18.
「・・・・・・・ふぅ。」

とんだ足止めを食らったものだ。誰も居ない廊下を歩きながらハルカは溜息を吐いた。
SHRも終わり早く帰って休もうと帰宅の準備をしていたハルカは、知らない生徒に馴染みの司書が自分を呼んでいると呼び出された。そうして図書室に向かうが司書室の扉に“現在職員室”と札が掲げられていたので、そうかと思い職員室に向かったのだが呼んだ覚えはないと言われてしまった。無駄足を踏まされた上、何故誤報が伝わったのか首を捻るばかりである。

「・・・・・・・・」

校舎内を歩き回ったお蔭で疲れた身体がやや重い。それでも教室に置いてきた鞄を取りに行こうと2階に上がる階段をゆっくりと上った。そうして教室から出る間際、見かけた遊戯の様子を思い起こした。彼の表情はA組から帰ってきた時からずっと陰っていて、それは恐らく狐蔵乃の言葉を気にしているのだろうとハルカは思った。何か困ったことがあればすぐ身の内に秘めてしまう遊戯。きっと放課後となった今でも一人で悩み続けているのだろう。

(もしまだ教室に残ってたら、一緒に帰ろうかな。)

不吉な予言をされた者同士、話をしながら帰れば気分転換にもなるだろうとハルカは考えたのだ。超能力は信じないが、しかし言い知れぬ不安にハルカ自身気落ちしているのも現状。今は一人で居るのが多少なりとも怖かった。

(それに、お礼と謝罪も言わなきゃ。)

ハルカが失言したときのこと。“友達”を大切にする彼はハルカのことを庇ってくれた。優しい彼は恐らく周りから敵視される自分を放っておけなかったのだろう。その気持ちは素直に嬉しかった。けれどそのお蔭で遊戯まで不吉なことを言われたのもまた事実。自分を庇ったせいで遊戯が悩むのは非常に申し訳なく思っていた。

「・・・・・」

まだ残っていてくれればいいなと思いながら、下げていた視線を正面に戻した、その時だった。

「・・・・・!」

踊り場まで一段残したハルカの目の前に、黒いマントを頭からすっぽり被った“誰か”が立っていた。踊り場にある窓を背後にしたその人の顔は逆光で見ることができないため、男なのか女なのかも分からない。

「・・・・・・だ、れ、」

突然現れた黒いその人に驚き唇を震わせる。そうして脳裏に横切る、狐蔵乃の言葉。

“黒き使いが現れ、お前を奈落の底へと誘う”

黒い人と“黒き使い”が重なる。まさかこれが黒き使いなのか。
ハルカは止まっていた足を一歩下げ、一段下りた。すると相手も一歩歩み、踊り場から下りてくる。それに恐怖を感じたハルカはごくりと息を飲んだ。マントの奥から視線を感じる。まるで鋭利なナイフで貫くように鋭い視線。ハルカはそれ以上動くことができなくなった。

「・・・・・・・」

スッ・・・・と、相手の腕が静かに持ち上がる。それはゆっくりとした動作で、ハルカはその腕を視界の隅で確認することしかできなかった。やがてその腕の先が、ハルカの肩に触れる。

「・・・・・・!」

瞬間全身を襲ったのは、ふわりと柔らかな空気の感触。それを意識した瞬間には既に足が階段を離れていて、まるでスローモーションのように視界がぶれた。氷の槍が胸を貫くような戦慄が走る。ーーー落ちる。

「・・・・・・っ」

全身から汗が吹き出す感覚がした。後ろ向きに落ちているため、当たり所が悪ければ死んでしまう恐れがある。階段の下が、まるで奈落のようにハルカを待っている。

嗚呼、予言が当たった。

もう遠くなってしまった黒いマントのその人は、ハルカの落下を見届けることなく階段を駆け上がっていった。そして下から僅かに見えたマントの中身に、ハルカは瞠目する。

(やられた。)

それは今この学校の女子の間で時の人となっている人物。ハルカに告げた予言を本物とするためにハルカの前に現れたのだと、瞬時に理解した。

「!!」

すると突如、ハルカの胸元から紅い光りが飛び出した。それは蛇のように天井近くまで駆け上り、そしてグンッと急降下してはハルカの身体を取り巻くように伸びた。突然の出来事に驚く暇なく、とうとうハルカの身体は階段下の床に叩きつけられる。激しい衝撃。背中から肺を強打され「うっ」と呻いた。左足がガンッと階段の淵に当たり、ズクンと痛みが突き抜ける。
背中に硬く冷たい床の感触。頭を強かに打ち付けたかと思われたが、しかし後頭部を何かに支えられその衝撃はなかった。何が起きたのかまるで理解できていないハルカは視線だけ彷徨わす。そうして見えたのは、赤い光りがハルカを覗き込んでいる様子だった。それは本当に蛇のような形をしていて、赤く光る身体の頭部らしき場所にはルビーのように深い紅色がふたつ、煌めいていた。ちろちろと光る紅い舌がハルカを労わるように頬を舐める。
ハルカはその異様な光景に驚いたけれど、しかし全然恐怖を感じていなかった。寧ろ懐かしく、愛おしい気持ちが溢れる。
ハルカの視線に蛇は彼女が無事と安心したのか顔を離し、そしてハルカの頭の下から身体をそっと抜け出してハルカの胸に飲み込まれていった。

「・・・・・・・」

ハルカはコトリと床に頭を預けた。今のはなんだったのか。あの赤い光には見覚えがあった。先日アルバイト先で凶悪犯に撃たれた時に現れた光と同じだった。その光は前回も今回もハルカの胸元、今は制服の下にあるペンダントから現れたようだった。2度もハルカを守るように現れた赤い光。今回はまるで蛇のような姿を見せてくれたそれは、果たしてハルカには分からないものだった。
取り敢えず起き上がろうとハルカは頭を持ち上げたが、身体が鉛のように重く言うことを聞かない。床に強かに打ち付けた余韻がまだ残っているようだ。肺への圧迫が原因か、呼吸がややしづらい。

「・・・・っ、げほっごほっ」

一度大きく息を吸おうとして失敗し咽る。ハルカは痛む身体を曲げ何度も咳を零した。

「ごほっごほっ、けほっ」

床に着いた耳に自分の咳き込む声に混じってタンタンと軽快な音が響く。それは何かと考えるより先に、別の声が聞こえた。

「・・・・っ、ハルカ!」

ハルカの名前が叫ばれ誰かがハルカに走り寄る。その声にハルカは聞き覚えがあった。

「おい、しっかりしろっ!」

倒れるハルカに驚いたその人は、ハルカの動かない上半身を抱え上げ自身の胸板にハルカの頬を寄せた。緩慢にその人物を見上げて揺れる視界に収めれば、それは自分の友であり、しかしその眼差しはいつもの彼ではなかった。

「狐蔵乃にやられたのか。」

遊戯は眉根を寄せながらハルカの前髪を払う。なんの障害もなくされたその動作に、ハルカは漸く自分が眼鏡を掛けていないことに気が付いた。落下した時に外れてしまったのか。

「・・・・・」

話すのも辛い今ゆっくりと瞼を落として是とする。少し咳き込むと遊戯の表情が更に歪んだ。

「何があった。」

そう聞かれ瞼を上げれば遊戯のハルカを抱く手に僅か力が籠る。ハルカは上がらない手の代わりに視線を階段の上に向けると、遊戯もそれに倣ってそちらに視線を向けた。そうしてハルカの予言を思い起こしたのか「そういうことか」と舌打ちをする。どうやら孤蔵乃に突き落とされたことを把握したらしい。
そんな彼に身を寄せるハルカは、遊戯の体温と聞こえる心音を感じながら酷くホッとした。突然襲った恐怖と激痛に張詰めていた糸が緩んだように安心する。

「・・・・・・」

階段から目を離した遊戯は胸元のハルカの顔を見て憂いた表情を浮かべ、指の背で頬を撫でた。安堵して猛烈な睡魔を呼びよせたようだ、ハルカの目はとろりと微睡んでいる。

「少し、寝ていろ。」

目元を手で覆われたハルカに暗闇が訪れる。暗い暗い闇。けれどそれは優しい闇だった。元の遊戯の太陽のような優しさとはまた違う、もう一人の遊戯の月のような優しさ。ハルカは素直に目を閉じて、その闇に意識を任せた。眠りに落ちる寸前、また礼を言えなかったと、僅かな悔いを残して。

* * *

ツン・・・と鼻を擽る薬の匂いで目が覚めた。ぼやけた視界に映ったのは白い天井だった。
きょろりと視線だけ動かすと、目の端に影が映る。そちらに顔を向けると、ハルカに横顔を見せて椅子に座り、腕と足を組んで目を瞑る遊戯の姿があった。今はその眼差しが見えないので、どちらの遊戯かは分からない。

「・・・・・・」

彼は寝ているのだろうか、ハルカが目を覚ましてもその目を開くことはない。
ハルカはじっとその横顔を見つめた。眼鏡をかけていないので視界は少々ぼやけているが、あまりじっくりと見たことのないその横顔は美しかった。すっと通った鼻筋と、意外と長い睫毛。色白な肌に金色の前髪が垂れて影を作る。唇はきゅっと絞められていて意思の強さを見せたそれに思わずドキリと胸が高鳴った。柔らかな笑みばかり見せていた彼とは、こんなにも綺麗な人だったのか。

「・・・・・・」

遊戯の横顔を長いこと眺めていたハルカは急に恥ずかしくなり、掛けられた布団に口元を埋める。友人に胸を高鳴らせるなんて少しの驚きと戸惑いと、不思議とくすぐったさを感じて笑った。

「・・・・何を、笑ってる。」
「!」

突然聞こえた声に驚いて顔を上げれば、閉ざされていたはずの遊戯の瞳がこちらを見ていた。その眼差しと雰囲気からなんとなくこれはもう一人の彼だと感じたハルカは、首を横に振った。

「・・・なにも、ない。」
「・・・・・・・」

首を傾げる彼に、ハルカは再び笑みを浮かべた。珍しい彼のその様子に可愛らしいと思ったからだ。

「・・・!杏子、ちゃん・・・?」

はたと自分の隣のベッドに誰かが寝ていることに気付いた。目を凝らして見るとそれが杏子だと分かり驚く。彼女は目を覚ます様子はなく、何かあったのかの一抹の不安を感じたが、すやすやと健やかな寝息を立てているのではてと首を傾げた。

「あのあと、教室で杏子が狐蔵乃に襲われていたんだ。クロロホルムをかがされたらしい。」
「・・・・!」

ハルカと遊戯のような不吉なものではないにしろ、予言をされていた杏子。ハルカの脳裏にマントの下で狐蔵乃の姿が思い起こされた。もしも彼が自分にしたことと同じように、杏子に告げた予言を本物にしようとして杏子を襲ったのだとしたら、そう思うと身の毛がよだつ。超能力を本物とするためにはどんな手段もとるというのか。例え人の家に火を放とうと、薬品を使おうと。

「明日にはあの超能力がハッタリだったということがみんなにバレるだろうぜ。」

その言葉に、ハルカは再び遊戯に視線を戻した。

「・・・・また、ゲーム?」
「オレの“心の領域を越えた”からな。」
「・・・・・・・」

一体、今度はなにをしたというのだろうか。遊戯と杏子の無事な姿を見る限り、彼が勝ったのはすぐに予想できたが孤蔵乃はどうなってしまったのだろうか。ハルカは今までの罰を受けた人々を思い出して口をつぐんだ。

「大丈夫。今回はお前が考えるようなことはしてないぜ。少し眠ってもらっただけさ。」

だから心配するなとハルカの表情を見て説明する彼だが、それでもハルカは顔を曇らせたまま口元を布団で隠している。それに気づいた遊戯はハルカの方に身体を向けて顔を覗き込んだ。

「どうした?」
「・・・・・・・・・・」

それでも答えないハルカに遊戯は困った顔をした。まるでなにを言いたいのか分からない。ハルカは布団の中で小さく息を吐いた。

「・・・・あまり、無茶、しないで、ほしい。」
「・・・・・!」

布団越しのくぐもったその言葉に遊戯は目を見開いた。あまり無茶をして欲しくない、怖いことをしないで欲しい。遊戯のことだ、身を挺して孤蔵乃の所業を征したと考えたハルカは兎に角彼のことが心配だった。故の言葉に胸を打たれる遊戯。心配させてしまった申し訳なさと同時に心配してくれた嬉しさを感じて、遊戯はつと目を伏せて、それから制服のポケットからハルカのものを取り出し差し出した。

「・・・・・!」

ハルカがそれを確認すると、それは銀色の、いつもハルカが身につけているもの。

「レンズにヒビが入っていた。多分、落ちた時にどこかにぶつけたんだな。」

布団から手を出してそれを受け取る。確かにレンズにはヒビが入っていて使い物にはなりそうになかった。

「なぁ、ハルカ。」
「・・・・・?」

呼ばれて顔を上げると、彼は目を細めてじっとハルカの目を見つめていた。

「折角可愛い顔してるんだ。眼鏡で隠すのは勿体無いな。」
「・・・・!」

唐突な口説き文句にハルカの胸がドキリと高鳴った。前にも似たようなことを言われたが、彼はどのような考えで口にしているのだろうか。杏子に言われたときはまた違う、擽ったくてどうしようもなく嬉しく切ないこの気持ちは一体何なのか。ハルカは目をぱたりと瞬かせた。よく分からない激情に混乱してしまう。頬が熱くて仕方がなかった。

「・・・・・さて、そろそろ杏子とアンタの母親が迎えに来るだろ。オレは先に帰るぜ。」

送ってやりたかったが、流石にひとりで二人を抱えるのは無理だと苦笑いする彼は立ち上がり、ベッドを囲うカーテンから出ていこうとした。

「・・・!待って・・・・!・・・っ!」
「お、おい!」

そんな遊戯を追うように慌てて起き上がろうとすると、途端に鈍い痛みに顔を歪ませ言葉を切る。それに気づいて慌てた遊戯は、ハルカの傍に戻り肩を支えた。

「急に起き上がるな。」

やや強引にベッドに押し戻そうとする彼をハルカは慌てて止める。すると遊戯は不機嫌そうにハルカを睨んだ。少し怖いと思った。

「・・・・・助けて、くれ、て、ありがとう。」
「!」

前回も今回も、不安や恐怖に陥ると必ず傍に寄ってくれる遊戯。それは確かにハルカの心の救済となり、感謝を言いたかった。できる限りの笑顔でそう言えば、見開かれていた遊戯の目は嬉しそうに細くなり、そして応えた。

「・・・・・・ああ。」

月の優しい光が、夜の闇を照らしていた。