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 三日続いた雨は、四日目にようやく上がった。
 窓の外は肌寒く、いつの間にか夏から秋へと移行してきたことを改めて感じさせる。ゆるりと吹きつける風が、下ろされた髪をもてあそんだ。
 真琴は今日も、一日部屋の中でぼんやりと過ごしていた。船員によって食事は運ばれてくるが、基本的には会話もない。むしろピリピリとした空気は、いつか不意をつかれて刺されるのではないかとさえ思わせた。しかし、それでもいいという投げやりな気持ちも、心のどこかに息づいていた。
 未だになにもやることを与えられないあたり、やはりまだ警戒されているのだろう。この三日間、真琴の処遇に関して審議でも行われているのだろうか、それとも経歴を洗いざらい調べられているのだろうか。はたまた、大きな作戦が動いていて、真琴ごときに構っている暇はないのだろうか。何も知らされていないし、犯罪組織内部の動きなど知る由もないのだから、この程度の想像に基づく憶測しかできなかった。

 開け放した窓から外を眺める。からりと晴れた空はいつの間にか暮れ、黄色い月が顔を出していた。まんまるではなく、横のほうが三日月ひとつぶんくらい削がれている。こんな時にタイミングよく満月だったりするのは、やはり漫画の中だけだな、とぼんやり思った。
 不意に静かな足音を耳が拾った。それは部屋の前で止まり、ノックもなしに戸を開ける。また阿見原かと思い、仏頂面のまま顔を向けると──そこにいたのは包帯を片目に巻き付けた男だった。

「!?」

 反射的に飛び跳ねるようにのけぞり、窓脇の壁に背中をしたたかに打ち付けた。「ハッたァ!!」挙動不審な呼吸音と混ざり、珍妙な悲鳴が上がる。

「……」
「……」
「…………」
「………………」

 居たたまれなさ極まりし空間だった。おぞましいほど気まずい空気だった。高杉は一言も発さなかったが、その顔がどんな表情を浮かべているのか想像することすら恐ろしく、真琴は尻もちをついたまま視線を下げ続ける。

「……、」

 しばらくして、畳を踏み締める音が耳に届く。彼が近寄ってくるのを聴覚で感じながら、真琴はゆっくり目を伏せた。
 ──本当に、また会うことになるなど思っていなかったのだ。
 ここに連れてこられた日。久しく見ていなかった、もう見ることもないと思っていたその顔に、心臓が異様なほど跳ねていたのを、よく覚えている。

『……阿見原、こいつァどういうつもりだ』
『まま、そう怒りなさんなって。アンタのお気に入りのォでもあるんやろ?』

 阿見原の言葉を受けて、静けさに沈んだ隻眼がこちらを覗いた。心の内まで見透かされているようで、酷くこちらを所在なくさせた。
 あの時高杉は何か言いたげにしていたが、すぐに背を向けて『拾ったお前が面倒を見ろ』と言い捨てて去ってしまった。疑うでも、まして斬り捨てるでもなく。彼は真琴が鬼兵隊の船に同乗することを容認していた。
 信用、しているとでもいうのか。たった数度、会っただけの自分を。一度は自ら引き入れたとはいえ、黙って逃げ出したような自分を。まだ彼は、自分に対してある種の特別視をしているというのか。
 そもそも、どうして。大きな犯罪組織の頭領が……攘夷に何よりの関心を向けていそうな彼が、たかだか一介の町娘に傾倒など、果たしてするのだろうか? 面白半分だろうか、それとも単なる暇つぶしだろうか。思い出されるのはあの雨の日だったが、やはり真琴には彼が何を思い、どう考えているのかわからなかった。

 音がやむ。下方だけを映していた視界に、高杉の足が入り込んだ。

「お前、何故黙って阿見原についてきた?」

 それはそうだ。これまで彼の誘いを二度拒み、最後には半ば脅しを受けるような形でその手を掴まされた。その真琴が、阿見原に追随してきたのだ。彼が疑問を抱くのも無理はない。

「阿見原に脅されたか」

 首を振った。あれは脅しではない。けしかけられた自覚はあるけれど、その手を取る選択をしたのは、真琴自身の意思だった。
 立ったまま話していた高杉が、しゃがみこんでその身を真琴の視界に映した。下を向いているから、顔はまだ見えない。心臓が騒ぎ立てる。するりと手が伸びてきて、真琴の頬に指を滑らせた。その冷えた指先と、触れられた感触に、思わず過敏に肩が跳ねる。

「俺に会いにでも来たか」

 愉快げに喉を震わせる音がする。煙管の匂いがした。心臓がドクドクと跳ねる。恐怖心と、緊張と、羞恥と、混乱と、郷愁と、虚脱と。言葉では表しきれない、無性に泣きたくなるような感情たちがない交ぜになり、胸の内側で揺蕩う。

「……そうだって、言ったら?」

 頬の手が、ぴくりと反応した。
 真琴はようやく、おもむろに顔を上げた。背後の窓から差し込む月明かりに、彼の顔は控えめに照らされていた。身震いするほど美しい顔だった。それは記憶の中の大好きだった従兄と重なって、彼女の目頭に熱をもたらす。
 須臾しゅゆの夢を見ているようだった。鋭い瞳を縁取るまつ毛も。色の薄い唇も。やわらかな髪を押さえる白い包帯も。すべてが手の届くところにあった。触れられる距離にあった。
 頬をなぞる指先が、くすぐるように耳を滑り、こめかみをなぞり、頭に触れる。佳々実に撫でられたやさしい感覚が蘇る。
 彼の顔がゆっくりと迫る。心臓が平生よりも多く脈を打つ。願わくば、この音が彼に届いていませんようにと、真琴はそっと祈って瞳を閉じた。

 衣擦れの音がする。頭を撫でる手が、わずかに毛束を引っ張るような動きをした。それからすぐに、離れていく感覚。

 遠ざかった熱に、恐る恐る瞼を開くと、高杉は真琴を見ていなかった。彼の視線は己の手元に落とされていて、その指先には白いなにかがつままれている。真琴は思わず数ミリだけ顔を寄せて、目を凝らす。

「……わたげ……?」

 それは蒲公英たんぽぽの綿毛だった。おそらく、真琴の髪の毛に引っかかっていたと見える。窓から入ってきたのだろうが、こんな時期に、一体どこから飛んできたのか。

「……秋蒲公英たんぽぽの花咲く年は、雪が浅い」
「え?」

 高杉は緩慢な動きで立ち上がると、真琴を置き去りに窓のほうへ近づいた。指先に掴んだ綿毛を、風に乗せて手放す。

「こいつが秋に咲くってこたァ、その年は暖冬ってこった。……ま、今は天人どもが持ち込んだ外来種がそこらで年じゅう咲いてやがるから、アテにならねェがな」
「……詳しい、んだね」
「昔……人から教わった」

 聞いた、ではなく教わったといった。彼にそういう相手がいるということに、心が妙に動かされる。あの時、口にしていた『先生』だろうか。名前は記憶から抜け落ちてしまったけれど。孤独を孕んだようなその目に、他者とのつながりが見えるたび、真琴の心の奥底には安堵の念が生まれていた。そして彼が、それを自分に教えてくれたことに、どうしてか涙が出そうな心地だった。
 夜景を眺める彼の横顔を、真琴は見つめていた。風にわずかに揺れる黒髪が、月光を受けて煌めいていた。本当に美しい人だと思った。幻想的とさえ感じていた。夢のような時間だった。願わくばこの時が、永遠に続いてほしいと思っていた。