05

「こんにちは」

 高い声に、男は面を上げる。笠越しのため高低差で顔は見えなかったが、紙袋を持ったその立ち姿から小柄な女性だと分かった。さらに上を向くよりも早く、目の前の膝が折られて、しゃがみ込んだ少女と視線が重なった。

「お坊さん、こんな所に座り込んでいてはお居処(いど)が割れてしまいますよ」

 その声に違わぬ、あどけない少女だった。育ちの良さそうな上品な顔つきは、幾らか不思議そうに男を見つめている。

「案ずるな。すでに割れている」
「さっきベンチのある公園を横切りましたよ。ご案内しましょうか?」
「いや、必要ない」
「もしかして休憩ではないのですか? 何をされているのですか? あら、この入れ物……お財布をむき出しにしては、悪い人に盗まれてしまうかもしれませんよ」

 その風貌から男が僧侶であることは理解しつつも、彼女は托鉢を知らないらしかった。小銭の入ったそれを、口も広げたまま道端に放っているうっかりさんに見えたようだ。
 しかしこの男、実のところ僧侶ではなく、むしろ今の世の規範からすると「悪い人」に分類されてしまうことを自覚していたため、彼女の言葉を新鮮に感じていた。同時に、そのよく喋る子どもを前に、少し困ったように眉をひそめた。

「この辺りは子どもがやすやすと来る場所ではない」
「え? 私もしかして無礼を……? ここ、立派なお屋敷の前ですものね」
「いいや、こんな屋敷に払う礼などはなくていい」
「そうなんですか? それなら実は、案外私と変わらない庶民の方が住まわれてるということですか?」
「しょっ……フフ、いや、無闇に近付くものでもないが……そうだ。奴らは偉くなどない」
「そうだったんですね。私、江戸のことまだ全然詳しくなくて勉強中なんです。お坊さんは物知りですね」
「まあ、お前よりはな」

 物を知らない無垢な子どもを前にした男の笑みは、嘲りなどではなく微笑ましさに近いものだった。背を向けた城壁の内側が、忌々しい天人たちの大使館であることも一時忘れられるようだった。
 だが、そろそろ時間だ。事が動く。それに目の前の子どもを、巻き込むわけにはいかなかった。

「あの、ちょっと、そろそろどっか行ってもらえる?」
「ご予定がありましたか?」
「予定というか、ウンそうだなお主がいると少々都合が悪い」
「あっ、もしかして修行中とかでしたか?」
「そうだ、托鉢修行だ」
「それは、どうも失礼しました」

 少女は立ち上がると半歩ほど後ずさった。そのまま帰路につくかと思えば、右を見て左を見て、「一つお聞きしても?」と伺いを立てる。

「なんだ」
「真選組の屯所に帰りたいのですが、どちら方面か分かりますか?」
「しっ……!? 帰るだと!?」

 それまで泰然と構えていた男は、少女の言葉に過剰反応して立ち上がる。シャン!! と鋭い音を立て、彼女の前に錫杖が突きつけられた。

「貴様っ……たばかったな!?」
「タバカッタナ?」

 豹変した男を前に、しかし少女は首を傾げるばかり。それどころか、「もしかして、御利益を頂けるなにかですか? ありがとうございます」と呑気に両手のひらを合わせた。軽く頭まで下げられた男は、呆気にとられたように目を瞬かせていたが、程なくして、錫杖がゆっくりと下ろされる。此度の音は耳障りな金属音ではなく、しゃらりと涼しげな鈴のような音だった。

「貴様、真選組の隊士ではないな?」
「え? はい、女中をしております。秋宮羽月と申します」
「……驚かせてすまなかった。先程、江戸に来たばかりというようなことを申していたな」
「はい。少し前に実家を出て上京してきたんです」

 なるほどな、と男は独り言ちた。それから彼は、羽月と名乗る少女を真っ直ぐに見据えた。

「貴様が俺を知るのも時間の問題ではあろうが……」
「?」
「良いか、羽月殿。俺は今のこの国を憂い、己が信念に基づいて、いつ何どきも国が為に動いている。それを奴らは言葉巧みに否定するであろうが、どうか忘れずにいてほしい」

 奴らとは、誰を指すのだろう。羽月の無知な瞳はそう語っていた。男は未来ある子どもへの願いを込めるように、その大きな両目をじっと見つめていた。

「……なるほど、分かりました。お坊さんは国のために一生懸命頑張っていらっしゃるんですね」
「……桂だ」
「カツラさんと仰るんですね。応援しています。頑張ってくださいね、カツラさん」

 何も知らぬ羽月は朗らかに笑う。その朝日のような透明さに、桂は思わず顔をしかめた。







「オイ」

 低い声がする。耳慣れた声だ。肩が二、三揺れ、くっついていた瞼同士を僅かに離すと、低温の瞳が二つ、こちらを覗いていた。

「はれ……ひじかたさん……女子の部屋に乗りこむなんていー度胸してますね……」
「勤務中寝こけるテメーにゃ負けるがな」
「あいーだだだだ!」

 耳をつままれ、途端に意識が浮上する。少し埃っぽい香り。いつもの布団はなく、ささくれ立った畳が妙に被服に引っかかる。ここは屯所の自室ではなく、張り込みのために押さえた部屋だったことを、朋子はようやく思い出した。

「ちょっとォ……あたし夜勤からの日勤とかいうゴミカスシフトなんスけど。つーか土方さん来て仮眠取るまでちゃんと見張ってたからね。もっとこう『しょうがねえな……フッ』とか毛布のひとつでも、あいや待てよ土方さんがそんなにやさしいとか気色悪いだだだだ!!」
「テメー良い度胸してんじゃねェか言いたい放題言いがやって」
「痛ったいですねー! てか総悟隊長だって寝てんじゃん! 贔屓か? 贔屓なのか?」
「るせーよ朋子オメーの次に起こすつもりだったんだよ!!」
「つまり隊長よりあたしを優先したってこと? これは……遠回しなデレ!?」
「もうお前黙れ頼むから! オイ総悟! テメ起きろコラ!」

 土方は手に持っていた紙をクシャクシャに丸め、ご丁寧にアイマスクまで装着して寝ていた沖田に勢いよく投げつけた。勿論ただの紙なので、沖田に一切ダメージはない。ムクリと緩慢な動作で上体を起こした沖田は、視界を塞いでたそれを首もとに下ろした。

「何なんだよテメーら揃いも揃ってよくこの爆音の中寝てられるな」
「爆音って……またテロ防げなかったんですかィ? 何やってんでィ土方さん真面目に働けよ」
「そーよそーよ」
「も一回眠るかコラ……ったく、どいつもこいつも」

 土方は視線を彼らから外し、うんざりしたように紫煙を吐き出す。サボり癖がある上ふてぶてしくてうるさい部下らを前に、彼の心を癒してくれるのは愛用のマヨボロの煙だけだった。

「んで、ようやく(やっこ)さん尻尾出したんですか?」
「あァ。今山崎に拠点を押さえさせてる。この御時世に天人追い払おうなんざ、大した夢想家だよ」
「まっ、人生夢見てなんぼですからね。死んだ顔でお上にこき使われるあたしらシャチカーよか煌めいて見えますよ」
「あ? まさか攘夷思想に肩入れしようってんじゃねェだろうな。切腹させんぞ」
「いや〜ん野蛮〜。土方さんだって天人がどうなろうが天人ハウスが何軒ぶっ飛ぼうがどうでもいいクチでしょ」
「たりめーよ。天人らがどうなろうとしったこっちゃねェ。連中泳がして、雁首揃ったところをまとめて叩き斬ってやる」

 土方は腰の刀を引き抜き、その白刃を手でなぞる。

「真選組の晴れ舞台だぜ。楽しい喧嘩になりそうだ」
「物騒なお人ですねェ相変わらず」
「テメーもうずうずしてるくせによく言うぜ」
「ハハ、分かってんじゃないです」

 好戦的に笑う土方に、朋子も呼応するように口元を歪ませた。





「──と〜かなんとか格好つけたってのに……」

 髪を揺らし、朋子は長い廊下をひた走る。その遥か先には、リンリンと鈴を鳴らす黒い小動物。

「あ〜も〜〜〜待てっつーのにィ!!」

 ──時は少しばかり前に遡る。テロリストの潜伏先を山崎が突き止め、真選組総出で突入する前に、対象のホテル池田屋から密かに客やスタッフを避難誘導しているさなかだった。

「お願いします! お願いします……!!」
「わーったわーった! 奥さん落ち着いて! 必ず捜し出しますから! 無闇に中入んないでね!」
「絶対ですからね!! どうかうちのタマをよろしくお願いしますね……!! もし怪我でもしてたらネットで真選組に星1低レビュー付けてやるんですからァ!!」

 隊士に半泣きで詰め寄っていた一人の婦人。話を聞くと、外に押し出されるその寸刻前、飼い猫のタマとホテル内ではぐれてしまったのだという。今にも隊士を振り切り自分で乗り込みそうな勢いの婦人を押さえ、こちらで保護すると伝えた以上、義務は果たさねばならない。というよりは、真選組の悪評がこれ以上回る可能性は潰したかった。
 もし突入した先で猫を見つけた場合、浪士の捕縛に差し支えないようであれば保護をすること。その条件の中で幸か不幸か、浪士に遭遇する前に真っ先に猫を捉えたのが朋子であった。

「皆がワイワイ暴れてるっつーのにあたしだけネコチャンと追いかけっこて! 猫もめちゃくちゃ可愛いけどあたしはどっちかってーと犬派だし! しかも足速ェーし! 何あの子! 全然捕まらないんですけど!」

 体力に自信があるとはいえ、スピードとはまた別の話だ。独り言を吐き散らしているわりに息を切らすことはなくとも、異様に素早い猫との距離はなかなか縮まらない。それに、揺れる二本の尾はどこか見覚えがあった──そうだ、先日御庭番衆の女が屋根を突き破った時に抱えていた猫と酷似している──え、じゃああのネコチャンまた脱走したの? お転婆すぎでは? もしくは飼い主に全然懐いてない?
 いや、兎にも角にも。

「クソがよ〜〜〜ッ!!」

 一向に捕まらない猫に、朋子は腹から叫んだ。






 同刻。まるで散歩のようなペースで、池田屋内をのんびり歩いている女がいた。──雪だ。
 共にここまでやって来た銀時と桂が不毛な言い争いを繰り広げている間に、雪は誰にも気づかれることなく部屋を抜けてきた。勿論、自分をこんな面倒事に巻き込んだ桂に対する怒りは並ではなかったが、それより今はさっさとこの場から退散するほうが吉と判断したのだ。桂への報復は次会った時にお預けということにし──できることなら二度と顔を合わせたくすらないが──こうして一人出入り口を目指していたわけである。

 そもそも雪は、最近宅配を装ったテロが頻発しているという情報を知り得ていただけであった。
 丁度一仕事を終えた帰り、雪は人ひとり殺しそうに怒り狂ったお登勢に運悪く掴まり、愚痴に近い何かを聞かされた。彼女の話をまとめると、寝不足だったという飛脚がスナックお登勢の玄関にバイクごと突っ込み、真琴と万事屋の三人に届け損ねられない重要な荷物を託して気を失ったらしい。
 その情報だけだと単なる事故のようにも思えたが、救急車を呼んでいるうちにその飛脚が姿を消していた──そのことを聞かされた時、さきの宅配テロのことを思い出したのだ。
 それを話しすべてに合点がいったお登勢に、先程大使館へ向かったという真琴たちを止めるよう頼まれたのである。

 雪は酷くものぐさであり、また利己主義である。例外はあるが、基本的に彼女が動くのは、自分の身が危うくなった時、そして自分に利益があると踏んだ時だ。
 しかし、般若に勝るとも劣らないお登勢の形相を見て、今彼女の頼みを断れば後々自分が困ることになるだろうと雪は悟ったのだ。……結局、寸での所で間に合わず、爆発する大使館の前で雪の努力も水泡に帰したわけだが。

「クソがよ〜〜〜ッ!!」

 と、胸中で苛立ちを募らせながら出口に向かっていると、どこからか女の嘆き声が響いてきた。音の出どころを探るうちに、なにか黒いものが猛スピードで雪の隣を駆け抜けていく。──猫か? 歩みは止めずとも、思わず視線を持っていかれる。しかし進行先の曲がり角の奥から、先程の叫びがどんどん近づいてくるのに気づいた。

「うわっ!」
「うお」

 あわや衝突というところで、雪と相手は機敏に反応し紙一重で避け合う。互いに一瞬姿勢を崩したものの、すぐに持ち直して進行方向に歩を進めた。

「あァごめんねー! 今急いでて!」
「あいよ」
「──って待たんかァァい!」

 と、ぶつかった相手──朋子が突然踵を返し、とび蹴りを繰り出した。それをマトリックスよろしく華麗にかわしてみせた雪は、体勢を立て直し数歩距離を取ったところで口を開いた。

「んだオメーさんいきなり」
「今この池田屋にいんのはタマちゃんと桂一派と真選組だけ。つまりアンタは桂のお仲間ってことだ」
「タマですニャ」
「んなわけあるかァァ!! シラきるってんなら此処にいる正当な理由を簡潔に説明しな!」
「かくかくしかじかで」
「わかるかァァァァ! ま、御託はいいやこの際」

 朋子は腰の刀をスラリと抜くと、不敵に笑ってみせた。対する雪は、さも興味がなさそうにその挙動をぼんやり眺めている。

「ちょっと今日は散々でストレス発散したくてさァ。悪いけどあたしのボーナスになってもらおうか。さっきピンときたんだけどアンタ、相当の使い手でしょ。あたしの勘に狂いはないよ」
「はァ」
「ホラ〜役人に真剣向けられてるのにその余裕綽々な態度!」
「はァ」
「さァ得物を抜きな! その腰のものはただの棒切れか!」
「はァ」
「いや否定しようよ!?」
「私とオメーさんの勝負なんざ誰も求めてねーから。画面の向こうの需要ゼロだから。わかったらさっさと散れ」
「いやん姐さんのいけずゥ〜そんなこと言わずに付き合ってよォもうホント鬼上司がクソだし予定外の業務もチキショウいやネコチャンに罪はないけども」
「オメーに姐さん呼ばれる謂れはねーよカス」
「辛辣!」

 おいおいとわざとらしく悲しがる朋子に、雪はうんざりしたように息を吐く。うるさい上に面倒な人間に絡まれたのは、運の尽きだったか。

「だいたいオメーさん、真選組だろ。こんなとこで私闘おっ始めていいのか」
「私闘? またまた。攘夷浪士を前にして、これ以上ない正当性でしょうよ。オラオラオラいくぜオラァ!!」

 朋子が豪快に斬りかかった。しかし雪は腰の杖を抜くことはせず、最小限の動きで避ける。闘争本能の塊のような人間相手には、こうして交戦する気がないことを見せればだいたい戦意は削がれていくのを、雪は体感で知っていた。しばらく攻撃をかわすことを繰り返していれば、案の定朋子は勢いが下火になっていった。

「はーもォつまらん防戦一方じゃん! 全部避けられてるし! もっとヒリつくやつやろうぜ!」
「善良な一般市民なんで。おまわりさんと一戦交える理由はねェ」
「ゴリ押すね〜マジで逃げ遅れた民間人なの? 確かに桂一派に女の子っていなかったと思うし……でも一般客は根こそぎ外に押し出したはずなんだけど? 数も合ってたし? つかそれなら普通はそんな棒切れ引っ提げて余裕そうに構えなくね?」
「多様性の時代だから」
「イヤそれで押し通せる内容じゃないよね」
「つかオメーさん急いでんじゃなかったの」
「やべっそうだったタマちゃん! え、さっき黒猫とすれ違った? どっち行ったか分かる?」
「向こうの角を右」
「えっやばいやばい階段上がってたら戦いに巻き込まれんじゃんさっきのご婦人に炎上させられるクソーーッッッ!!」

 さんざん騒ぎ通した朋子は、雪を置いて猫の駆けていった道を走り出した。雪はその背中が見えなくなるのを待ってから、再び出口に向かって歩き始めた。