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「ちょいといいかい、朋子ちゃん」

 巡回の報告を終えた朋子を呼び止めたのは、食堂で勤務している女性だった。羽月とは違って住み込みの女中ではないが、彼女とは共に仕事にかかることも多く、食事をとる際に二人並んで厨房に立っているのを見かけることもしばしばあった。

「羽月ちゃんがお使いに行ったっきりでまだ帰ってこないんだけど、知らない?」
「え、マジで? いや実は迷子疑惑でさァ……総悟隊長が捜しに行ってるんだけど」
「そォかい……今日中に帰って来れりゃいいけどねェ。あいよ、引き留めてごめんね」
「いいってことよ」

 羽月の方向音痴はもはや周知の事実であり、またそれ故に大抵周囲が世話を焼いているため、大きな心配や緊張感などはあまり無いのが常だった。それにしても、まだ帰って来ていないとは。そんなことを考えながら彼女が食堂のほうに戻っていくのを見送って、朋子も自室へと向かう。沖田と羽月のことが気にかかったが、土方から早く出せと圧をかけられていた書類の存在がそれをすぐにかき消していった。







 沖田と対峙していた四足しそくの化け物は、こちらへと少しずつ接近していた。
 人形のような異形のそれは、腕の長さに合わせて膝を窮屈そうに折り畳みながら地面を這う。鋭く伸びた手の爪は、獣のように太く芯のある形状をしていて、本来白いであろうそれは赤黒く汚れていた。今までここに来た人間たちを、それで襲ってきたのだろうと、戦場馴れしていない羽月でさえ容易く理解できた。

「な……ん、なんですか、あれ」
「恐らく傀儡だろうな」
「くぐつ……? って、あの、糸で操る小さな人形ですか? あんなに大きいのに?」
「俺が詳しくしるかよ。ただ、あれァ人間様の出で立ちじゃねェ」

 沖田の言う通りだった。あの様子、姿はどう見ても尋常ではなく、色々疑問点はありつつも傀儡であると認識するのが正しいように思える。しかし人間サイズのそれを、たかだか糸で、他者を襲うように自在に操れるものなのだろうか?
 しかし相手が傀儡とあれば、恐らく天井にでも身を潜めているであろう生身の敵か、もしくはそれから傀儡へと繋がっているはずの糸を切ればいい。恐らくは沖田もそんなことは百も承知であろうが、手こずっているところを見るに相手はそれなりの手練れなのだろう。羽月は傀儡の少し上に視線をずらした。灯りも無く閉め切られた工場内は、黒い空が広がるばかりで人の姿は見えず、何の気配もない。しかしそれでも、沖田という男の胆力は、ほんの僅かにも彼に取り乱しを与えることはなかった。

「そこから一歩たりとも動くんじゃねェぞ」
「え……、」

 沖田の発言を最後に、静寂が破られる。傀儡が弾けるようにこちらへ飛びかかった。つぎはぎだらけの着流しが風で膨らむ。鋭い斬撃を沖田は余裕をもってかわした。積もった塵埃が舞い上がり、先程まで沖田が立っていた──羽月の前方の地面に、五本の線が走った。
 羽月の口から悲鳴が漏れるよりも、傀儡が体勢を立て直すよりも早く、沖田は再び傀儡に襲い掛かる。その頭上で刀を振り切ろうとしたが、鉄でも仕込んでいるらしい頑丈な腕に防がれた。沖田は片足を前に踏み出し、それを軸に逆回転。今度は反対側から鋭く刃を薙ぎ払う。傀儡の防御は間に合わない。しかし──沖田の刀は、空を切ったように見えた。傀儡の動きも依然として止まらず、再び沖田に襲い掛かっている。二人の攻防は、止まらない。
 糸で操っているわけではないのか? そうなると、例えば真琴の働くスナックお登勢にいる、あの緑髪の女性は機械からくりであるという。あのように、傀儡自身が意志を持って動いているとでもいうのか。
 得体の知れない傀儡への恐れが、羽月の中でますます強まる。しかし沖田は、僅かほどの動揺すら見せずに攻撃を繰り返す。羽月は彼の戦いをただただ眺めていた。彼の戦う姿をちゃんと見るのは、初めてだったように思う。言葉を掛けるどころか、声を出すことすら憚られるような威圧感を肌で感じていた。自分とそう年も変わらず、普段幼稚なちょっかいを掛けてくるような彼が──まるで、別人のように羽月は感じていた。

「え」

 突然、羽月を影が覆った。眼前には目の無い顔。しかし彼女が状況を理解するよりも早く、沖田が傀儡に刃を振るう。傀儡は瞬時に跳躍してそれを避けると、沖田と距離をとって着地した。沖田が羽月の前に立ちはだかる。

「弱ェのから狙うのは定石だからなァ」

 沖田が「そこから一歩も動くな」と告げ、妙に自分の近くで戦闘を繰り広げていた理由に羽月は気が付いた。傀儡の瞬発力と跳躍力は抜きんでており、沖田よりも上であることが素人目にもわかった。下手に距離を取れば、傀儡は羽月に襲い掛かり、それを防ぐ沖田の刃は間に合わないだろう。沖田は先ほどからずっと、羽月を護るための立ち回りをしていた。
 動くたびに揺れる木蘭色の髪に、闇の中でぎらりと光る刃に、靡く隊服の裾に、妙に視線を奪われる。
 ただのお子様男だと思っていた。性格が悪くて、酷く我儘で、ひねくれ者で。そんな最悪最低の男だと、羽月は思っていた。
 けれど沖田は真選組一番隊の長だった。先陣を切る度胸も腕っぷしもある。統率力も、判断力も認められている。何より、他者の命を預かる立場にいた。

(強い人だ)

 羽月の体から、わずかに恐怖が薄れる。沖田という男の強さを目の当たりにし、その彼に護られているという実感が、彼女に安心感を与えていた。しかしそれと同時にこみ上げる、腹の奥が中途半端に煮えるような気分の悪さ。沖田の「弱ェの」という言葉が妙に突き刺さる。自分が足手まといであり、無闇に立ち入ったために沖田に余計な動きをさせてしまっているという自覚が、それを感じさせたのだろう。いつも対等に張り合っていた彼に、自身の力は遠く及ばないのだという実感が、羽月の体の内側を嫌に浸していた。
 沖田が再び傀儡に攻撃を加える。万が一にも標的を羽月に定めないように、反撃のいとまを決して与えない連撃。傀儡の動きが僅かに鈍る。その隙を逃さず、沖田はその首目掛けて刃を振り切った。
 ──同時に、弾け飛んだおびただしい量の、赤。

「……は?」
「え……な、に……?」

 顔を失った首から、噴水のように飛び出していく赤い液体。同じく、真っ赤な雫を飛び散らせながら空中で弧を描く頭部が、ボン、と羽月の足元へ転がった。それは二度ほど低く跳ねると、ごろごろと不恰好に転がり沈黙する。一瞬で、辺りに鉄のような、そして生々しい、嫌な臭いが充満していく。

「……ぁ、あ、ああぁぁあああぁ、」

 羽月の口からは勝手に声が滑り出していた。力の抜けた体はずるずると地面へしゃがみ込み、震えて上手く力の入らない手を無理やり動かして口を押さえる。掌と、背中を伝う汗が気持ち悪い。脳味噌に直に手を入れられ、引っ掻き回されているような混乱。すぐそばに転がった、包帯で覆われている目玉が、真っ直ぐこちらを見ているような気がして、腹の底のものが一気にせり上がり羽月はえずいた。

「なんなんでィ……これ、」

 頭の無い傀儡の体は、自立不可能になり倒れていく。陸に打ち上げられた魚のように、ビクンビクンと痙攣しながら溢れる鮮血を前に、沖田は動けずにいた。無生物であると、そう思っていたこの傀儡から流れているのは、生き物の証である赤い液体。

 これは一体なんだ。

 沖田は考えていた。一つの嫌な憶測が頭に浮かんだ。しかしこの正体が何であろうと、もうこれが襲いかかってくることはない。今己がすべきは、完全に腰の抜けた様子の羽月を担いで、一度退散することだった。得体の知れぬ敵に、荷物を持って勝手に単身挑むなど、鬼の副長に何と言われるかわかったものではない。
 そう考え羽月のほうに視線をずらしたのと、その彼女の首になにか不自然に線が走ったのは同時だった。

「あ、?」

 羽月の細い喉から、変にひしゃげたような一文字が出た。沖田が駆け出すより、羽月が理解するより早く、次いで彼女の白くて細い手首に、華奢な肩に、胴に、線が走る。それが巻きつけられた糸だとわかった時には、彼女の華奢な体は軽々しく上空に持ち上げられていた。

「お、きっ……」
「羽月!!」

「──戦闘中に余所見したらアカンで。真選組のおにーさん」

 どこかから声が聞こえた。不意に自分に影がかかる。羽月と入れ替わるように頭上から風を切って落下してきたのは、先ほど倒したのとは別の傀儡だ。沖田は大きな舌打ちをして、長い爪を振りかぶるそれを躊躇なく、僅か一秒足らずで斬り倒してがらくたにする。先ほどのものとは『作り』が違うようで、今度は血の一滴たりとも飛び出してはこなかった。しかし、

「っ……!」

 その代わりとでもいうのだろうか。バラバラになった身体からぶわりとこみ上げてきたのは煙。咄嗟の判断で、沖田は呼吸を止めて口と鼻を袖で強く覆う。だが一歩、遅かった。
 途端、思考回路がガクンと鈍くなる。瞼が急激に質量を増したように重い。全身から指の先まで、なにか毒が駆け抜けていったように力が抜けていく。絵の具が溶けたように、視界がぐにゃりと大きく歪んだ。工場内に反響する不快な笑い声が、遠退いていく。

「羽月……、」

 上方から此方を見下ろす羽月の、激しい恐怖に浸された顔が瞼の裏で揺れたが最後、沖田は刀と共にとうとう意識を手放した。







「もし、そこのお嬢さん」

 無防備な背中に、不意に声が掛けられた。自分を呼んでいるのだと気付いた女は、足を止めてゆるりと後ろを振り返る──。