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「伊東さん、おはようございます!」
「ああ、君か。お早う」

 珍しく取り巻きもなく、一人屯所の廊下を歩いていた伊東は、その高くやわらかい声に立ち止まる。軽い足取りで駆け寄ってきたのは、空になった洗濯かごを持った羽月だった。伊東は鋭い目元を僅かに和らげて、彼女との会話に応じる。
 食堂で語らって以来、羽月はたびたび伊東に話しかけるようになっていた。対する伊東も、彼女には毎度律儀に応対している。それどころか、羽月といる時の彼はその厳格な印象を緩めていた。どこか楽しげにすら見える様子に、周囲の隊士らは「あの伊東さんでも羽月ちゃんには骨抜きか……」「あの羽月ちゃんすら伊東派になったのか……」「クソッ、やっぱり世の中顔か……」などと、ひそやかに囃し立てていた。羽月のほうはともかく、伊東は好き勝手噂されていることに気付いているようだったが、さすがの余裕と言うべきか、取り合うこともない。

「本日のお夕飯は食堂でお召し上がりになりますか? 久しぶりに秋刀魚の塩焼きをするんです」
「ほう、秋刀魚か。いいね、それじゃあそちらで頂こうかな」
「美味しい季節になりましたよね」

 取り留めのない話であったが、隊士にこのような情報を羽月のほうから開示することは早々なかった。むしろ、基本的には誰にでも平等に愛嬌を振り撒く羽月であったから、それだけで、彼のことをある種の特別な位置に置いているということが一目瞭然だった。

「そうだ。君、今から時間はあるかね」
「え? はい、ちょうどお洗濯も一段落つきましたが……」
「僕はこれから鍛練に向かうつもりなんだが……」

 眼鏡を押し上げながら不自然に言葉を止めた伊東に、羽月はわずかに首を傾げる。しかしすぐに彼の意図に気がつき、羽月は一拍あけてからパアッと顔を明るくした。







 土方の様子は、さらに加速して可笑しくなっていた。会議中に携帯電話を鳴らし、あまつさえ私的な通話に応じる姿。拷問中の浪士と、修学旅行の夜よろしくフレンドリーに語らい合う。所内で読むのはマガジンのみと私情丸出しの掟を定めておきながら、ジャンプ作品単行本を購入……そんなことを繰り返しているうちに、隊士からの目もどんどん冷たくなっていった。

「いやホンット、人が変わったみたいってマジでほんと変わり過ぎ。完全に別人じゃんアレ」

 道場の物置内で、朋子はジト目で呟いた。もう何年も共に過ごしている土方の突然の奇行は、常にふざけながら生きているような朋子の目にすら余っていた。そばに座る山崎やほかの隊士数名も、同調するようにうんうんと頷く。

「なんていうかさァ、『土方さんどうして……!?』みたいな反応を見せる域を超えてんのよね。あまりにわけわからんすぎて『ん……?』って感じ。わかる? 例えば今ワンピ100巻近くやってきたところで、ウソップが突然ツノとか生やしてルフィをも凌駕する圧倒的パワーで仲間を刺して『悪ィな。あばよ』って敵側に寝返るみたいな? マジで唐突すぎ、伏線がなさ過ぎて信じられない。わかる? この気持ち」
「いやわかんねーよ。例えがマニアックすぎるよ」
「やっぱさーあたしが補佐やるべきだったのでは!? 明らかに頭おかしくなってるのは疲れすぎなせいでは!?」
「まァ、でも安心したわ。やっぱり朋子ちゃんはこっち側だよね」
「え? 何が?」
「ホラぶっちゃけ、みんな妙に副長派か伊東さん派かで別れてきてんじゃん」
「あ〜確かにどっちも捨てがたいよね。同じクールキャラとはいえ土方さんはぶっきらぼうでわかりにくいけど根は優しいツンデレタイプだし、伊東さんは眼鏡で知的で立ち居振る舞いも美しくて親切な紳士タイプだし〜」
「いや誰もそんな話してねーよ」

 山崎のツッコミを受け流しながら、朋子は己の頬にそっと触れる。──あの日から、いまだ土方には露骨に避けられていた。故意ではないとはいえ、彼女に怪我を負わせたことに責任でも感じているのか、気まずさが残るのか。とにかく仕事中も仕事外でも、彼とは会話という会話を交わせてすらいなかった。だが彼の局中法度に触れる奇行だけは、所内の至るところで話されていることもあり、嫌でも耳に入っていた。

(こんな時にあの人は何やってんだか……)

 土方が何も対抗策を出せないでいるうちに、伊東は隊内で土方の悪評を触れ回り、さらには隊士らを次々と懐柔していた。それは此度の遠征に出るより前からも、じわじわと侵食するように行われていた。最初は、彼と同門の者数名から。次第に、元々隊にいた者たちを。
 これまで確かな実力で隊を纏め、律してきた土方。そんな彼への羨望と信頼が次々に裏切られているところを、彼に決して劣らない頭脳と強さを持つ伊東が甘言を弄して恭順させるのは、殊更たやすいことだった。

「……ま、うだうだ言っても仕方ないや。ザキ、あたしちょっと出てくるから」
「なんか用事? そういや朋子ちゃん、最近隙を見てはどこか行ってるよね」
「ウワなんでしってるの怖! 他に観察するとこあるでしょうが監察殿」

 言いつつ、腰を上げた朋子は倉庫の扉に手をかける。──その戸をこちらが引く前に、自動ドアのように勝手に開いたため思わず「うおっ」と声が出た。

「やはりここにいたか、和笠くん」
「あれ、伊東さん……と羽月ちゃん?」
「こんにちは朋子さん、お疲れ様です」

 道着に身を包んだ伊東の傍らには、一仕事を終えたのか羽月が立っていた。この二人が行動を共にしていることに内心引っかかったが、すぐに笑って「こんちは、お疲れさァで〜す」と普段通り気の抜けた挨拶した。

「和笠くん、よければ僕の相手をしてくれないか」
「え!? あたしスか!? えっなんで……」
「いや何、君は相当な実力者であると聞いているが、実際に剣を交えたことはなかったと思ってね」
「い、いやァ〜別にいいですけど……」

 突然の指名に、朋子はたじろいだ。彼が敵対する土方と、何かと絡むことの多い自分をあえて選んだことに、一抹の不安と疑念が生まれる。彼の述べた理由も実に当り障りがないが、嘘らしいと言えば嘘らしかった。到底乗り気になれるはずもなく、普段何事にも積極的な朋子にしては珍しく歯切れの悪い返事であった。背後では山崎や他の隊士らが、心配そうに──そしてどこか興味深げに、彼女らのことを見守っていた。




「一本!」

 バシィン、と高い衝撃音とともに、立会人を務めた隊士の声が響く。周囲に集まっていた隊士たちの野太い雄たけびが、一拍遅れて沸き起こった。

「スゲーッ!!」
「久々にハイレベルなの見たぜ!」
「伊東さんの剣技やべェェ!」
「朋子さんだって負けてねーぞ! いや負けちまったけど!」

 周囲が口々に賞賛する中、朋子は荒い息を整えながら吹っ飛ばされた竹刀の回収に向かう。「朋子ちゃんすっげーな!」「いっで」群がる男どもに背中をバシバシ叩かれ、嫌そうに顔が歪んだ。

「お二人ともすごいです! すごく格好良かったです! とてもお強いのですね!」

 傍らで勝負の行方を見守っていた羽月が、男どもに囲まれる朋子と伊東に近寄ってきた。その手にはきちんと畳まれた白いタオルが二人分。優先して最初に渡したのは朋子で、それから伊東へと。

「ああ、ありがとう」
「伊東さん、見せていただき本当にありがとうございます。剣については不勉強で申し訳ないのですが、本当に動きに無駄がなく、それでいて美しい太刀筋で、大迫力で!」
「……わかった、もう、わかったから」

 なるほど、どうやら彼の稽古を見せてもらいたいという、羽月からの申し出だったようだ。最近二人が話している姿をたびたび見かけるようになったが、彼らはいつの間にそんなに仲良くなったというのだろう。羽月に褒め倒された伊東は、どこか照れたように目を伏せながらも、平静を装おうとしているように見えた。
 朋子は羽月に手渡されたタオルで汗をぬぐいながら、周囲の隊士らの言葉を適当に聞き流しながら、二人の会話に耳を傾け続ける。──イヤ別に気になるなら直接会話に混ざればいいんだけども。っていうか、普段の自分ならそのくらいたやすくできるはずなんだけども。それでも二人の会話には妙な割り込みにくさがあった。先ほどまで伊東を称賛していた隊士らも、羽月に譲るように一歩引いている。
 仲が良いこと自体は悪いことではないが、その相手が下手をすれば土方を陥れようとしている可能性もある男だ。羽月のなんでもかんでも鵜呑みにしてしまうような純粋性を考えても、朋子はどうにも落ち着かない心地でいた。

「和笠くん」
「うえっ!?」

 と、考えていると突然伊東がこちらを向いたため、朋子は大げさに肩を跳ねさせてしまう。「君の技、見事だったよ。どうだ、少し語らわないか」と外を視線で指されながら誘われ、朋子は反射的に頷いてしまった。




「君は満足できているのかね、和笠くん」

 縁側に腰を下ろした伊東が、肩にかけたタオルで汗を拭いながら問うた。出入り口付近の壁に背を預けていた朋子は、表情をなるべく変えずに彼の後ろ姿に視線を傾ける。

「何の話で?」
「己が才に見合うだけの評価をされないことに、だよ」
「……ああ、いやいや、んな買い被りすぎですよ」
「先ほど手合わせをした時、驚いたよ。女性を軽視するわけではないが、それでも一般的には、男女の身体にはどうしても先天的に力量差があるものだ。それをほとんど感じさせない膂力に、補って余りある技術。君が過去に副長補佐役を務めていたというのも、納得がいく」
「アリ、しってたんですか」
「人づてにね」

 朋子が幹部用隊服のスカーフを最後に解いたのは、伊東が入隊するよりもずっと前のことであった。いつの間に、どれほど前から知っていたのだろう。わからないが、であれば土方を敵視する彼は、土方の元直属であった朋子のことを、ますます気に食わないのではないだろうか。
 少しの間が開いた。背後からは依然として隊士らが竹刀を打ち合う音が断続的に聞こえてくる。朋子の双眸にはわずかな迷いの色が窺えたが、黙って返答を待つ伊東の背に、何よりずっと抑えつけてきた感情に、彼女は結局折れた。

「……本当は、悔しいですよ。物凄く」

 「誰にも言ったことないけどね」ぽつりと、小さく答えた。言ったことはないけれど、言っても差し支えのないことだった。──いや、そう思えるようになったのは最近だろうか。
 唯一の女隊士である彼女は、その体格も女性平均の枠を大きく越えてはいない。既定サイズの男物の隊服は体躯に合わず、いつも特注だった。隊服変更によりサイズの再確認をされた時も、そうして朋子のために作られた平隊士の制服が支給された時も、彼女の腹の底には、男らには想像も及ばぬ黒い感情が渦巻いていた。

「己が力を、もっとしらしめたいとは思わないのかね」
「んー……昔はちょっとね。でも今は、しってくれてる人は少なからずいるから」

 だが数年を経て、ゆっくりと、胸の内で重く息づくそれは小さくなっていった。それは時間の経過のおかげであり、信頼における周囲の仲間のおかげでもあった。そこに諦観が混ざっていなかったかと問われれば、素直には頷けないかもしれない。けれど。

「何より、あたしのことはあたしがちゃんと認めてやってるんでね」

 伊東はようやく振り返り、朋子の顔を見た。彼女は過ぎ去った夏の空のようにからりと笑っていた。伊東はしばし囚われたように、その軽やかな笑みに視線を留めていた。

「……無欲だな、君は」
「えっマジすか!? そんな、純真無垢で穢れなき魂だなんてそんなやっだ〜照れる〜!!」
「そこまでは言っていない」

 すげなく突っ込んだ伊東は、つまらなそうに眉を寄せる。ふいと顔を前に戻したため、彼の表情を朋子が窺うことはできない。

「女性であるというだけで左遷など、あまりに前時代的だ」
「ま、しゃァないですよ。できたばっかで大して信用も得られてないうちに、一人だけ混ざった女が上のほうにどっかりしてたら、そりゃ悪目立ちしますから」
「君を悪目立ちさせる者どもが、古きに囚われすぎているんだ」

 意外にも彼からは朋子を庇うような物言いが続き、朋子はこっそりと目を見張る。──仕方がないことだと思っていた。変えられない、どうしようもないことだと思っていた。そんな風に言われたことなど、ただの一度もなかった。

「僕はこの手で、新しい価値観を、時代を切り開く」

 伊東の言うことは頼もしく、巧みであり、うっかり意識を奪われかける。
 だが彼は手段を択ばない男だ。裏で何を考えているかも知れない。常に土方と睨み合い、あまつさえ局長の近藤をも食うような大きな振る舞いを見せている。土方は、伊東がこのままの位置に満足しているわけがないと、前から彼に目をつけていた。朋子も、土方の判断を抜きにしても、伊東を手放しに信頼することはできなかった。
 だが、もしも。この彼と土方が、近藤のもと、肩を並べて進んでゆくことができるなら、どれほど真選組は強く大きくなれるだろう。そんな絵空事のようなことを朋子は考えていた。