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 最近の羽月は妙に機嫌がよかった。もともと誰にでも愛想よく穏やかな笑顔を振りまいているタイプではあったが、ここ数日はとくに楽しそうにニコニコとしていた。けれどそんな彼女も、今朝の食堂のおかしな空気にはさすがに首をかしげていた。

「あの〜、原田さん」
「おう、どうした羽月ちゃん」

 配膳待ちの列が落ち着いたところで、羽月は他の女中に詫びてこっそりと厨房を出た。それから食堂全体を見渡して、よく話す隊士の中でも、とくに親身になって話を聞いてくれそうな原田のもとへ駆け寄った。彼はよく山崎と隣り合って食事をとっていたから、一人でいるのは珍しいなと思いつつ声をかける。原田は沈痛な面持ちで飯を食らっていたが、羽月の高い声に呼ばれるとわずかに顔を明るくした。

「あの、皆さん今日はなんだかいつもより元気がないといいますか……何かあったのでしょうか?」
「ああ……そうか、女中さんの耳にはすぐには入らんよなァ」

 その物言いに、やはり何事かが起きたのだと羽月は察する。原田はそれから話すか話すまいか悩むようにうんうんと唸っていたが、やがて彼女を見上げて重々しく口を開いた。

「実はな……」









「謹慎になったァ!?」

 ──時は少し遡る。その日の巡回を終えて戻ってきた朋子を、報告の暇すら与えずに屯所の外に強引に連れ出したのは沖田だった。そして隊の者が周囲にいないことを確認してから告げたのは、土方の無期限謹慎処分についてのことだった。

「イヤイヤイヤあたしが巡回中に何があったの!? 重役会議あったんだよね!?」
「その大事な大事な会議に、あのヤロー部下の使いに駆け回って堂々遅れてきたんでィ。あー久々の焼きそばパン旨かったな〜」
「って主犯お前かァァァ!!」

 何してんのォォ!? と沖田の胸倉を掴み前後に揺らす。しかし沖田はいたってけろっとした顔で、悪びれることもなく朋子を見据えた。

「切腹切腹うるせェ伊東さんを、謹慎処分で収まるよう説得したんでィ。褒められこそすれ、キレられる謂れはねーや」
「ありまくりだよね。総悟がラストの引き金引いたんだよね」
「俺がやらんでも、いずれこうなってたろ。それに土方さんがいなくなりゃ、副長の座は晴れて俺のモンでさァ」
「いやホント抜かりないよね。神経図太い選手権出られるよね」
「どうにもあの人、妖刀とやらに魂食われ始めてるらしい」
「!!」

 沖田の口からするりと出てきた単語は、聞き覚えのあるものだった。数日前に土方がぽろりと漏らした言葉の裏を、沖田はいつの間にかとってきていたらしい。

「馬鹿げた話だが、おめェならともかくあの人が言うタイプの冗談じゃねェ。あの変わり様からするに、どうやらホントのことらしいや」
「……やっぱそうか」
「なんでィ、しってたのか」
「まあちょっと……ちらっと本人から聞いてね。だから最近鍛冶屋回ってみてたんだけど、やっぱり肝心の刀がないことにはどうにもならんくて」

 朋子はここ最近、隙を見ては情報収集に勤しんでいた。しかしはっきりとした情報を得ることはできず、その間にも土方の奇怪な言動は悪化するばかり。沖田曰く、土方のほうも件の刀を借りた鍛冶屋に顔出したが、そこの主人がしばらく留守にしているらしかった。そのタイミングの悪さは、偶然か必然か。

「おめェはこれから土方さんの動向を追え」
「……了解。総悟隊長は?」
「俺ァ今度の隊士募集の遠征に乗り合わせる。伊東さん直々に、見張り役を仰せつかってねィ」
「見張り……ってちょっといやいやいやそれ一人で大丈夫なわけ? それって他のメンバーも伊東さんが選抜してるやつでしょ?」
「あァ。奴さん、いよいよ動き出すらしいや。……散々土方といがみ合ってた野郎が、副長の座を俺にくれてやると約束した。アホのおめェでもこの意味がわかるだろ」

 その言葉に、僅かに背筋が粟立った。けれど、それはどこかで予想してもいた。

「そりゃね……あの人、誰かの下につこうって顔じゃねーもん」

 どこまでも上を目指し、出世を続け、自分の僅か上にいる土方を目の敵にしていた。「伊東派」「土方派」などという派閥まで水面下で作られ、自身の元に少しずつ隊士らを率いれていた。その彼が、満を持して空いた副長の座を、沖田に渡すと言う。ならば彼が狙っているものは、ひとつしかない。

『僕はこの手で、新しい価値観を、時代を切り開く』

 先日の伊東の言葉が再び頭をよぎった。ただ単純に頼もしいと思えたら、どれほど良かっただろう。

「俺ァ土方コノヤローがどうなろうがしったこっちゃねェし、副長の座明け渡してくれんなら万々歳でさァ。んだが、俺の大将はただ一人……おめェもそうだろ」

 まっすぐ、確信めいた瞳がこちらを射抜く。「……ったく、性悪め」短く息を吐いて、朋子は頭をがしがしと掻いた。
 沖田の指先がゆるりと伸びてきて、そっと朋子の頬に触れた。絆創膏を上からなぞられ、くすぐったくて目を細める。その直後傷のない位置をつままれ、朋子は「いぃぃぃん!」と奇声を発した。

「いだだだ……で、総悟隊長は本当に一人で大丈夫なわけ? 危険だって」
「おめェは土方追えっつったろィ。二度も言わすな。隊長命令でィ」
「……死んだらぶっ飛ばすよ、無敵の隊長様」
「誰に物言ってんでィ。おめェこそ、土方の首とられんじゃねーぞ。伊東の思い通りに事を運ばせんのは癪だ」
「わかってんよ」
「それにあれァ俺の獲物だからな」
「え、どっち? 伊東さんが? 土方さんが?」

 質問に答えない沖田に、朋子は思わず身震いした。

「……にしても、よくそこまで懐に潜り込めたもんだよ。あの警戒心バリバリな人にさァ」
「ま、土方追い出すのに加担してやったんだ。そのくらいリターンがないとねィ」

 沖田の口角がつり上がる。悪巧みをしている時の顔──とはまた違う。僅かに伏せられた瞳も、トーンの落ちた声色も、彼の静かな怒りを表していた。
 伊東は知らなかったのだろう。沖田総悟という男の本質を。ただの「真選組副長」の肩書きなど、彼の眼中にないことを。
 近藤勲も土方十四郎もいない真選組の、副長の座に興味などないことを。

「総悟隊長、近藤さんのこと頼んだよ」
「たりめーでィ」
「で、土方さんのほうは今どこ?」
「しらね」
「……バッキャロォォォォ!!」

 朋子の叫びが、日の落ちかけた江戸の町の片隅で轟いた。









「伊東さん!!」

 張り詰めた声に呼ばれ、伊東はゆったりした動作で振り返った。その端正な顔には、薄ら笑いが浮かんでいる。

「ああ、君か。どうした、そんなに慌てて」
「聞きました、副長さんのこと」

 その話題を切り出されることを予想していたのか、伊東が笑みを崩すことはない。対照的に、眉の吊り上がった羽月の表情は穏やかさとは程遠い。

「何故ですか、どうしてそんな……!」
「ここ最近の土方くんの愚行は、君も知るところだろう。己で定めた局中法度を己で破ること幾数回、残念だがこのままでは他の隊士にも示しがつかない」
「こ、これまで積み重ねてきた信頼や功績は、その程度で崩れてしまうものなのですか!」
「ああ、そうだよ」

 至極はっきりとした口調による断定に、羽月は愕然とした。信頼というものの壊れやすさと、伊東が完全に土方のことを切り捨てたことを目の当たりにした衝撃に、心臓がドクドクと酷く速く跳ねる。

「彼は真選組のためにこれまでも身命を賭してきた。だがこのままでは隊の士気にも関わる。何より、攘夷浪士が付け入る隙を与えてはならないんだ。僕も断腸の思いだよ……わかってくれるか」

 伊東の表情が苦々しく歪む。仕方がなかったのだとでも言いたげに下げられた眉は、正真正銘、本気で──羽月のことを騙しにかかっていた。

「……わかりません」

 小さく吐かれた言葉に、伊東の片眉がぴくりと動いた。
 羽月は下げていた顔をまっすぐ伊東へと向ける。その顔は事態を悲観しているわけでも、諦めているわけでもなかった。

「伊東さんは、私を見誤っています。私は……貴方が思うほど、馬鹿な人間じゃあない。馬鹿ではあるけれど、馬鹿なりにちゃんと考えてます」
「ほう?」
「伊東さんと副長さんの仲がよろしくないのも、知っています。貴方のさきの言葉が……きっと、本心ではないこともわかっています」

 鈍感だの疎いだの、しばしば周囲から指摘されることのあった羽月ですら、土方と伊東の不和には気が付いていた。一度伊東の前で土方の名を出した時に、その柳眉が歪んだのを羽月は今でもよく覚えている。それに周りの隊士らが、最近こぞって「土方派」だの「伊東派」だのと話しているのを、同じ屋根の下で生活する羽月が一切気が付かないわけにはいかなかった。

「私にも……嫌いな人がいるから、わかります。それでも己をよく見せようとして……笑みを浮かべて、いい顔を繕うことを、私もしたことがある」

 沖田の姉、ミツバと顔を合わせた時。誰かを嫌う自分を隠そうとして、彼女の前で良い顔をした。彼女は、わかっていたのかもしれないけれど。

「では君は何故?」
「え?」
「僕よりよほど長く共に過ごし、今も必死に庇おうとするような土方くんを、僕が嫌っているというのなら、何故そんな僕に良い顔をした? 僕に取り入ろうとでもしていたのか?」
「……違います」
「僕に近づき、利用しようとしていたのか」
「違います!」

 張り上げた声が再び廊下に響く。強く否定した声は、どこかに震えを孕んでいた。眉間に、目元に、唇に力が籠っている。それは、誰への訴えか。

「……貴方が誰を信用していて、誰を嫌っていようと、私には関係ありません」
「それは建前だね」
「いいえ。私は、これまでただの一度も、貴方に嘘をついておりません」

 徐々に強まる語調。温度のない双眸をはね除け、羽月は伊東を見つめる。

「貴方に話した私の話も、すべて本当のこと。貴方にしか話していないというのも、本当。貴方と話していると、楽しくて、安心して、……もしも、兄がいたら、こんな感じなのかと思ったのも、すべて私の本心です。私は伊東さんのことを、もっと知りたいと思ったんです」
「知ってどうするつもりだ? やはり利用しようとしていたのだろう?」
「どうするつもりなどありません。ただ、知りたいと思ったから、知りたいと思った」
「……君、勉学が苦手なタイプだろう」

 呆れたように肩をすくめる彼の声は、一貫して冷たい。あの、やさしかった伊東が。食堂であんなに心穏やかな笑みを見せてくれた伊東が。まるで別人のように、羽月を突き放す。
 話は終わったとでも言うように、伊東は裾を翻して踵を返した。「ちょ、待ってください! どこに──」慌てて羽月が呼び止めるも、伊東が足を止めることはない。

「僕はこれから隊士募集の遠征に赴く。その準備がまだ残っていてね……悪いが今はこれ以上、君には付き合えない。話は帰ってからにしてくれ」

 吐き捨てるように言い放った伊東は、羽月の様子を窺うことなく去ってしまう。その場に取り残された羽月は、彼の背中が見えなくなるまでひたすら動けずにいた。



 ──などという慎ましさを、彼女は生憎持ち合わせてなどいなかった。

「お待ちください!!」
「い゛っ!?」

 突然強烈な力で両腕を後ろに引かれ、伊東は彼に似つかわしくない悲鳴を上げた。大きくのけぞる上半身を、咄嗟に後ろに出した足でなんとかふんばってキープする。肩甲骨がしぼられるように内側に狭まっているのを感じた。伊東はそのまま動くこともできず、滑稽な体勢のままひきつる口元を動かす。

「……君、一体、何のつもりかね?」
「私と話をしてください。私は、今、貴方の話が聞きたいんです」
「あまり、職務の邪魔をするようであれば……君の解雇も視野に入れるが?」

 わざとらしく低い声で唸る伊東。それは若い少女を怯えさせるための圧でもあったが、羽月がその程度で怯むことはもうない。

「それは困ります。私が突然いなくなれば、立ち行かなくなる仕事がありますので。私も、皆さんも困ります」
「君は自己の過大評価が過ぎるな……まあ、気持ちはわからないこともないが」
「私はただ、伊東さんと今、お話がしたいだけなんです」
「……僕を通して、あの男の謹慎を解いてもらおうとでも思っているなら、無駄な足掻きだよ。あれは決定事項だ」
「伊東さんは、どうしてそう頑ななのですか」
「君こそどうしてそう頑ななんだ。余程……あの男のことを、好いているようだな。それかこの件で、僕のことを嫌いになったかな」
「……」

 羽月は黙った。故に彼は、返す言葉がないのだろうと早々に見切りをつけようとする。──しかし。

「……私、確かに副長さんのことは好意的に思っております」
「……なら、」
「それから、朋子さんのことも好きです」
「は?」
「厨房の先輩方も好き。局長さんも好き。山崎さんも好き。他の隊士の方々にも、好きな方がたくさんいます。私は、私にやさしくしてくださった方々のことが好きです。一緒に笑い合える方々が好きです。ご飯を美味しいといってくださる方々が好きです」
「何を……」
「だから私、伊東さんのことも、もう、好きです」
「──、」
「それくらい単純に生きては、いけないのですか?」

 羽月はようやく伊東の両腕を離した。伊東は後ろに倒れまいと力を入れていたから、反動で前にふらつくもなんとか立て直す。しかしそこからぴたりと固まったまま動かない。羽月はどうしたかと彼の前に回ろうとするが、ぱっと横に出された手に牽制されて、反射的に動きを止めた。

「……わかった。ああ、わかったよ……まったく、君は本当に変わった()だな」
「それは……褒め言葉でしょうか?」
「だが、今は本当に時間がないんだ。また後でな……羽月くん」

 彼はそれだけ告げると、今度こそ足早に歩き去ってしまう。頑なに顔を見せなかった伊東を怪訝に思う羽月であったが、彼に呼ばれた名が──そういえば、彼の口から自分の名前が出るのは初めてであったような気がする──いつまでもやわらかく耳に残っていた。