縁(えにし)を縒る
「あ」
「あ?」
十月十日。薄黄色の掛け時計は惜しくも十時十五分。甘い匂いの漂うこんな場所で出不精の隣人に出会ったことに、僕は自動ドアを潜ろうとしていた足を止めた。
「奇遇ですね、雪さん」
「ああ……」
気の抜けた、有り体に言えば心底どうでもよさそうな返事は、いたって普段通りだ。店内に進みショーケースの前に立つ雪さんに、せっかくなので横に立って勝手に会話を続ける。
「甘いもの好きだったんですね」
「別に普通」
「え……じゃあもしかして雪さん、まさか銀さんのために……」
「は?」
「なわけないですよね〜」
「そゆお宅は、ホールケーキなんざ買う懐の余裕があったとはねェ」
僕の手元にはたった今会計を済ませたばかりのケーキがあった。箱のサイズからホールと推測したのだろう。事実その通りで、人数分のピースを買ったところで今日の主役も、大飯食らいの少女も納得してはくれないだろうと思っての判断だ。
「はは、何も言い返せませんけど……まあ、年に一度ですからね」
「あァ?」
「あれ、もしかして知りませんでした? 今日、銀さんの誕生日なんですよ」
「ふーん」
「……え、それだけですか?」
こう、もう少し反応があっても良いものだが。──というか雪さんは僕より前から銀さんと知り合ってるのに、誕生日知らなかったのか。まあ僕たちだって以前話の流れでたまたま知って、それで誕生日にかこつけて普段よりちょっと良いもの食べようみたいな話になっただけだけど。……本当は突然クラッカーとケーキで迎えて、あの飄々としたアホ面が崩れるのを見てみたい気持ちもあった。けど給料もロクに払わない男に、ウケるかどうかもわからないサプライズを仕掛けるほどの気前の良さも金も無く。だってアイツぜってー反応微妙だよ。サプライズのし甲斐がない男選手権で決勝戦に残るよ。
ちなみに今日使った金は、あの駄目人間がパチンコの軍資金にしようとしていたものを押収した。あ、なんか考えてたら腹立ってきた。このケーキ、アイツ以外で食べちゃおうかな。
「何、どういう反応期待したわけ。私に」
「やー……まあ、そうですよね。僕が愚かでした」
「誕生日を祝うなんて文化、天人が押し掛けてからだ。生憎身に馴染んじゃいないんでね」
「なんて寂しい人なんだ……っていうかそういうこと、神楽ちゃんがいる時に言わないでくださいよ」
「一応弁えてるよ。つかンなこと気にするタマじゃねェだろアイツ……そういや今日はいないんだ。自分の食べるケーキは自分で見るアルとか言いそうだけど」
「いや、神楽ちゃんいたら予定の倍買うことになりそうなんで、スーパーの買い出し頼みました」
「ふうん。予定の倍の肉買ってそう」
「……」
雪さんの言葉に、スッと体温が下がるのを感じた。いや、まあでも、預けた現金分が上限だから、最悪全部使われても、まあ、なんだかんだで僕らの大将やってる人の誕生日だし、普段あれだけ質素倹約に努めてるんだからたまにはパーッと豪華な食事にしても、まあ。ウン。
そんなことを考えていると、ふと思いついた。──あの男、僕や神楽ちゃんが誕生日を祝ったってそう驚いたりはしないだろうけど、雪さんに祝われたりしたら大層驚くんじゃなかろうか。このものぐさで、淡泊で、守銭奴で、祝い事にまるで興味のなさそうな人に。プレゼントなんて渡された日には、腰を抜かすんじゃなかろうか。
「あの〜、雪さん」
「あ?」
「せっかくだし、雪さんもなにか銀さんにあげたらどうですか?」
「んで私があの天パのために金使ってやらなきゃなんねんだよ」
「ホラ、雪さんの誕生日になにか良いお返し貰えるかもしれませんよ」
「プレゼントの贈り贈られなんてただの物々交換だろが。その分貯金箱に詰め込んどくほうがよっぽどお得だよ。それに、確証のない博打は嫌いでね」
「まあ確かに銀さんじゃ、例え約束しててもすっぽかしそうですけど……」
「そうじゃなくて──」
「はい?」
「……いや」
あ。誤魔化した。
あまりの物珍しさに、つい彼女の顔を見つめる。あの雪さんが、よもや自分相手に失言とは。しかも──普段ならきっと分からなかっただろうに、この時の僕は何故だかいつもより冴えていて、彼女がうっかり言わんとしていたであろうことが、なんとなく分かったのだった。
視線だけこちらに向ける雪さんの綺麗な横顔は、いつも通り大人っぽくて、静かで、クールで、熱量を感じない。僕の周りが常時やかましいせいか、彼女からは諦観や、厭世のような色さえ時折うっすら感じられる。何が彼女をそうさせているのかはわからない。けれど……
「……僕は、移ろわないものもあると思いますよ」
何故、こんなことを口走ってしまったのか。けれど僕には、彼女が人との縁を太く紡がないようにしていることが──いつ、どこが切れても良いように、浅くてか細い縁ばかりを繋いでいるように見えることが、どうにも口惜しく思えてならなかった。
以前までは、自分もそうだった。借金と廃れかけた道場を背負い、日銭を稼ぐのに精一杯で、未来に大した希望も見出しておらず、彼女もおらず、というかもはや女の子との縁も無く、姉と細々と生きる日々を繰り返していた。
けれど、坂田銀時という男と出会ってから変わった。いや、別に給料が劇的に増えたとか人に誇れる日々を送れるようになったとか彼女ができたとかそういうわけではないんだけども。むしろ給料はピンキリで安定しないしなんなら先述の通り出ない月さえあるし、仕事は万事屋の家事ばかりでなんかもうただの家政婦みたいになってる時さえあるけど。
それでも。あの日、彼に姉弟ともども助けられて、僕は足元を見ることが減った。お天道様に顔向けできるようにと、前を向いていることがずっと増えた。日々を共に過ごす人が増えた。いざという時、助けてくれる人が増えた。命を危険にさらしてでも助けたいと思うほど、そこには情が生まれていた。狭かった己の世界が、際限なく広がっていくのを感じていたのだ。
「……」
雪さんは興味なさげに僕から視線を外し、バイトと思われる若い店員に声を掛けた。彼女の注文は、白いクリームに瑞々しい黄緑色がよく映える、シャインマスカットのケーキをひとつ。それからレジ脇に置かれていた見切り品──恐らく消費期限が近いのだろう──の安売りクッキーの小袋をひとつ。
彼女は財布から、お金よりも先に紙幣サイズの紙を取り出した。この店の割引券だった。なるほど、三十パーセント引きは確かに大きい。ポイントカードの数パーセント還元が阿呆らしく思えてくる。知人の多い雪さんは、こういった割引券やチケットなんかを貰っていることがしばしばあった。
「今日雪さんも来ませんか? パーティーってほど盛大でもないですけど、スナックお登勢の面子も一緒で、あと姉上も来たがってましたし、今朝会ったさっちゃんさんも来るって言ってました」
「遠慮すらァ」
「ですよねェ〜」
少しだけ食い下がってみるが、結果は予想通りだ。別段気落ちすることもない。だけど、最悪プレゼントなんてなくても、たった一言の「おめでとう」だけでも、銀さんは驚くに違いないと思ったんだけどな。まあでも、「おめでとう」の言葉が似合わない女選手権で決勝戦に残ること請け合いな人だからな。ダメ元ではあったけど。
「ん」
「はい?」
いつの間にか会計を終えていたらしい、左手にケーキの箱が入った袋を提げた雪さんは、先ほどの見切りクッキーを右手でこちらに突き出していた。
「オメーの言う『かもしれない』に乗ってやるよ」
差し出されたそれをしばし見つめる。僕の頭にはハテナ。雪さんが催促するように再度それを揺らすものだから、僕は動揺しつつも反射的にそれを受け取ってしまった。それから彼女の言葉を何度も咀嚼する。そうして──たっぷり三十秒ほどの時間をかけて、ようやくその意図を理解した頃には、もう彼女は僕を置いて店の自動ドアを潜り抜けていた。
「えっ……えェェェ!?」
──あの、雪さんが! ものぐさで守銭奴でセコくて、以前オススメの節約術を聞いたら大根の葉の方切って水につけて伸ばして食うとか言ってた雪さんが! 街中のティッシュ配りの前を往復するような雪さんが! いつも銀さんのこと適当にあしらい時にはゴミを見るような目を向けてる雪さんが!!!
驚きと興奮で、思わず頬に熱が集まった。どうしよう、今すぐこのことを誰かに喋りたくて仕方がない。帰るまで待てない。帰りがけに大江戸スーパーに寄って神楽ちゃん探そうかな。いやでももう帰ってるかもしれないしな。っていうか、僕は僕で早く帰ってケーキ冷蔵庫に入れなきゃだった。
「……あれ?」
ふと気づいて、なけなしの冷静さが舞い戻ってくる。そういえば、銀さんは雪さんの誕生日を知ってるのだろうか。彼女のあの言い草だと、多分誰にも教えてないような気がする。それなのに、今僕に伝えることもしなかった。っていうか、そもそも物々交換になるのがくだらない、なんて言ってるような筋金入りのケチが、僕の言葉ひとつで考えを変えるのだろうか? 本当にどうでも良い相手に、それこそ見返りがあるかもわからないのにお金なんて使うだろうか?
「……難儀な人だなァ」
僕の、ただの希望的観測だ。だけど。素直じゃない大人は銀さんを筆頭にたくさん知っているけれど、雪さんもその一人だと思った。きっかけがないと、誕生日の贈り物すらできない。あんな面倒くさい大人にはなりたくないものだ。……っていうか、雪さんって大人なのか? お酒は飲んでるから成人はしてるだろうけど、僕より年上で銀さんよりは多分下だろうってことくらいしかわからない。僕は雪さんのことを全然知らないんだと、改めて確認した。
「……銀さん、どんな反応するんだろうなァ」
ワクワクが再び募る。だけども同時にちょっとだけ悔しい気持ちがしたのは、僕らには決して引き出せない銀さんの表情を、きっと雪さんのちょっとの気まぐれで引き出すことができるのだろうと思ったから、なのかもしれない。二人には僕の知らない時間があるから。時折、なんだか計り知れない空気を見せるから。なんて、これじゃまるで雪さんに嫉妬するくらい僕が銀さんのことが好きみたいじゃないか。誰があんなパチンカスのろくでなしのプー太郎なんて。
頭に浮かんだ変な考えをパパッとかき消して、僕はようやくケーキ屋を後にした。