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「オーイ、いい加減起きろジミー」

 遠くから聞こえる、間延びした声。覇気のないそれはやる気の欠片も感じられず、此方の意識を浮上させるには至らない。現実までには一枚膜を挟んだ場所でうとうとと微睡んでいると、突然ビリッと電撃が走り、山崎は思わず飛び起きた。

「っ!? ……っ!?」
「おー、起きた」
「い……いや普通怪我人の怪我つつきます!?」
「大して深い傷でもねーだろ。ギャンギャン喚くなやかましい」
「っていうか、あれ……君……、」

 左腕を押さえながら騒いでいた山崎は、隣にしゃがみ込んでこちらを見下ろすその女を、ようやくしっかりと視認した。動きやすそうな丈の着物に、役人に良い顔はされないであろう腰に刺さった棒切れ。どろりと眠そうな瞳に生気はない。彼女は、たしか、真琴の友人の──

「……っ!!」

 途端、寝起きの頭が一気に覚醒した。気を失う前の記憶が濁流のように押し寄せる。山崎は慌てて立ち上がろうとするが、

「まァ待てや」
「ぐえっ!!」

 前から雪の腕を首に引っ掛けられ、あえなくラリアット状態になった。ゆるい声とは裏腹に、有無を言わせないそのパワーと圧。押し戻された山崎は、彼女を潜り抜けることはできないと悟り仕方なく布団に座り直す。──あれ、布団だ。白くて清潔で、妙に肌触りも良い。しかもこの薬臭さは……医務室か? あたりを見渡すと案の定何床かのベッドに、薬箪笥などがあった。

「道中オメーがぶっ倒れてて何事かと思ったわ。大変だね〜おまわりさんは恨み買いまくってて。んで屯所のほう引っ張ってったらなんかもぬけの殻だし」
「……それで、なんで君がここに? 俺に何の用?」
「ちィと聞きたいことあったから。オメー手当てしてやったんだから代わりに質問に答えろ」
「そんなんずるいでしょ……っていうか、え、じゃあこれ君が?」

 そう言って山崎は自分の姿を見下ろした。黒い外套もインナーも脱がされ、半裸となった体にはあちこちに包帯が巻かれている。篠原に斬りつけられた腕も、クナイの刃を握った左手も、肩にかすった跡も。未だ痛みは残るが、斬られた直後よりはいくらか落ち着いていた。

「……恩に着ます。でも何が聞きたいのかしらないけど、そう簡単に部外者に内情は漏らせませんからね」

 未だ頭は重いが、しっかりと気を引き締める。彼女は騙しにくく、出し抜きにくく、常に他者より数枚上手をいくタチの人間であることを、以前より山崎は本能的に理解していた。とくに真選組がこのような状況に見舞われている以上、警戒心は勝手に引き上げられていく。
 双眸をさらに細めて様子を窺う山崎に、雪は面倒くさそうに頭を掻いた。

「オラ、こないだ廃工場で諸々あったろ。あれの事後処理とかで、なんか引っ掛かるモンなかった? なんでもいいんだけど」
「え? なんでまた急に……」
「あー……真琴がちょっと」

 僅かに言い淀んだ雪だったが、面倒になったのか腹をくくったのか、素直にその名を出した。山崎の眉間に、皺が刻まれる。

「……会ったんだ」
「あ?」
「その真琴さんに、さっき会った」

 今度は、雪が顔を険しくする番だった。山崎は彼女の表情がそんなふうに動くことを意外に思いつつ、彼女も彼女で真琴に関するなんらかの事情を知っているのだと察していた。

『──……ご、め……なさい』

 今にも消え入りそうな、無理やり絞り出した声だった。山崎の腹の前で、隠すようにしてクナイを突き刺した己の手が痛むからか、それとも。
 
『……いま放り込んだ、仮死薬は、そう長くは持たないけど……一度欺くくらいはできると思う、から』

 口の奥に投げ込まれ反射的に嚥下してしまった異物は、すでに体の中に急速に巡り始めていた。朦朧とする意識の中で、山崎はどこかにくらんでしまいそうな真琴の存在に必死に食らいつこうとする。しかし視界は完全に暗転し、気がつけば目の前にいたのは彼女の友人だった。
 真琴は自分を護ってくれた。その手を深く傷つけてまで、自分を殺したふりをして、あの人斬りから護ってくれたのだ。
 あの時、彼女の鮮血が押しつけられた腹部を押さえる。怪我なんて負っていないのに、血濡れた隊服も脱いでいるのに、嫌にズキズキと痛む気がした。

「……なんで真琴がまた」
「……鬼兵隊の男と一緒にいた。まるで、仲間のように話していた」
「その怪我も真琴にやられたと?」
「いや……まァ、是とも非とも言い難いけど……」
「オメー話せること話せや。オラちょっと飛んでみろ」
「いやカツアゲ? そういうなら、そっちもそれなりに話してくださいよ……」
「チッ……」

 山崎と雪は、各々妥協したように話せるだけの情報を開示し合った。真選組内部で起きようとしている反乱。その首謀者が鬼兵隊と手を組んでいたこと。そこに真琴が加担していたこと。それなのに、山崎を殺したふりをして護ってくれたこと。雪も雪で、あの廃工場での事件があった後から、真琴の様子が妙に可笑しく見えたこと。数日前から彼女が里帰りをしていたこと。しかしそれが嘘であると、とある伝手で判明したことなどを話した。

「じゃ、オメーの腹にこびりついてた返り血は真琴のか」
「そうです……俺のじゃない」
「ふーん……」
「あ、でも命に別状はない怪我だったと思うので、しんぱァァァまだ何も言ってないのにいだだだだ!!」
「誰が心配なんざするかあの勝手気ままなドヘタレチキンによォ」
「いや君には言われたくないよね! 君が一番やりたい放題だからね! 助けてもらった分際であれだけど、勝手に屯所侵入して勝手に道具いじってたよね!」
「無用心にも陣地すっからかんにしてるそっちが悪い。私が騒ぎに乗じた攘夷浪士じゃなくて運が良かったじゃん」
「ぐうっ……!」

 返す言葉もなく、押し黙る。雪は表情を変えないまま息を吐くと、おもむろに立ち上がった。

「おいジミー、パトカーどこ」
「え? 何を……」
「いいか、私ァ真選組なんざノミの鼻くそほども興味ないし、真琴のほうだって過度に干渉してやる気なんかない。んだがアイツになんかあっちゃあ、後々私がどやされるもんでね。ほんと面倒くせーよあのバーさん私のこと護衛役かなんかだと思ってんの? 守護神か私は」
「いやしらねーよ何の話してんだこの人」
「オメーも一人寂しく、ここで待ってるつもりはさらさらねェんだろ?」

 こちらを窺う瞳は、確信を得ているようだった。唇を噛み締めるように力を籠めた山崎は、血に濡れた隊服にぱっと手を伸ばす。そして決意を固めて腕を通すと──いや普通に血生臭いし新しいもの着るべきじゃね? と思い直して即刻脱ぎ捨てた。







 黒煙が立ち上り、炎が大きくなっていく。それに染められたかのように、日中晴れていた空はいつの間にか曇天へと様変わりしていた。

「伊東先生! 爆破箇所から炎が出てこれ以上は危険で……」
「列車を止めるな! この列車にはあの二人以外我々の仲間しかいない、走り続ける限り奴らは袋の鼠だ!!」

 部下による報告に、伊東は声を荒らげた。予期せぬ事態の連続に、その整った顔立ちには苛立ちが滲む。
 江戸から離れていく列車の中。伊東はかねてより企てていた近藤勲の暗殺計画を決行するはずだった。それを邪魔したのは、見張り役として同乗させていた沖田の寝返り。彼に内密に仕掛けられていた爆弾により、伊東らの乗る列車は大きな痛手を受けていた。さらにその混乱に乗じて、当のターゲットであった近藤は沖田の手により別車両に退避。連結器も外され、今一度近藤の首に刃を向けることは叶わない。

「クソッ……!」

 誰にともなく悪態をつく。真選組でも随一と名高い剣士の沖田を引き込み、自分の計画は万全であったはずだ。しいて言えば、沖田が同郷の土方に一切の情を向けていないことにわずかな引っ掛かりを覚えていたが、その彼の後釜につきたがっていた以上、本気で土方の排除を望んでいたのだと思っていた。

「アンタでもそんな顔するんですねィ」

 ふいに声がかかり、ハッと顔を上げるといつの間にか沖田がこちらの車両へ戻ってきていた。「伊東先生」傍らで腹心の篠原が声を潜めて名を呼ぶ。伊東は即座に冷静さを取り戻した。背後には己に従う伊東派隊士ら数十名。対する沖田は、たった一人。戦況は、圧倒的に此方が優勢に見えた。

「そういやァ、あの馬鹿を随分手懐けたらしいじゃねーか」

 出し抜けに投げられた言葉だったが、伊東はそれが誰を指しているのかがすぐにわかった。彼女の幼く朗らかな笑顔が妙に胸の内に波風を立たせ、しかし伊東はそれをおくびにも出さずに余裕ぶった口元を見せる。

「誰のことかね? 名を言わねばわからんよ」
「わかってるくせに、悪いお人だねィ」
「君も随分と意地を張るものだな。つまり、君はあの……羽月くんが、僕に懐いているのが気に食わんということだろう」
「随分なトンチキ推理をドヤ顔で語るんですねィ」
「……それで? 君は結局何が言いたいのかね」
「伊東さん。アンタあの馬鹿にほれたか」

 伊東はレンズの奥の目をきょとんと丸くした。数秒経って、投げられた言葉をようやく飲み込むと、「……何を言い出すかと思えば」とあしらうように鼻で笑う。

「僕が恋情を向けられるのならばわかるが。君のそれこそ頓痴気な憶測だね」
「随分また自信過剰ですねィ。だが残念、あの馬鹿はアンタだけになびくような一途な女じゃねェ。誰に対しても愛想まき散らす、寒気がするような八方美人のいいこちゃんでィ」
「……ああ。よくしっているとも」
「んだがそんなの長続きしやしねェ。なんせアイツは馬鹿だからなァ」

 沖田の言葉が、今度はうまく咀嚼できず、伊東は怪訝そうに眉をひそめる。

「伊東さん。アンタは『人』が『他所』に向ける悪意にゃ敏感だが、好意にはめっぽう鈍いみたいだねィ。だから足元すくわれんでさァ」

 わざとぼかした、含みのある物言いだった。それは、理解しえぬこちらが劣位に立たされていると感じさせ、無遠慮に伊東の神経を逆撫でた。
 沖田が腰の愛刀に手をかける。伊東はそれを見逃さず、眼鏡のブリッジを押し上げながら小さく口を開いた。

「沖田くん。君はもっと、利口な男だと思っていたが……」

 背後の隊士らは抜き身の刀を構え、今にも伊東の横を通り越して、沖田に飛び掛からんと殺気をまとわせている。しかし沖田は、外につながる扉を背に、そこから動くことはない。

「近藤を逃がし、一人討ち死にすることで悲壮美にでもひたろうというのかね。だが残念だったな。近藤は僕の計画通り死ぬ」

 その言葉が合図であったかのように。列車の外がにわかに騒がしくなる。沖田が窓のほうに視線を滑らせると、重火器を積んだ無数の車両が列車と並走しているのが見えた。その集団の先頭には、バイクを走らせる男の姿。──手配書で拝んだことのある面だ。

「この戦場いくさばにいるのは、僕たちだけではない」
「……鬼兵隊か」

 人斬り、河上万斉の姿を認めた沖田は、冷たい声色を零す。伊東と攘夷志士のつながりがいよいよ示された。沖田は大きな瞳を瞬かせると、その口元に初めて笑みを乗せた。

「ワリーね伊東さん。実は俺も一人じゃねェ」

 ざわり。
 全身の毛が、よだつような感覚だった。伊東がなにか言葉を発するより早く、列車の外から爆音が届く。その余波で揺れる車内で、伊東とその仲間たちは窓越しに信じられないものを見ていた。

「バカな……あれは……!!」

 ──漆黒の外套。白いスカーフ。さらさらと風に揺らされる黒髪に、彼のトレードマークとも言える咥え煙草。

「御用改めであるゥゥゥ!! てめーらァァ!! 神妙にお縄につきやがれ!!」

 口上を叫ぶ仲間らと共に、ボロボロの警察車両の上で不敵に笑う土方十四郎の姿がそこにはあった。