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長らく出張に出ていた一人の隊士が、真選組に帰ってきた。
名を伊東鴨太郎といい、良家の出身を思わせる洗練された所作や容姿は、荒くれ者どもの集う真選組ではなかなかに浮いていた。色素の薄い髪は短く清潔に切られ、理知的なつり目とシルバーフレームの眼鏡は、彼に一層上品な印象を与えている。
そんな彼は北斗一刀流免許皆伝、また頭脳の方も非常に博学であり、政治交渉にも長けていた。入隊して一年余りの身でありながら、参謀という新たな役職を与えられ、局長の近藤からも「先生」と呼び慕われる、極めて優秀な男であった。
「──おや、君は以前はいなかった女中だね」
「お初にお目にかかります、秋宮羽月と申します」
伊東の部屋に茶を持ってきた羽月は、三つ指をついて丁寧にお辞儀をした。昨日彼が局長の近藤と話しているのを見掛けたが、直接言葉を交わすのはこれが初めてだった。
伊東は度々の遠征で屯所を空けている時間のほうが多いと聞いていたが、よもや女中の顔まで全て把握しているのだろうか。羽月を一目見て新しい女中であると当てたその洞察力と記憶力に、羽月は内心感嘆した。
文机に向かっていた伊東は運ばれた茶に礼を述べつつ、羽月を見定めるように視線を向けた。それに気付いた羽月は、盆を抱えながら戸惑いがちに問う。
「あの、何か……?」
「ああすまない、不躾だったね……いや、随分と若い女性だと思ってね。君は特例で通いでなく住み込みと聞いたが、このような男ばかりの場所ではなかなか酷な話だろう」
「ああ、いえ、そんな……」
「和笠くんと同じく部屋も離されているのだろうが、やはり何かと不都合なこともあるだろう。せめて離れでも設立するよう、僕が掛け合って……」
「いえ! とんでもないです。皆さん良くしてくださいますし、不満などもありません。その分のお金は別のところに充ててください」
「……そうやって和笠くんにも断られたな」
表情は崩さないまま、レンズの下で目を伏せる伊東。いつかの頃を思い出しているのだろうか。彼は再び羽月に向き合うと、淡々とした調子で続けた。
「なにかあれば僕でも、無論近藤さんでも、すぐに相談したまえよ。女中の身だからと言って、遠慮することなど何もない」
「あ……ありがとうございます」
羽月は慌てて頭を下げた。
真選組にやってきてから、周りの隊士らはほとんど皆やさしく接してくれた。だが、これまでこんな風に丁寧に気遣われたことがあっただろうか。
顔を上げた頃には、もう伊東は文机に向かい直し筆を手にしていた。特別なことをしたわけではないように、至って澄ました顔でいる伊東の横顔を、羽月はしばし見つめていた。
*
「朋子さん。貴方は聞きましたか、土方さんのこと」
「あ〜ハイハイ、浪士に土下座してたところを伊東さんが助けたっつーアレ?」
へらりと薄く笑むと、相対する篠原は不可解そうに片眉をひそめた。その露骨な態度に、朋子は素直だな〜と僅かに目を細める。
──先日の土方の醜聞は、みるみるうちに広まっていた。鬼の副長と恐れられる男の信じがたい噂に、ほとんどの隊士が困惑し、しかしまたほとんどの隊士がそれを信じ始めている状況であった。火のない所に煙は立たぬとは言うが、加えてその噂の広め方が極めて工作的、効果的であったのだろうと朋子は推測している。例えば、土方のことを好ましく思っていない者から広めていく──だとか。
つまり、到底噂を信じそうにない者……朋子のように土方を慕う者や、特別肩入れをしている者の耳にようやく話が伝播した頃には、すでに隊内に噂は広まりきっていたのだ。
「いや〜ありえんでしょ! 土方さんが禁マヨする以上にありえないって。話の出どころもよくわかんないし、土方さんや伊東さん本人らが言ってたのを聞いたわけでもないし?」
「僕は伊東先生本人にそう聞いたんですがね」
「え、そうなの? ま〜〜〜でもなァ、別に伊東さんが嘘ついてるって言いたいんじゃないけど、その場面を直接見たわけでもないからね。何らかの勘違いってこともあるでしょ」
「勘違い? どう勘違いするというんですか。……信じたくないのだろうが、随分とおめでたい人だ」
冷笑のような、呆れのような、とにかく好意的ではない色を帯びた篠原。山崎と同じく監察方に所属する彼は、かの伊東と同門の男であった。そして彼が、己が大将を一人だけ定めるとすれば、近藤ではなく伊東であろうことを、朋子はすでに理解していた。こうしてわざわざ朋子に話題を持ち出したのは、様子を窺うためか、単なる煽りか。
「まっ、こういうのは両人に聞かなきゃね。篠原くんどうせ土方さんの話は聞いてないんでしょ?」
「……まあ」
「じゃっあたしがちゃちゃっと土方さんのほうに聞いてくるわ!」
つまらなそうに返答した篠原の肩を叩くと、朋子はぱっと明るい笑顔でそう告げる。──顔に傷を負った土方の姿を思い出し、朋子が煮え切らない心境でいることに篠原が気づいていないことは、幸いであった。
「土方さァ〜んいます〜?」
早速副長室にやってきた朋子が、その障子を開く。──瞬間、スパァァァンと閉め直された。「エッ?」思いがけぬ展開に固まっていると、部屋の奥からドッタンバッタンと騒がしい物音が聞こえてくる。なんだなんだ、土方さんご乱心か? 困惑しつつ、朋子がもう一度障子に手をかけようとしたところで、障子のほうがひとりでに開いた。
「な……何か用か」
「なんでそんな息切れてんの?」
障子の数センチ程度の隙間から顔を出した土方は、ゼエゼエと肩で息をしながらもそこを動こうとしない。どうやら、朋子を部屋へ上げる気がないらしい。(普段だったらひょいっと入れてくれるのに……)一体どうしたのだと疑念を強めていると、「今取り込み中だ、手短に言え」と急かされ朋子は口を開く。
「ホラ、最近なんか変な噂広まってるじゃないですか。早いとこ効果的に否定しないと、このままじゃ伊東さんの思うツボですよ」
「……、」
「どうせアレでしょ。小さい子を人質に取られて土下座を強いられた〜とか、子猫を護るためにうずくまってた〜とかさァ、なんかそういう……」
朋子はそこで言葉を切った。何故か肯定も否定もせず、俯きがちに閉口する土方に、嫌な心地が生まれる。はっきりとした切れ長の瞳に前髪の影を落としながら、彼はぽつりと呟いた。
「……お前は、妖刀ってヤツを信じるか」
「妖刀……?」
土方の口から飛び出した単語に、朋子は怪訝そうに眉を歪めた。しかしそれ以上に、彼の様子それ自体が気になる。「土方さ──」纏う空気の重々しさに、朋子は今一度彼の名を呼ぼうとするが──
「朋子氏!!!」
「朋子氏!?」
突然、土方のつり目がかっ開かれた。同時に僅かにしか開放されていなかった障子もスパァァァンとかっ開かれた。部屋の隅に、雑に布が掛けられて隠されたなにかの山が見えたが、視界の端で一瞬認識するのがやっとであるほど、眼前の男の異常な存在感に朋子は呑まれていた。
「ぼ、僕は、僕は今までなんて愚かだったんだっ……年下女子の部下に慕われるという最高に美味しいポジションを確立しておきながら……!!」
「ひ、土方さん? オーイ? どうしちゃったの? 熱? 酔ってる?」
土方の顔の前でひらひらと手を振ってみせるが、彼は依然としてわなわなと震えている。明らかにおかしい言動は、もはや気が触れたとしか思えない。その見た目こそは普段と至って変わりはないが──あれ?
彼の頭から足元まで一瞥して、朋子は気付いた。土方の腰に差さっている刀──そもそも、部屋で机に向かっていたなら腰から外しているはずなのだが──が、前のものとは違う。果たして以前の彼の愛刀がどのような色、鍔、柄であったかはっきり思い出すことはできないが、少なくとも彼が今持つそれに見覚えが無いことは明らかだった。
『妖刀ってヤツを──』
先ほどの彼の言葉が、再び脳内でリフレインする。
妖刀。何らかの人智を超えた力が宿った──場合によっては、呪われたとも言われる刀。そんなものが現世に存在するかも定かではないが、土方がこのような冗句を言うタチでないことは重々承知だ。それを踏まえ、漫画やアニメなどあらゆるフィクション作品で培った発想力を素地に、朋子はある可能性に思い至った。
「……ねェ土方さん、ちょっとその刀外してみてよ」
「え? あ、こ、こうでござるか」
「ござる!?」
奇怪な口調にたまげながらも、朋子は彼に刀を下ろすよう急かす。土方も土方で、戸惑いながらも己の刀に手をかけた。しかし──
「……いや、なんか駄目ッスわ。全然僕から離れてくれない」
「いやいやいや土方さんが頑なに離さないんじゃんソレ! ちょ、いいから貸してみ!」
「なっ……何するでござるか!」
何故か刀を外すことをしない土方に、しびれを切らした朋子が隙をついてそれを抜き取った。途端、彼の目が血走ったように切羽詰まる。
「かかか返して朋子氏!」
「いやホンットコレ絶対怪しいから! ちょっと距離おいてみなって! マジでこれで頭おかしくなったんだとしたら一旦離れるべきだって!」
「返すでござる! 返せ!」
「駄目駄目駄目だって! 絶対駄ァ目! もう駄目! 吸っちゃ駄目! コレはヤクと一緒です!」
「拙者の刀! 刀!! 刀ァ!!!」
「ちょっひじかっ……」
ガタガタと刀を争い合う二人だったが、土方のあまりの錯乱に朋子が一瞬たじろいだ。瞬間、彼女を押しのけるようにして、土方が力いっぱい刀を奪い返す。その時鍔が朋子の頬をしたたかに打ち付け、さらに押された反動で、彼女の体はいとも容易く後ろに倒れていった。
「っ
「……っ!!」
派手に倒れこんだ朋子が、打たれた頬に反射的に手を当てる。その姿を目の当たりにした土方は、刀を握りしめたまま体をこわばらせた。──正気に戻ったのだろうか。痛みで細めた目で眺めながら、朋子は極力冷静にそう判断した。しかし彼は倒れた朋子に手を差し出すことも、声をかけることすらなく、その場を逃げるように飛び出してしまった。
ヒリヒリと痛む頬を押さえながら、朋子は小さくなっていく背中を見つめる。──倒れたのは自分の落ち度だ、普段ならあんな簡単に倒されるはずなどなかった。相手が彼だったから、気を抜いていたのだろうか。それとも、彼のおかしな言動に混乱していたからだろうか。わからなかったが、最後に見た、酷く愕然としたような彼の表情が頭から離れず、朋子はしばし床に座り込んだままであった。