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この世界が嫌いだった。
大嫌いで、憎くて憎くて憎くてたまらなかった。そこに身を投じて生き続けるのが嫌だった。まばたきすら、呼吸すらも億劫だった。
それなのに。自分可愛さに死ぬこともできず、何か行動することもせず。ただひたすら、天人に蹂躙されたこの大嫌いな世界を享受して。のうのうと、目的もなく惰性で生き続けるような自分が、嫌いで嫌いで、この世界よりも大嫌いで、仕方がなかった。
こんな自分、消してしまいたかった。
「阿見原から聞いた」
高杉が真琴の部屋に再びやってきたのは、河上から計画を教えられた翌日、つまり決行日の前日だった。
日が落ちても灯りの一つもつけない真琴は、暗がりの中でただ一人そこに居た。座布団の上で少し崩した正座をしながら、ゆっくり目を瞬かせて、高杉の言葉を考える。阿見原は彼に何を、どこまで話したのだろう。過去、御庭番衆に属していたことだろうか? それとも佳々実についてだろうか。
どれをとっても、高杉の琴線に触れるような気がしてならない。けれど真琴の心は、自分でも驚くほどに凪いでいた。血の気が引くことも、体が震えることも、汗が噴き出すこともない。高杉晋助という男への恐怖心が拭われる日など一生こないと思っていたが、存外、人は慣れるものだったということか。
前と同じように真琴の前まで迫ってしゃがみこんだ高杉は、彼女の生白い両頬を無遠慮に片手で掴んだ。
「……てめェは、何故幕府に与していた?」
色の薄い唇が紡いだのは、真琴が予想したことだった。それを聞くからには、御庭番のことも、佳々実のことも聞かされたのだろう。そして彼の投げかけたそれは、当然の疑問だった。きっと彼には、自分のことがさぞかし滑稽に見えてるに違いない。あろうことか仇に仕え、身命を賭して護ってきた真琴のことが、理解できないに違いない。
無理やり彼のほうを向かされた顔は、その目にどんな表情で映っているのだろうか。対する彼の顔は怒っているようにも、もちろん笑っているようにも見えない。ただただ温度の低さと、感情を失ったような静けさを孕んでいた。指先から伝わる体温は酷く冷たく、真琴の肌を生理的に粟立たせた。
その手が頬からゆるりと離れていく。それがなぜだか妙に名残惜しい気がして、そんな自分自身に困惑していると今度はとん、と肩を押された。
気づけば真琴の体は、畳の上に倒されていた。己の髪の毛は床に散らばり、彼の髪の毛はさらりと自分に向かって毛先を垂らしている。ふわりと彼の持つ香りが感じられ、自分の意思に反して胸の内側が場違いに鳴り出した。ゆるく着られた着流しが、重力に従って肌との間に隙間を作る。赤みの少ない肌に、わずかに傷のあとが見えた気がした。
彼にこうされるのは二回目だった。別に恋人同士でもなんでもないのに、そんなことがあるのかとどこか可笑しくさえ感じていた。両脇に手を置かれているものの、拘束されているわけでもなく、抵抗しようと思えばできた。しかし彼女はされるがまま、彼を見上げていた。
影になって見えにくい彼の顔は、それでもやはり、上等な宝石のように美しいと真琴は感じていた。まつ毛の一本さえ視認できる距離の近さに、頭の中がなんだか夢の中のようにふわふわとした。
数秒か、数分かの沈黙。破ったのは、意外にも真琴のほうだった。
「……約束が、あったから」
「……」
「そこで会おうって……約束してた……だから、もういないって、わかってるのに……頑張ったの……」
ぽつり、ぽつりと震える唇で紡いだのは、あの年上の幼馴染たち以外知らない、彼女の本心だった。
「で、も……たまたま、話がきこえてきて……真実、し、って……」
要領を得ない、言葉の足りない吐露だった。しかし高杉は、ゆっくりと瞬きをしながら彼女の声に耳を澄ましていた。
「それでも、護るために……がんばった……でも……ずっと……いまでも、憎くて憎くて、しかたがない……」
目元に、眉間に、口元にしわが寄り、その表情を歪ませていく。
「だ、けど……何もできなかった、じぶんが、いちばん、憎くて……目の、まえに、いたのに……なにもしなかった……ただ、仕えてただけ……」
雫が浮き、膨らみ、目尻から横に流れ落ちていく。
「御庭番衆で、いることが、居続けることが……あの人と唯一、つながってるすべだと、おもってた……でも、そんなの、建前で……ただ、自分が、かわいかっただけ……ただの保身だった……」
喉が痙攣し、声が上擦る。
「ねえ……たか、すぎ……」
小さく、風が吹けば消えてしまいそうな声音で、彼女は彼を呼ぶ。
「なんで、あのとき、殺してくれなかったの……?」
──静かな空間だった。波のさざめきすら聞こえず、ただただしんとした無の世界だった。ふたりの間を邪魔するものは何もなく、ただ涙に濡れた瞳と、翡翠の隻眼は絡み続けた。
「……気に食わねェな」此度の沈黙を破ったのは、高杉のほうだった。真琴は涙に濡れたまつ毛を震わせ、目を見張る。
「死んで本望なんて奴ァ、いねェんじゃなかったのか」
「……!」
「真琴、てめェ万斉の誘いを受けたらしいな。なァに、好きにしろ。そしてそこで試してみりゃあいい」
何を、とは言わなかった。彼は真琴からその身を離し、ゆっくりと立ち上がる。視界がわずかに明るさを取り戻した。離れていく体に、思わず伸ばしそうになった手をどうにか抑える。代わりに畳を押し上げ、彼女もゆっくりと上体を起こした。
「……てめェは、『俺』を見ちゃいねェだろ」
こちらを見下ろす高杉の、おもむろな唇の動きが妙になまめかしく見えたのは、己の煩悩のせいか、ただの現実逃避か。阿見原は、佳々実と高杉がどこか似ていることさえ話していたのだろうか。だがそれでも別に、真琴は構いやしなかった。
最初はそうだった。彼の言う通りだった。
大好きだった、大切だった従兄の面影を勝手に重ねて、もういない彼を見出して、己を慰めようとでもしていたのだろうか。自分勝手な欲を満たさんためだけに、彼を見た。そんなつもりはなくとも、薄れゆく佳々実の記憶を鮮明にするための触媒となっていた。繋ぎとめるための鎖となっていた。
だけどそれは、ただのきっかけに過ぎなかったのだろう。
あの戦艦で、彼の言葉を、嘆きを、その叫びを聞いて。──わたしは、彼に似た貴方じゃなくて、貴方自身を、
『高杉晋助』自身を──
「てめェが俺を通して見てんのは、てめェ自身だ」
息が、止まったような気がした。
心臓がにわかに跳ね出した。顔から熱が消えていくような感覚に呑まれる。唇が震えた。混乱が津波のように頭を襲う。全身がざわめく。呼吸の仕方がわからなくなる。
「てめェなんざと一緒くたにすんじゃねェ。てめェは俺と違う」
注がれる視線は、凍てつくように冷たかった。低く、あでやかな声は這うようにおぞましかった。絞り出すように吐かれた言葉は、酷く苦しそうで、そして真琴をどこまでも突き放していた。
指の先ですら、ぴくりとも動かない。体のどこにも力が入らず、今にも再び床に倒れてしまいそうだった。目眩のような感覚さえ感じていた。腹の奥が、意識が遠のきそうなほど冷たい。酸素が上手く吸えない。
おぼつかない視線を、彼の向けた後ろ姿に無理やり合わせる。その背には、いつも、苦しみの影が張り付いていた。そのまま彼の足音が遠ざかっていくのを、真琴はただただ聞いていた。
彼を、傷つけてしまったのだろうか。わからない。彼が何を考え、何を想っているのか、真琴にはちっともわからなかった。けれどきっと、傷つけてしまったのだと、嗚咽のように刻まれる鼓動は叫んでいた。
苦しい。
苦しくてたまらない。
──どうして、わたしはそうなんだろう。こんなに、苦しみながら頑張って生きている人が、傷ついて。わたしみたいな何もできない、どうしようもない人間が、生きているせいで。わたしのせいで。わたしなんかのせいで。
それはまるで自分への呪詛だった。瞳から溢れた雫がぼろぼろと頬をつたって流れ落ちる。
(だって、そんなの不公平だ)
──高杉みたいな、頑張って、例えそれが人道に背くことだったとしても、必死に行動して、進み続けている人が。たくさんの人に囲まれ、信頼され、必要とされてる人が。どんなにあがいても、苦しみから逃れられないなんて。わたしみたいな、いつも逃げてばかりで、腰抜けで何の役にも立たなくて、時間を無為に貪って、いなくなっても誰の人生に支障をきたすわけでもない要らない人間が、のうのうと生きてるなんて。
自分勝手で独り善がりだと、おこがましいと言われるだろうか。でも、それでも、できることなら、彼と代わりたかった。彼に苦しんでほしくなかった。悲しい顔をしてほしくなかった。
彼が苦しんでいるのが、自分のことのように苦しかった。身を斬られるように痛かった。息が詰まるほど辛かった。声を上げて、泣き出してしまいたかった。けれどそれこそ本当におこがましくて、真琴は必死に嗚咽を堪える。
そしてそんなことを考えている自分は、やっぱり、きっと反吐が出るほどの偽善者で。ただ、自分が傷つかないように自分を必要以上に下げて。それを免罪符にして。自分の心を護るための考えばかり巡らせて。どこまでもどこまでも嫌な人間で。
──ああ、死にたいなあ。死にたくて死にたくてたまらない。こんな人間、早く死んでしまったらいいんだ。
だけどわたしは最悪最低のヘタレ野郎で、どうしようもないクズで、愚か者だから、自分で死ぬのはやっぱり怖くて、できなくて。
誰かが殺してくれるのなら、わたしはきっと、ほかのどんな方法よりも、心穏やかに死ねる。
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しとしとと、やさしい雨が降る。しかし耳に聞こえるのは、ノイズのような雑音だった。襲い掛かるような獰猛な雨音だった。それと矛盾するように、不快だとは感じなかった。何ひとつ、感じるものはなかった。
濡れた墓石を、彼女はただただ見つめていた。流れる水滴は、まるで泣いているようだった。
傍らに咲く蒲公英の、濡れて閉じた綿毛が、飛び立つこともできずに落ちて汚れていく。
雨は止むことを知らずに、長く長く降り続いている。
あの日からずっと、彼女の中には
カラフル 春霖篇(了)