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その日は雨が降っていた。
しとしととしたやさしい降り方は、やわらかい布で少しずつ首を絞めていくような、ゆるやかな苦しみを与えた。肌にまとわりつく水滴は、じわりじわりと毒のように染みていき、全身を取り返しもつかないほどに侵していった。指の先に至るまで、身体中の全ての熱を奪いさるような冷たさだった。
それは春先の甘ったるい匂いが溶けた、死にたくなるような雨だった。
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「よっ、俺のこと覚えとるゥ?」
猫のような金色のつり目が、愉快そうに細められる。真琴は袖の中でクナイを捕まえながら、必死に身体の震えをごまかして口を開いた。
「……き、鬼兵隊の、戦艦にいた、」
「
ケタケタと愉しげに笑う男、阿見原。それは冷たい目で睨まれるよりも、よほど真琴の恐怖心を煽った。
『もし、そこのお嬢さん──』お登勢から頼まれた使いの途中、男の声に呼ばれ、振り返った先にいたのは笠を目深に被った浪人だった。咄嗟に身構えた彼女に突きつけられたのは、目を伏せた女の写真。それが、気を失ったまま囚われている知人の少女だと気付いた瞬間、真琴は全身から血の気が引いた。
なす術もなく遠方で見張られながら歩かされ、たどり着いたのは廃れた工場施設。隠し通路を通され、連れていかれた部屋にいたのは、かの紅桜を巡る事件の際に出会った二色頭の奇妙な男であった。
真琴は彼と一定の距離を保ちながら、質問を重ねる。
「あ……あの子は無事なの?」
「安心しィ、ロリコン趣味はあらへんからなァ」
「な、何が目的? わ、わたしおびき寄せるのにあの子を捕まえたの?」
「アンタごときにそんな面倒なことせェへんて。あの日お二人さんが絡んどったん思い出してな、ついでに真琴ちゃんも招待したろー思て」
こちらの自尊心を砕いていく物言いにどこかデジャヴを感じつつ、真琴は探るように阿見原を見つめる。ひょろりと背の高い分、見下ろされることに圧が重なった。
「な、真琴ちゃん。はよ鬼兵隊に帰ってきィや」
それは脈絡のない誘いだった。しかし真琴にとっては、二度目の経験にも等しかった。
「な、に言って……」
「アンタがおると高杉さんのおもろいとこ見られるってんで、なかなか興味深いねん。それに脱走した新人ひっ捕まえたら高杉さんボーナス支給してくれるかもしれへんし?」
「だ、誰がそんなんっ、っていうかそもそも、わたしは仲間になった覚えなんて、」
「いやいや、アンタは実質鬼兵隊の一員やろ。高杉さんに連れてこられて? 捕虜にしては手放しやし?」
「そ、そんなの、……」
「高杉」の名前を聞くたび、腹の底が厭にざわついた。阿見原といるだけで、高杉のことを次々と思い出した。阿見原の言うことはでたらめで、詭弁で、そのはずなのに反論する言葉が上手く出てこない。
「までも、そんならそんで好きにしたらエエよ。あのちっこいガキも、別にアンタの行動次第でどうこうする気ィとかあれへん。アンタがここで帰ろうが帰るまいが、あとで解放したる。俺ホンマ人質文化好かんねん」
「し、信用できるわけ……!」
「でも思い出しィ。ホンマは戻る機会得られて、泣いて喜ぶほど嬉しいやろ」
「は……!?」
「自分に嘘つくんはやめよォや。真琴ちゃん、高杉さんが放っておけんねやろ」
ドクン、と心臓が跳ねる。ひた隠しにしていた心の裏側を、あの日以来自分でも騙しきれていたはずの自分を、覗き込まれた。
焦燥と混乱が波のように押し寄せる。そのさなか、彼は笑ってなんてことないようにその言葉を続けた。
「──
天地が、ひっくり返ったかのような目眩がした。
彼の紡いだ名前は、もう何年も、誰の口からも聞かぬものだった。真琴はまるで己だけの記憶とするように、誰にも話さず、けれど決して忘れることなく、隠し抱え続けてきた。たかが三文字、音となって並べられただけのそれが、真琴の思考をいとも容易く奪う。
「俺も初めて高杉さん会うた時目ェ見張ったわァ。どっか似とるよなァ、やっぱ顔つき? それとも暗〜い雰囲気やろか」
「なん、で、しって……」
「俺な、一時期伊賀の忍者学校にいてん。真琴ちゃん、アンタの先輩や。ま、俺は俺の才能咲かすんに、あっこは小っさすぎて合わんかったから中退したんやけど。いやァ、アイツちィとも身内のこと話さへんからわからんかったわー。アンタの名字しってようやっとピーンと来たんねん。どや、俺と酒酌み交わしながら思い出話でもしようや」
呼吸の仕方がわからなくなる。心臓が暴れ狂い、胸を破ってしまいそうだった。目の前の男を上手く認識できなくなる。視界がぶれる。焦点が合わない。
「アンタにとってエエ話ばっかやろ。アイツの話が聞けるし、高杉さんに会う理由にもなる」
ペラペラと喋る阿見原は、真琴の様子など構いもせずに言葉を重ね続ける。それは真琴にとって見えない暴力でもあり、そして直接体をいたぶられるよりもよほどその身に堪えた。
「高杉さんに会いたいんやろ? 会うて話がしたい、近づきたい、顔見たい、そばに居りたい。そゆ顔しとるで」
彼の言葉が、記憶にそっと沈んでいたその顔を、徐々に鮮明に浮かび上がらせる。それを思うと、身を切られるような痛みに襲われた。苦しくて苦しくてたまらなかった。胸の内がぎりぎりときつく締め付けられるようだった。抱えきれぬほどの、肥大した憎しみとやるせなさに押し潰されたような彼の顔が、泣きたくなるほどに悲しかった。
「ヨッシャ、ほな俺が攫ったるわ」
真意を掴めぬ提案に、また思考がひっくり返される。攫うと言ったか、この男は。彼はその場に硬直する真琴に接近し、躊躇なく彼女の顎を手で捉えた。肌に触れる指先が不快で、しかし己の手はそれを払いのけようともしない。
「アンタは元々
この男はとにかくよく喋る。口を挟む隙を与えられないのは、幸か不幸か。だが真琴が必死の思いで封をしていたそれを、無粋に引きずり出そうとするその口は、決して真琴の味方になってはくれない。
「俺にはわかる、よ〜ォわかるで。アンタ幕府が、此ん国が、なんもかんもが憎うて憎うて仕方あらへんのやろ? 忍ンなって、見てくれだけ繕ったド汚い世界見てきたんやろ? 私欲にまみれて。必死こいて地べた這いつくばる奴ら食い散らかして。甘い汁啜って。私腹肥やすクソ共が蔓延る此ん世界を。アンタから佳々実奪った此ん世界を。許せへんのやろ? 殺したいんやろ? アイツを捨て駒にした奴らを。切り捨てた奴らを。忍なんて替えが利く、いくらでもおる言うて、便利に使うだけ使こてポイしよった腐れ外道らを。モノみたいに扱った奴らを。黙認した幕府を。それら受けてなお当たり前に回りよる世界を。ボッコボコのぐっちゃぐちゃにしたいんやろ? 切って切り刻んで殴りつけて蹴り飛ばして刺して潰して焼き払ってぶっ壊して滅茶苦茶にしてそれでもまだまだまだまだ足りひん、爆発して四肢がバラバラんなるような、途方もあれへん怒りがまだ、アンタの腹の奥底にあるんやろ?」
耳から入り込んだ言葉は猛毒となり、身体中を侵していく。拙い呼吸が荒さを増す。血流が激しさを増していく。寒さと熱が混濁する。止めどなく汗が流れる。頭が熱くて痛い。目眩が強まる。震えが加速する。激情が全身を殴打していく。
「アイツの抱えた絶望見えんフリして、アンタん中にある黒いモンも踏みつぶして土かけて……無かったことにして、ホンマにエエの?」
ぷつん。
真琴の中の、摩耗したなにかの糸は、あっけなく切れた。