63
「涼しくなってきたねェ」
「秋だからねィ」
二人ベンチに並んで、半分に折ったグレープ味のチューペットをじゅじゅっと吸い込む。ヘタのついているほうは隊長特権で奪われる前に、ハイハイとお姉さんぶって沖田に譲った。人工的なフルーティーさが口いっぱいに広がり、鼻から抜けていく。
「外は空気いいわ〜」
「誰かさんらのせいで、屯所の空気は淀みまくりだからなァ」
「いやそういう話じゃないんだけど……までもホントそれだよね〜。あの二人前から仲悪かったもんなァ」
「ありゃあそういうレベルじゃねェな。隙あらば抹殺も企んでるって顔でィ」
「さっすが普段から上司の暗殺計画練ってる奴は言うこと違うわ〜」
半笑いでチューペットをまた吸い込む。中身はすでに三分の一ほどに減っていた。
伊東という男が真選組に入隊してから、すでに一年以上が経過している。だがしかし、彼と土方が業務に関係ない、必要以上の会話をしているところを朋子はついぞ見たことがなかった。それは隣の沖田も同じだろう。道場で手合わせをしている時ですら、あの二人はただただ無言で竹刀を打ち合っていたのをよく覚えている。──その割には、どう決着がついたのかは覚えていなかった。拮抗する実力に、やたらと勝負が長引いてはいたけれど。はて、あの時は結局、どちらが勝ったのだったか。
目の前を数人の子どもらがきゃいきゃいと走り去っていく。朋子は過去を辿っていた思考を打ち切って、現在へと手繰り寄せた。
「総悟隊長はどう思うよ。最近の土方さん」
「あァ……例の話も、当の本人が否定しねェときた。部屋にもなんかアニメのグッズがゴロゴロしてたぜィ」
「えっマジで!? こないだからあたしがダイマしてたやつとうとう手出してくれたんかな!?」
「いや違ェだろ」
「まあおふざけは置いといて、あーだからこないだ部屋寄った時あんな……一体鬼の副長様はどうしちゃったんかねェ」
「ヤニマヨの過剰摂取でとうとう脳までイカれちまったのかねィ」
「だったらとっくになってるし、ヤニマヨでヘタレオタクみたいになる事例なんて聞いたことねーよ」
「ま、あんだけ隙まみれなのは好都合だ。朋子、お前もぼちぼち『総悟副長』って呼ぶ練習しとけよ」
「いや流石に頭おかしくなってるとこ突く?」
「だからこそだろ。俺がそう考えてるってのに、伊東さんがこの好機に動かないわけがねェ」
朋子の眉がぴくりと動く。──どんどん出世を重ねていき、ついには『参謀』という役職まで手に入れた伊東が、己の上に座り続ける土方のことを疎ましく思っていないわけがなかった。その上、人間性からしてソリが合わないときたものだ。少しずつ不穏な足音が忍び寄ってきていることに、朋子も、他の隊士らも、気付き始めていた。
「総悟隊長、今度土方さんに探り入れといてよ。あたしもあたしでできることしとくから」
「なんでェ、そんなに奴が心配なら自分でいけばいいじゃねーか。……あァ、できねェんだったな」
「げっ、目ざといわ〜……」
「野郎、近藤さんとケンカしたどころかこのアホまで今さら避けるなんざ、本格的にらしくねェや」
「今さらって何? 普段から避けるに値する人間ってこと?」
「その怪我も、まさかあの野郎にやられたってんじゃねーだろうな」
沖田は己の右頬をとんとんと指さしながら横目で問うた。──やはり訊かれたか。朋子は鏡写しのように、絆創膏を貼った自分の左頬を触ると、適当に相槌を打ってへらりと笑った。
「いやァまさか。本棚ギッチギチに入れてたせいでさ〜、一冊出したら雪崩起きちゃってこのザマよ」
「……」
じろりと訝しげに見つめられるも、朋子は浅い笑みを湛え続ける。──この怪我の真相は、誰にも知られてはならなかった。そして誰よりも、彼に知られてはならなかった。まだわずかに痛む頬を吊り上げて、朋子は努めて何てことないように装っていた。
「も〜ホンット最悪だよ。乙女の大事な顔がさ〜」
「……?」
「え何その『おと……め……?』みたいな顔やめてくんない?」
*
「すみません、利用時間はもう……」
広いテーブルの上を丁寧に拭いていると、食堂の戸がガラリと開かれた。羽月は顔を上げながら反射的に言葉を返すが、訪れた男の姿にわずかばかり目を丸くする。
「そうか……久しぶりだからすっかり忘れていた」
そこにいたのは、以前少しだけ会話を交わした伊東だった。彼は掛け時計を確認すると、薄いレンズの下で罰が悪そうに眼を泳がせた。ごく稀に夜食をとりに駆け込んでくる隊士はいるが、伊東のここ数回の食堂利用における食べ具合を見るに、そのタイプには思えない。
「すまない、邪魔をしたね」
「あの、もしかしてお夜食じゃなくてお夕飯でしたか?」
羽月の問いに伊東が軽くうなずく。なるほど、遅くまで仕事にかかっていたのだろう。確か伊東のそばには他の隊士がよく仕えていたはずだから、彼らが取り分けておいてもよさそうなものだと思ったが。その彼らもみな忙しかったのか、伊東が察しをつけさせないようにでもしていたのか。とにもかくにも、羽月は女中として今すべきことは一つだと、手元の布巾を畳みながら伊東に近寄った。
「あの、どうぞ座ってください」
「え?」
「本当は駄目なんですが……他の方には内緒にしてくださいね」
綺麗に笑いながら、席につくよう促す羽月。しかし当の伊東は、小さく首を振るばかり。
「君を隊規違反に付き合わせるわけにはいかないよ。なに、一食程度抜いたところで問題は……」
「いけません!」
突然声を上げた羽月に、伊東は驚いたように目を見開く。しかしその様子に気付いているのかいないのか、羽月は真剣な面持ちでツカツカと彼に詰め寄った。
「食事は人間の活力の源です。個人差、はあるのかもしれませんが、基本的には三食しっかり食べ、栄養をとったほうがパフォーマンスも上がりますし、疲労も回復します。大丈夫です、食堂を管理する私どもが許可させていただいたのだから、隊規云々など言わせません! さあ、こちらへどうぞ」
羽月の勢いに押され、伊東は疲れていたことも相まって思わず引かれた椅子に腰を落ち着けてしまう。羽月は布巾を持ったまま、「少し待っていてください」と厨房の奥に消えていった。
「──ご馳走様」
丁寧に手を合わせ、伊東は小さく呟いた。他の後片付けを終わらせていた羽月は、その声に反応して彼のそばに戻ってくる。盆の上の、空になった茶碗や皿、小鉢に、嬉しそうに笑みを深めた。
彼は実に良い食べっぷりであった。その所作は確実に隊内一綺麗だと言える丁寧さであったが、少なくとも作業の合間に視線を向けていた分には、淀みなく箸が動き続けていた。殊に食事に関してはこだわりの強い羽月は、それだけ食べれるのであれば、やはり彼が一食抜くようなことにならなくて良かったと、他人事ながら安堵していた。
「美味しかったよ、ありがとう。今度改めて礼をさせてくれ」
「いえ、気にしないでください。隊士の方々が最大限力を発揮できるよう努めるのも私たちの仕事です」
「僕がそうしたいんだ」
「……そう、ですか?」
「先日も言ったが、何か困っていることなどあればいくらでも力になろう」
引き下がらない伊東の好意を、羽月はわずかに迷ったが素直に受け取ることにした。「困っていること……」その場に立ったまま、ああでもない、こうでもないと、眉間に皺を寄せながら必死に頭を捻らせる。見かねた伊東が「いや、なければ今無理に出さなくても──」と言いかけた時、羽月は「あ!」と声を上げた。
「そうだ! 前から物干し竿が高──」
「え?」
「す、ぎ……て……」
「……」
「……、」
「……」
しん、としばしの沈黙が続いた。チク、タク、壁の掛け時計の秒針だけがわずかな音を刻む。ぱちりぱちりと互いに何度か瞬きをした。勢いで口走った言葉の余韻がようやく消えた頃、伊東の口から大きくふき出す音がした。
「いやっ、あっ……」
「ぐっ……フフッ……、」
「わ、わ、笑わないでください! こちらは真剣に困ってるんですよ! ホントッいつも結構ギリギリで!!」
「す、すまな、ふっ、フハハハハッ……!!」
あまりにも馬鹿馬鹿しい困りごとである自覚もあったのだろう。羞恥の中必死に弁解した羽月だったが、それがさらに伊東の笑いを誘い、彼の愉快そうな声が二人きりの食堂に響く。それからたっぷり数十秒を使い、ようやく一頻り笑い切ったと見える伊東は、息を整えながらも緩んだままの表情で羽月を見上げた。
「いや、フッ、すまないね、わかった、物干し台の新調だな。ここのものは高さが調節できないようだからね」
「も、もういいです! 今までもギリギリ届いてたので!」
「いや何、遠慮などすることはない……ふふっ」
「も〜……!!」
羽月は耳まで赤く染めていたが、常に堅苦しい表情をしていた伊東の、糸が緩んだような姿を初めて目の当たりにして、次第に思考がすり替わっていく。真面目で、ぴくりとも笑わない、どこか浮世離れしたような、近寄りがたい雰囲気の人だと思っていたけれど。目を細めて、しわを寄せて、眉を下げて。そんなふうに、笑うのか。
「こんなに、笑ったのは久しぶりだよ……」
そう思っていると、伊東も似たようなことを漏らした。自分でも戸惑いがあるのか、照れているのか、不器用に口元を手で隠す姿は、普段の大人びた彼よりも幾分か幼く見える。羽月は彼との距離が近くなったような気がして、照れも忘れ、嬉しさを滲ませながら彼の顔を窺った。
「あの……困りごとではないのですが、いいですか」
「ん、なんだね。聞こう」
「伊東さんのお稽古を拝見してみたいです」
「……僕の?」
「私、皆さんが刀を振るわれるお姿を見られる機会はほとんどなくて。伊東さんはほく、ほくと……」
「北斗一刀流」
「北斗一刀流、とお聞きしました。あまり流派に明るくはないのですが、ぜひ見てみたく」
羽月はしゃべりながら、伊東の向かいの席に腰を下ろしていた。伊東も特に何も言わず、目の前の盆を少し横にずらして彼女との会話に応じてくれた。
稽古を見たいとは言ったが、本当は咄嗟に思いついただけだった。ただ、何でもいいから、彼のことをもっと知りたいと、羽月は考えていた。
伊東は「いいだろう、では機会があれば君を呼ぼう」と快諾してくれて、羽月はますます笑みを弾ませた。
「君も武道を嗜んでいるのかね」
「私は薙刀を少々」
「そうか。この時世、まだまだ攘夷浪士等の不逞な輩はそこかしこにのさばっている。いつ君に牙を剥くかもわからないからね。身を守る手段を持つのは良いことだ」
「私もそう思います。おじいさまも、私に身を守る術をと、薙刀を教えてくださいました」
「ほう、お祖父さんから。君は武家の血筋だったのかな」
「あ、いえ、おじいさまとは血縁ではないんです」
「それは……引き取られた、ということかな?」
会話を広げる伊東に、羽月は小さく頷きながら目を伏せる。厳格に見えて、ユーモアを持ったやさしくて大好きな家族の顔が、瞼の裏にぼんやりと映し出された。
「……私、物心がつく前から両親がいなくて。おじいさまは血の繋がらない私を引き取って、これまでずっと育ててくれたんです。でも同時に、いつか先に逝ってしまわれた時、それで私を一人にしてしまうことが心配だったんじゃないかって。だから私が己を護れるように、薙刀を教えてくれたんじゃないかって思ってるんです」
生きる術、身を守る術、あらゆることを教えてくれた。料理も、掃除も。裁縫……は一度盛大に指を刺して以来、ここに来るまで再挑戦はできなかったけれど。礼儀作法も、最低限の勉学も。そして、薙刀の扱い方、武道の心得も。自分のことをここまで育ててくれた、たった一人の家族。いつか羽月が一人になってしまった時、ちゃんと生きていけるように。あまり物覚えのよくなかった羽月に、根気よく叩き込んでくれた彼の教えは、今もしっかりと彼女の中で息づいている。
寸刻、郷愁に駆られていた羽月だったが、はたと気がつき慌てて伊東に視線を合わせた。
「すみません! 急にこんな身の上話……」
「いや、こちらこそ辛いことを思い出させてしまってすまない。……それに、誰かに話すことで気持ちが整理できることもあるだろう。僕でよければいくらでも聞こう」
伊東の寛容な態度に、羽月はこっそり胸をなでおろした。同時にそのやさしさに、胸の内が妙にあたたまるような心地を覚える。
「この話をしたの、伊東さんが初めてなんです」
「ほう、それは光栄だ」
ほかの誰にも話したことはなかった。特段隠したい話というわけでもなかったし、きっと訊かれたならば答えていただろう。けれど誰よりも器の大きい近藤や、深く信頼している朋子にすら話していなかったそれを、出会ったばかりの彼には、堰を切ったように話していた。自分は、本当は誰かに聞いてほしかったのだろうか。己の本音を探しながら、羽月は少し照れたように微笑んだ。
「伊東さんとお話していると、なんだか安心します」
「……そうだろうか?」
「はい。なんでも話せてしまう気がして。もし、私に兄がいたらこんな感じ……、」
思ったままに口走り、目の前の伊東がきょとんと目を丸めているのに気が付いて、羽月は動きを止めた。──やってしまった。今日は失言してばかりだ。
「すっ、すみませんご無礼を!」
「いや……少し驚いただけだよ。そんなこと言われたことがなかったし……僕は弟の身だったからね」
「伊東さんは、お兄さんがいらっしゃるんですね」
「ああ。もう長らく会っていないがね」
「そうなんですか……」
淡々と答える伊東に、羽月はそれ以上返す言葉が見つからず閉口する。チク、タク、沈黙をまた秒針がつないで、それから再び先に口を開いたのは羽月のほうだった。
「あの、お気に障ったら申し訳ないのですが……」
「かまわないよ。何だね」
「伊東さんのお話も、是非もっと聞かせていただきたいです」
まっすぐ、逸らすことを知らないように。羽月の大きな両目はまっすぐ伊東を見つめる。伊東は僅かに目を見張った後、まるで表情を隠すように手を広げ、親指と中指で眼鏡の左右の蝶番を軽く押し上げた。そのまま数秒ほど考える素振りを見せて、
「いいよ」
と、彼は薄く穏やかに笑った。
「だが今日はもう遅い。次の非番にでも、茶を飲みながら。君の話もまた聞かせてくれ」
「はい!」
羽月がここ一番の嬉しそうな笑顔で返事をすると、伊東の聡明な相好もまた、ここ一番、やわらかに綻んだ。
彼の貴重な笑みを、こんなに独り占めしていいのだろうかと、頭のどこかで思っていた。
やさしさが滲んでいる。もしかするとただの愛想笑いであったのかもしれないし、それを確かめる術も羽月は持たない。けれど、緩んだ表情とは無縁に見えた伊東の数々の笑みは、つぼみが花開いたかのような落差を生んでいた。それは見たものの心を動かすような変化だった。
率直に言えば、羽月は伊東の微笑みに、図らずも心臓を跳ねさせていたのだ。