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「おい……おいコラ」
背後から静かに掛けられる声に、彼は反応を見せない。彼女の白い手を引いたまま、ひたすら歩き続ける。
「いい加減にしろや」
「あでででで!!」
と思えばすぐに足を止め悲鳴を上げた。雪が掴まれていた腕を自らひねったせいで、連動して銀時の手首も曲げてはいけない方向にねじられたのだ。銀時はそこでようやく手を離し、解放された雪は背中を丸めた銀時に蔑むような視線を落とした。
「何なんだよ一体」
「あーいでで……お前よォ、朋子と鉢合わせたか」
負傷した手首を労りながら切り出された話題は──知るはずのない彼がそれを語ったことは、雪の体を強張らせるのには充分だった。「なんで、オメー……」吐息のように吐き出された言葉が、彼女の動揺を如実に示している。その様子を見て、銀時は生まれつきのふわふわ頭を掻きながら、ため息混じりに話し出した。
「前に会った時、あいつの様子がどうにも可笑しかったんでな……探り入れるつもりァなかったんだが、
「小せェ客?」
「失踪した親父を捜してるっつうガキだよ。で、その親父が朋子の獲物だってんでガキも一緒に預けたんだが、その前にあちこちの情報屋に当たっててな。『女の用心棒を連れた輩の中に、
「……それが、なんであのアホと繋がんだ」
「今日飲み屋で隣り合ったオッさんが妙な話をしてやがってな」
曰く、隣り合った男に酒を飲ませたところ、ベラベラと喋ったらしい。用心棒を生業とする彼が、犯罪者は擁護しない主義として、最近依頼を蹴った相手がいること。それが最近壊滅したある組織の残党であったらしいこと。×××に存在する、無法地帯にも近い地下都市に潜んでいること。自分のあとに女の用心棒がついたらしいこと。
「お前がその件フイにしたってこたァ、躍起になってた
「チッ……んで、私を連れてきてどうしようってんだ。節介野郎」
「それはお前が決めることなんじゃねェの?」
「……手前勝手」
雪はため息をついて、首の横にそっと手を添えながらぐるりと辺りを見回した。──まさか、蜻蛉返りする羽目になるとは。目を伏せると思い起こされるのは、見たこともない激情を露にした朋子の姿。
「……んだが、私ァ今あいつに顔見せたらブタ箱行きらしいんでね。そもそも、手ェ貸してやる義理なんざねェ」
「お前なァ……」
「だから、オメーに道だけ作ってやらァ」
それは自分に向けられた言葉ではないと、銀時はすぐにわかった。下駄が地面に擦れる音に導かれ、暗がりに視線を向ける。そこから出てきた男が身に纏うのは、普段の黒い隊服ではなくシンプルな着流しで見慣れない。しかし腰にしっかりと差した刀は、彼の表情を窺わずともその闘士を感じることができた。
「なるほどね、い〜いタイミングじゃねェか」
銀時は大分赤みの失せた頬を口角で押し上げると、腰の木刀に手を掛ける。それに呼応したように、雪も珍しくにやりと下卑た笑みを浮かべて「貸し一つな」とベルトに差した得物を掴んだ。
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ここにいるはずがなかった。しかし、彼が目の前にいるのは紛れもない事実であった。
迫り来る敵を制圧した彼は、束の間の静寂を逃さずに煙草とライターを取り出した。医師に止められているだろうと口を出す暇もなく、紫煙がくゆり始める。
「随分腑抜けた様だな。そろそろ引退どきか?」
煙を吐き出しながらこちらに視線を向ける彼に、あの時とは正反対だと朋子は思った。驚愕、放心、苛立ち、焦燥、悲しみ、どの言葉も当てはまらない気がした。言い様のない感情が、胸の中心でじわじわと燻っている。彼もあの時、こんな気持ちだったのだろうか。いや──これはきっと、自分だけのものなのだろう。
自分を見下ろす顔は口元だけ笑っているが、決して楽しげなものではない。怒っているのか、それとも。
「テメーにゃ隠し事は向いてねェんだよ」
まるで何でもお見通しだとでも言いたげだ。彼も、監察が持ち帰った話を盗み聞きしていたのだろうか。療養中の身で、自分よりも重傷だったはずで、屯所外に出掛けるのも誰かの同伴が必要と言われていたのに。何故来た。ひとりで。誰にも言わずに。……あまりにも愚かだ。彼も、自分も。
『また隠し事しているでしょう。お見通しなんだから』
不意に"彼女"の声が朋子の耳朶を打った。人は、人の声から忘れていく。まだ、鮮明なそれを、失ってしまう日はいつか来てしまうのだろうか。
「さっさと斬って来い。お前がケリをつけろ」
後方がにわかに騒がしくなる。別の浪士に見つかったらしい。尻をついたままの朋子を横切り、彼はそう言い放つ。
すべてをお見通しなら、朋子が何故一人でここまで来たか、その見当だってついているに違いなかった。けれど、彼は先を往けと朋子に云う。それは真選組副長としての指示か、それとも。
「……馬鹿」
朋子は四肢に力を籠めると、強く立ち上がり、刀を鞘に納めて走り出す。土方の顔を振り返ることはしない。もう情けない姿を見せはしない。だって、そんなのは癪じゃないか。
傷の痛みが気にならない。エンドルフィンが過剰分泌されているのだろうか。それによる鎮痛は、しかし怪我が治ったわけではない。だから、過度な無茶はしてはいけない。あたしよりオッさんなアンタよりも早く、引退なんかしてやりませんから。そう、心の中で毒づいた。
走って、走って、たどり着いたのはそう広くはない地下の世界の、最奥地。地上への抜け道があるらしかった。逃げ惑うその男の姿をようやく捉えた朋子は、刀の収まった鞘をそっと指先でつかむ。
「ひっ……!」
自分に気付いた奥峯の絞り出す掠れ声が、朋子にとっては酷く鬱陶しかった。このまま斬り捨ててしまいたいとさえ感じた。その気持ちを抑え、彼女は息を整える。
捨てるくらいなら、どうして生ませた。どうしてここまで育てた。そう問い詰めたかった。問い質してやりたかった。
「……アンタに、あのこの気持ちがわかるか」
一歩一歩近付いて、一言一言静かに、真っ直ぐ問い掛ける。
「おいていかれたこの、気持ちが、わかるか?」
途中で無くしたのか、対する奥峯は丸腰であったが、いつでも抜けるようにと柄に手を添える。奥峯は震える手を逆の手で抑えて、汗を滲ませながら視線を泳がせる。泳がせて、泳がせて、しかしそれは言葉を探すためのものではなかった。彼が想起していたのは、記憶の中で幾重にも重なる、愛娘の笑顔。
「あの子は、俺と……俺なんかといちゃ不幸になる」
奥峯に迫る朋子の足が、ぴたりと止まった。それに気付かず、奥峯は目線を落としたまま小さく紡ぎ続ける。
「俺にはもう……いや、困窮に屈して、犯罪に手を染めたあの日からとっくに……あの子の父親でいる資格なんて、なかったんだ……あの子は、誰か優しい、真っ当な人生送ってる人に拾われたほうがいいんだ。それが、あの子の幸せなんだ」
目尻に浮いて大きくなった雫が、頬を伝ってぽたりと地面に染みる。ぽた、ぽた。止まることを知らない後悔は、奥峯の視界を奪う。そして彼の懺悔は、祈りは、朋子の心を掻きむしる。
「……なん、だよ……それ」
──全部あの子のためだってこと? あの子のことを想ってたってこと?
──違う、だってこいつは酷い父親で、青子ちゃんを簡単に傷つけて、
──違う、こいつは一緒にいる方が傷つけてしまうと思って、だからあの子を捨てるなんて言って、
──違う、そんなことあいつは思ってなんかなくて、捨てたのは自分本意で、
──違う、本当に残酷なのは、迎えを待つあの子を裏切ることで、
──違う、あの子はちゃんと、自分から迎えに行こうと自分の足で前に進んで、
──違う、違う、違う、
──どうすればいい? この気持ちをどこに向ければいい?
「──人の幸せを……他人が、勝手に決めんな」
高い金属音。すらりと抜かれた刀が、暗い地下で光る。朋子は一歩、また一歩と奥峯との距離を詰めた。遅れてそれに気づいた奥峯は、涙を拭う間もなく踵を返し走り出す。しかし慌てたせいか、限界が祟ったのか、足がもつれて派手に転倒した。
その拍子に、懐からはらりと四角い何かが飛び出した。写真だ。いつの日にか、慣れないセルフタイマーで撮ったそれに映るのは、澄みきった青空を背景に、自分に肩車された幼い娘の姿。笑い合う親子の姿。迫る白刃が、脳内に強烈に死を打ち鳴らす。しかし奥峯は、涙に濡れた顔をぐしゃぐしゃに歪めて、その写真を護るように真っ直ぐ手を伸ばした。
「青子……!!」
振りかざした刀は、そのまま勢いを殺すことなく振り下ろされ──
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『なんで!?』
まだ僅かに幼さの残る高い声が響き渡る。誰もが口を閉ざす中、彼女だけが腹の底から沸き上がる激情に任せて訴えた。
『なんで駄目なの!? あたしが女だから!?』
朋子の問いに、差し向かいの土方が答えることはない。彼は口を引き結び、ただただ視線を彼女に落とすだけ。
言葉で頑なに朋子を拒んだのは、土方ただ一人だった。彼の肩を持つ人間は、いなかった。しかし朋子の肩を持つ人間もまた、誰一人としていなかった。それは彼らの根底に共通して在った、一つの答えであった。
『……もういい』
いくら声を上げても許諾を得られなかった朋子が溢したのは、低く、小さく、何もかもを投げ打ったような嫌な声だった。場が水を打ったように静まり返る。朋子の次の挙動に、土方は細く鋭い目を丸く開いた。
『……は?』
朋子が懐からおもむろに取り出したのは──小刀だった。一転、その場が一気にざわめきに呑まれる。そんな彼らにまるで見せつけてやるように引き抜いた鞘を、彼女は地べたに放った。その切れ味を示すように、短い刀身が青空から放たれた陽光を反射する。朋子はその白刃を、勢いよく自分に向け──
『待て!! お前───!!』
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────ざくっ。