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 もう何年前のことだろう。あれは確か、彼が御庭番衆の一員となる前の日だった。
 わたしは忍になりたかった。強くてかっこいい彼の姿に憧れていた。だけどわたしは、特別要領が良いわけでもなにか特技があるわけでもなかった。身内以外、誰に対してもびくびくしてしまって、困難にぶつかったらすぐに折れてしまうような人間で。こんなかっこ悪いままじゃ、忍にはなれないと思っていた。

「お前は、忍にゃ向いてねェだろうなァ……」

 いつも通りの仏頂面で、彼もそう言っていた。わかっていた。だけどそれでも、わたしは何者かになりたかった。内気でヘタレで、何もできないわたしじゃなくて。親に期待してもらえない駄目なわたしじゃなくて。逃げてばかりの、弱いわたしじゃなくて。

「まァでも、なりてェなら頑張れ。お前はまァ努力も筋もそこそこ十分。何よりお前は、護るために力を振るえる奴だと、思う」

 珍しく饒舌だった彼は、そう言ってわたしよりもうんと大きな手のひらで頭を撫でてくれた。ぬくもりがやさしくて、名残惜しくて、そのままずっと撫でていてほしいと思った。

「先に御庭番衆になって待ってるよ」

 待っていると、言ってくれた。わたしはそれが、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。今、この時、死んでしまってもいいと思えてしまうくらい、本当に嬉しかった。わたしが彼のもとへ行くことを、彼は期待してくれたのだ。

「うん! 待っててね、絶対だよ!」
「わーったわーった」
「それで一緒にね、なんでも護れちゃう強くてかっこいい忍になるの!」
「……そうだな」

 そのやさしい笑みは、わたしが最後に見た彼の顔だった。









「……真選組、を……?」
「決行は二日後。手筈もすでに整っているでござる」

 呼び出された部屋で河上に告げられた計画に、真琴の思考はわずかの間停止していた。その意識を引き戻したのはやはり目の前の彼で、自分の名を呼ぶ声はいつも通り平坦だ。

「ぬしはどうするでござるか」
「どう、って」
「ずっと部屋に閉じこもっているだけでは、ここに来た甲斐がなかろう」
「……頼めば、わたしも、連れて行ってくれるの?」
「さァて、連れていくまでは可能でござるが」

 軽い調子で河上は肩をすくめる。彼の優勢が強調され、真琴は今一度身構えた。

「拙者はまだぬしのことを信用しきってはおらぬ。聞くところによれば、真琴殿は真選組の中に懇意にしている者がいるのでござろう」

 それはどこからの情報だろうか。恐らく阿見原あたりか。そしてその「懇意にしている者」とは、誰を指しているのだろう。正直、心当たりがほとんどないだけに、酷い動揺を見せずに済んだのは幸いだった。

「……わたしが、途中で手のひら返すって?」
「まァ、さすればぬしを斬るだけにござる。……だが、ぬしはあの晋助が連れてきた女。ぬしの中に、あやつを見初めさせる立派なものがあるのでござろう」
「……それは、しらないけど」
「ふむ……ならばこうしよう」

 河上は己の顎に手を当て、依然として余裕を滲ませながら条件を突きつける。

「二日後、まずはある男を迎えにゆく。そこでもし邪魔立てする隊士いぬが現れたら、ぬしにもその始末を手伝ってもらおうか」
「……わかった」

 数秒の間を置いてから、暗闇の中のような瞳で真琴はひとつ頷いた。




「いやァ〜よかったなァ真琴ちゃん。ここで手柄あげりゃスピード昇進間違いナシやで。ワンチャン狙てこ!」

 河上との話を終えて部屋を出ると、そこには阿見原がにやけ面を浮かべて待ち構えていた。彼の神出鬼没ぶりにはもう慣れたもので、真琴は無視して自分の部屋へと向かう。その後ろを、阿見原は軽い足取りで当たり前のように追いかける。

「あの人もなかなか懐広いなァ。俺やったら大事な作戦に信用でけへん奴連れてったりしないわァ。あ、ちなみに俺は別の仕事あって同行でけへんのよ。真琴ちゃん一人で寂しない? すまんなァ〜面倒見てやれんくて!」

 相も変わらず、彼は一人でよく喋る。誰に対してもそうなのだろうか。よくもまあそんなに口が回るものだと呆れ七割、素直な賞賛三割程度の気持ちだった。

「今の此ん世界は、俺もクソや思うとる」

 出し抜けに呟かれ、思わず止まりそうになった足を、真琴はどうにか動かし続ける。意外だった。彼の軽薄な口からそんな言葉を聞くとは。てっきり彼は、根っからの享楽主義者とばかり思っていたが。
 奇妙な騒ぎ方をする心臓に気付かないふりして、真琴は部屋までの道のりをただただ機械的に歩き続ける。阿見原も別段気にする様子もなく、それに続いた。

「せやから高杉さんには賛同しとる。ただ組織っちゅうのがどうも性に合わんでな、一応契約社員的な? そんな感じで? 雇うてもろてん」

 攘夷志士に契約も糞もあるのだろうか。つーか会社でもねーし。ってそもそもペースに乗せられては駄目だ駄目だ、と真琴は心構えをし直す。そもそも彼の言葉は常に虚言混じりの可能性があった。何一つ、鵜呑みにしてはいけないのだ。

「俺は、クソ世界にただ従うだけの家畜んなるつもりはあれへん」

 ──しかし鵜呑みにしないことと、心を揺さぶられないことは、また別物でもあった。彼のそれは攘夷派以外の者に対する謗りに近く、そしてその声は鋭利な刃物のように、真琴の胸にするりと深く突き刺さった。
 人知れず拳を握りしめる。伸びた爪が手のひらを破りそうになって、びりっとした痛みが走った。なんとか力を逃そうとして、震えるように、声を殺して息を吐き出す。

「にしてもホンマにやる気出すとは思わんかったわァ。どないな心変わりなん?」
「……」
「ま、エエわ。これからもよろしくなァ? 真琴ちゃん」

 ねぶるように呟かれ、真琴は逃げるように両目を固く瞑る。しかし真っ暗の視界は思い出したくもない光景を浮かび上がらせ、息のしづらさをただただ助長させるだけだった。









 彼の母親は、つまりわたしの叔母にあたる女性だった。彼女は忙しいわたしの親の分まで、わたしを本当の娘のように可愛がってくれていた。

「真琴、ちゃん……」
「おばさん……?」

 包みこむような、やさしい雨の日だった。彼女は傘も差さずに、わたしの家へやってきた。一人で留守番をしていたわたしが、彼女の来訪に心を弾ませてたのも一瞬だった。
 濡れた髪から、雨粒が垂れていく。彼女はすっかり色の抜けきった顔で、わたしを見つめていた。うつろな目は妙に腫れていたのを、覚えている。
 彼女はおぼつかない足取りでこちらへ近づくと、濡れるのもいとわず地面に膝をついてわたしを抱き締めた。こうやって震えた人に抱き締められるのは生まれて初めてで、他人の震えというのは、こんなふうに自分の体に伝わっていくのだと知った。

「かが、み、が……佳々実、が……」

 今にも吹き飛んで消えてしまいそうな、弱々しい声だった。酷く痛々しい姿だった。彼女が触れた箇所から、染みた雨がわたしに移って濡れていくのを感じた。

 わかっていた。忍の世界は残酷で無慈悲なのだと。
 わかっていなかった。自分やその周りの身にも、当たり前に振りかかることなのだと。

 ざあざあ、ざあざあざあ。水が世界を叩く音がする。
 僅かに強くなった雨粒が、取り返しのつかない皹を、世界に走らせた。