視界を横切った。
 それに弾かれた敵の得物が、離れた地面に音を立てて転がる。その乱入者は、地べたに尻をついたままの朋子のほうをおもむろに振り返った。短く切られたサラサラの黒髪が、風でふわりと揺れた。

「よォ。こんな辺鄙な所で会うたァ奇遇じゃねェか」

 決してここにいるはずのない男に狼のような鋭い瞳を向けられ、朋子は息を呑む。けれど血の味が滲む喉では、彼の名前を咄嗟に呼ぶことすら叶わなかった。