09
神田たちが長期の任務へと発ち、幾日か過ぎたある日の事だった。ハナコはアンティークな仕事机と向き合い、せっせと羽ペンを動かしていた。
"ハナコくーん!教団の中のどっかにいたら至急司令室まで来てくれるかい?"
不意に廊下からそんなアナウンスが聞こえ、ハナコは即座に立ち上がり一目散に部屋を出た。ひゅうひゅうと風を切って走り、あっというまに目の前には司令室の扉。
コンコン、
「ハナコです」
「どうぞ」
きちんと挨拶をし、お辞儀をしてから司令室へと足を踏み入れる。背筋もしゃんと伸びていて、"実に中央庁らしい”とコムイは思った。
「随分と速かったね」
「至急といわれましたので。それで、なにか緊急事態ですか?」
「…うん」
コムイはイスに腰掛けたまま机に肘をつき、こめかみを指で揉む。
「アレンくんのイノセンスが破壊された」
「…アレンさん、とは」
「あれ、キミ達もしかして面識ないの?」
コムイはハナコの予想外の問いに顔を上げる。
「外見はどのようなかたなのですか」
「白髪で左目に大きな傷跡がある子」
「…あぁ、あのかたですね。存じております」
「そっか、よかった」
ハナコは一瞬遠い目をしたが、コムイは気付かないまま話を進める。
「ついさっき、アレンくんのイノセンスが何者かにより破壊されたという報告が入った」
「…」
ハナコは静かに耳を傾ける。コムイは続けた。
「しかしアレンくんのイノセンスは無くなったわけじゃないみたいなんだ」
「…というと?」
ハナコはぴくりと眉を動かし、首を横たえる。
「話は少し遡るんだけど、アレンくんは何者かの攻撃を受けて心臓に致命的な穴が開けられていた」
「…しんぞうに、あな…」
「そう。普通なら死んでいてもおかしくないんだが、どうやら彼のイノセンスがその心臓の穴を塞ぎ彼の命を救った」
コムイの言葉に、ハナコはほんの少し目を見開く。
「これは異例だ。アレンくんが特別だとしか思えない」
「…そうですね。それで、わたしは何をすればいいのでしょうか」
「うん。今アレンくんはイノセンスを元の形に戻すことができないでいる。そこで、ハナコくんには今すぐアジア支部に向かってもらいたいと思っている」
「アジア支部、ですか」
「うん。どうかな?…もちろん時間は掛かると思うが、」
「ごしんぱいには及びません」
「…え?」
コムイはハナコが何を言おうとしているのか全く分からず、思わず変な声をあげた。
「アジア支部ならば、ちいさいときに行ったことがあります」
「うん、でも時間…」
「わたしのイノセンスにかかればイチコロです」
「いち…え?」
「イチコロです」
「いや、うん…キミのイノセンスにはそんな能力もあるのかい?」
コムイは訝しげに眉を寄せた。
「はい」
「…そうかい。じゃあ今すぐに向かってもらいたい」
「分かりました」
そう言って踵を返したハナコを、いつかと同じようにしてコムイは彼女を呼び止める。
「ハナコくん」
「はい」
「中央庁にいたなら、何か心当たりはないかい?」
「それはどういう意味でしょうか」
「彼は…アレンくんは"ハート"と関係あるのかどうか。何か少しでも知っていれば教えてくれ」
ハナコはこてんと首を傾げてコムイを見る。
「そう言われましても、わたしはただの鴉でしたので。仮になにか手がかりがあったとしてもそのような機密、鴉のわたしにはいっさい知るよしもないです」
「…ルベリエ長官の娘として、何か聞いてないかい?」
執拗に食い下がるコムイ。ハナコはぴくりと眉を動かしたが、すぐに無表情に。
「あなたがアレンさんを心配するきもちはわかります。しかしざんねんながらなにも知りません」
「…そっか」
「申しわけありません。それでは失礼します」
パタン、
静かに扉を閉め、ハナコは自室へと戻った。
自室に戻ると、一目散に団服を身に纏う。それからちらりと仕事机の上に置かれている紙を見る。
「…てがみはまたこんど」
そう言いながらその紙を引き出しにしまい、その後自室の窓を開けてそこに足を掛ける。カシャンと小気味のいい音を立て、両手の黒い皮製のアームウォーマーの手の甲部分に嵌めてあった小さな手裏剣を外して構えた。
「イノセンスはつどう」
フオンと音を立て、手にしていた手裏剣が大きな風魔手裏剣へと形を変えた。
「さんの技、疾風(はやかぜ)」
そう唱えると、イノセンスが凄まじい風を起してハナコを風の球体の中に覆った。
「いくよ」
ヒュウンと風の球体が飛び出す。
後には、パタパタと音を立てる窓のカーテンの音だけが響いていた。