いつもはゆったりと流れるはずの景色が、今日は速いスピードで過ぎて行く。それは別にハルカが超人化して猛スピードで走っているなどと、そういったことではなく。
スピーカーから流れる音楽は母親のお気に入りの曲で、ハンドルを握る母は上機嫌に鼻歌を歌っている。それを聞きながらハルカは窓の外を眺めて小さく溜息をついた。窓ガラスに映ったもうひとりの自分も、物憂げに溜息をついていた。
「おはよー杏子!」
「あ、遊戯、おはよー。」
始業時間よりも幾分か早い時間に教室にやってきた遊戯は、すでに教室に居た杏子と挨拶を交わす。教室は生徒たちの話し声で賑わっており、それはいつもとなんら変わりのない光景。の、はずだった。
「・・・・・・・・?」
騒がしく話す声はどこか緊張味を帯びており、いつもと違う賑わいに気づいた遊戯は小首を傾げた。
「ねぇ、なんかあったのかな?皆様子がおかしいみたいだけど・・・・」
「ああ、あれね・・・・。」
席まで付いてきていた杏子を振り返って問いかければ、杏子はやや考えて遊戯を手招く。素直に顔を近づけて耳を傾けると、杏子は声のトーンを抑えて言った。
「今朝さ、A組の教室で倒れてる狐蔵乃くんが見つかったんだって。」
「え!?倒れてた!?」
なんとも穏やかではない話に遊戯は驚いて杏子の顔を見る。一体彼に何があったというのか。まさか誰かに襲われたのかと遊戯が目を瞬かせると、杏子は静かに首を振った。
「ただ眠ってただけみたい。だけどね、それよりも別のことで皆騒いでるのよ。」
「別の・・・?」
杏子の深刻そうな声に遊戯は思わずごくりと喉を鳴らす。先見の力を持つと自ら言う孤蔵乃の身に一体なにがと固唾をのんで顔を強張らせる杏子を見守っていると、突然杏子はふぅと溜息を吐いて前のめりになっていた姿勢を戻した。
「狐蔵乃くん、その時大の字になって寝ててさ。それでマントがめくれて中に予言を書いた紙がいっぱい貼られてるのが見つかったんだって。しかもね、この前の火事の件で捜査してた警察が狐蔵乃くんが火をつけたところを目撃したっていう人を見つけたらしくてね。それで狐蔵乃くんの超能力がインチキだってことがわかったのよ!」
「・・・・・ええ!?」
まさかのニュースに遊戯は目を剥いた。インチキであることは薄々感づいていた遊戯は、自分の予言の信憑性を高めるために実際に火事を起こす孤蔵乃の狂気に驚愕と恐怖を感じた。
(でも・・・・そういえば・・・・)
昨日の放課後のこと、遊戯は職員室に用事のある杏子を待っている間に見つけた借りた覚えのない本を図書室に返しに行った。ところがそこで遊戯は倒れてくる数多の本棚に襲われた。となれば遊戯の机にあった本もぐらついてすらいなかった本棚がドミノ倒しとなったのも全て狐蔵乃の仕掛けたものだったのだと遊戯は気づいた。
そう思って身震い。自分は狐蔵乃のインチキを本物にするために、一歩間違えれば命を失う所だったのだ。
「遊戯・・・?」
「え!?あ、ごめん!ちょっとびっくりしちゃって・・・・」
杏子の心配そうな声に遊戯はハッと我に返り、慌てて笑顔を見せた。けれどその笑いがうまくできていなかったのか、杏子は眉を潜めて遊戯の顔を覗く。
「ねぇ、もしかして昨日、狐蔵乃くんに何かされた・・・・?」
「ぇえ!?」
いきなり核心を突かれて思わず声が上ずる。流石杏子は鋭い。
「遊戯も狐蔵乃くんに予言されてたでしょ。しかも結構危なそうなの。なんかあったでしょ。」
遊戯のその反応にこれはなにかあったと真剣に聞く杏子に、遊戯は慌てて首を振った。
「いや、別に!なにも危険なことはなかったよ!ホント!どこもケガとかしてないし・・・・!」
「ケガって・・・・、ねぇ遊戯、昨日私が職員室行ってる間どこに行ってたの?」
「ぐっ・・・!」
しまった、と自分の失言に気付くが時既に遅し。杏子は白状しなさいとでも言うように目尻をつり上げて遊戯を睨んだ。
「ああ・・・・・えーと・・・・・な、なんか知らないうちに、本がボクの机に入ってて、さ・・・・返しておこうと思って図書室に行ったら、・・・・その・・・・」
「んん?」
基本気が弱い遊戯は幼馴染の杏子に自分が勝てるはすがないと分かっている。よって躊躇い気味に説明するのだが、語尾を小さくする遊戯に杏子は先を促すように更に顔を近づける。好意を持つ女の子が顔を近づけるなんて場違いにも胸を高鳴らせる遊戯は半歩後ずさりもごもごと言葉を濁した。それでも真剣にまっすぐ遊戯を見てくる杏子の視線に耐えかねて、ついに観念したように遊戯は目を逸らしてぽつりと呟いた。
「〜〜〜、本棚が、倒れてきてさ・・・・・」
「ええ!?ちょっと遊戯、ホントに大丈夫だったの!?」
驚いた杏子は遊戯の手や頭を見てどこか異常がないか確認しだす。
「だだだ大丈夫だって!ホント!ちゃんと避けられたみたいだから!」
慌ててそう言うと、杏子は「それならいいけど・・・・」と、しぶしぶ遊戯から離れた。それにホッとした遊戯は、しかし自分が言った言葉にはたと違和感を覚えた。
遊戯は本棚が倒れる瞬間、孤蔵乃の言う“無数の文字”を理解したがそれ以降の記憶が全くなかった。気が付けば自宅の私室に居て、倒れてくる本棚に恐怖していたはずなのにどこも痛いところがない。確認と自分の身体を見てみたが打撲の一つなかったのだ。
もしかしたら無意識のうちに本棚を回避したのか。そしてあまりのショックに気を失ったとか・・・・それならそれで男として情けなさすぎて凹むのだが。
「・・・・・あー、心配かけてごめんね?しかも昨日何も言わずに帰っちゃったし・・・・」
「ううん、無事だったならそれでいいのよ。それに私も・・・・」
「え?」
謝れば一瞬顔を曇らせた杏子に遊戯は目ざとく気づき聞き返す。けれど。
「おーっす!はよーっす!」
「あ、城之内くんおはよ。」
「はよ、城之内。」
タイミングがいいのか悪いのか、城之内の弾む声に意識を削がれ杏子と遊戯は振り返った。相も変わらず潰れた鞄を抱える城之内は、遊戯と杏子の姿を見て辺りを見回した。
「ハルカまだ来てねぇの?」
自分の席に鞄を置いて遊戯たちに近づく城之内の言葉に、遊戯は今日初めて窓際の席を見た。
「ホントだ。珍しい。」
城之内の言うとおり、窓際のハルカの席は空席となっていた。
いつもならば自分たちより早く登校し、頬杖を突いて窓の外を見ているか読書に勤しんでいるかのどちらかをしている筈のハルカの姿がそこにはなかった。ぽつんとその席だけ寂しげに朝日の光りを浴びている。
「いつもならとっくに来てる筈なのに、何かあったのかな。」
杏子もやはり不思議に思っていたのか、その声は心配の色を帯びていた。或いは風邪でも引いてしまったか、それとも。
「なぁ・・・・まさか昨日の狐蔵乃さまの予言が当たって・・・」
城之内の言葉に遊戯の心臓が大きく打った。
“黒き使いが現れ、お前を奈落の底へと誘う”
遊戯の脳裏に蘇る、狐蔵乃の予言。もしもハルカも自分と同じように、予言を本物とするために何かされたのだとしたら。そう考えるだけで途端に胸を渦巻く不安が増していく。同じことを思った杏子が城之内に今朝発覚したことを伝える言葉さえ、暴れだす心臓の音でかき消されて聞こえない。
彼女の姿が見えないことが、こんなにも胸をかき乱すなんて。
・・・・っ、ハルカ!
おい、しっかりしろっ!
「っ・・・・!?」
つきん・・・と頭に痛みが走り、遊戯は反射的にこめかみ辺りを抑えた。けれどそれは本当に一瞬で、触れた時には既に痛みは引いていた。
「・・・・・?」
何かが聞こえた気がした。誰かが誰かを心配する声。それはどこかで聞いたことがある声。とても身近で、けれどそれが一体誰なのか遊戯には分からなかった。誰だっけ、と逡巡していると教室の後ろの扉がガラリと音を立てて開いた。反射的にそちらに目をやった一同は、しかし次の瞬間驚きに目を見開いた。
「え!?」
「ハルカちゃん!?」
「お、おいどうしたんだ!?」
出入口に現れたのは、松葉杖を突いて自分の席を目指すハルカの姿だった。左足に巻かれた包帯がなんとも痛々しい。それだけでも十分に目を引く姿なのだが、クラス中が驚くのはそれだけではなかった。流された長い黒髪も化粧なしのすっぴん顔もいつも通りなのだが、彼女を特徴づける常備していたはずの眼鏡がなくなっており惜しげもなく晒されたその素顔。まるで大怪我をしたうえ別人に見えるその姿に、クラス中がどよめき黙々と歩を進めるハルカを凝視していた。
逸早く正気に戻った杏子が慌ててハルカに駆け寄って支える姿を見て、遊戯も城之内も漸く我に返ってハルカに駆け寄った。
「どうしたのそのケガ・・・・・!」
あまりの衝撃に動様を隠せず遊戯は少し声を大きくする。しかし対するハルカは普段と変わらず落ち着いた様子で席につき(杏子は甲斐甲斐しくハルカを座らせたり松葉杖を窓際に立てかけたりと世話をしていた)、静かに言った。
「・・・・・滑って、階段から、落ちた。」
「「ええ!?」」
「はぁ!?」
ハルカの言葉に3とも素っ頓狂な声を上げる。しかしそんな3人の様子を気にすることなく、ハルカは鞄から用具と教材を取り出し机の中に詰めた。
「階段って、どこの!?」
杏子が机に手をついて詰め寄ると、ハルカは杏子を見上げてぽつりと答えた。
「・・・・・そこの、図書室に、行く階段。」
言われて3人とも必死にその階段を思い起こす。そして愕然とする。
「・・・・って結構高い所から落ちたってことじゃん!」
「・・・・・・・・」
杏子が大声で騒ぐがやはりハルカは落ち着いた様子で最初の授業の教材を引っ張り出した。
「おい、ホントにそれ事故なのかよ?狐蔵乃にやられたんじゃないのか?」
狐蔵乃が予言のために自ら手を下していたことを聞いた城之内が遊戯の後ろから緊迫した様子で尋ねる。するとハルカは教材を持つ手をピタリと止めて城之内を見上げた。その顔はほぼ無に等しく、レンズ越しではない視線で真っ直ぐ射抜かれ、思わず城之内も遊戯もたじろぐ。
「・・・・・・自分で、滑って、転んだ。」
まるで強調するように言われた言葉に、これ以上の詮索はするなと言外に感じた城之内はそれから口を閉ざした。肯定とも受け取れるが、けれどそれ以上騒ぐような真似をするなということか。このように明らかに拒絶を表した彼女は初めてで、遊戯も城之内も杏子でさえそれ以上この話題に触れることはできなかった。
「・・・・・・じ、じゃぁ眼鏡は・・・・?壊れちゃったの?」
杏子が躊躇いがちに聞けば、今度はいつもと変わりない様子で教材をトントンと整え机に置き、「・・・・・落ちたとき、に、壊れた。」とだけ言った。
「じゃぁ今は裸眼なの?」
「・・・・・コンタクトに、変えた。」
「あ、ああなるほど。ハルカちゃんの眼鏡かけてない姿って初めて見たからすごく新鮮ね。」
「・・・・・ないと、違和感、あるけど・・・・」
身体の一部となっていた眼鏡がないと落ち着かないらしくハルカは顔を顰めた。それでも苦笑を浮かべているハルカを見てやっと安心したのか杏子はそのまま雑談を初めてしまった。
置いてきぼりを食らった遊戯と城之内は顔を見合わせ、もう先の鋭い空気を感じない彼女にホッと胸をなで下ろした。
「ハルカさんのあんな顔、初めて見たね。」
「おお。ちょっと迫力あったな。」
雑談を続ける二人を背に、遊戯と城之内は声を抑えて言う。
「でもさ、やっぱり事故じゃないよね、これ。」
「ああ、多分な。大方狐蔵乃に階段から突き落とされたんだろ。」
「やっぱりそうだよね。“黒き使いが現れ、お前を奈落の底へと誘う”って、つまり誰かが階段下に突き落とすって意味だったんだね。」
「なんでそんな事が平気でできるのかわかんねーな。ハルカも先生とか警察に言えばいいのに。」
「きっとあんまり大事(おおごと)にはしたくないんだよ。ハルカさん、目立つの苦手だし・・・・・」
ちらりと二人して杏子とハルカの姿を見れば、ハルカはやはり気にした風もなくいつもと変わらない様子である。本人がそれでいいなら第三者がとやかく言う必要はない。けれど狐蔵乃がしたことに憤りを覚える城之内は、納得できないといった顔でハルカから視線を外した。
「ああーなんでオレ、あんなのに騙されたかなーっ!ちょっと考えれば分かることなのによーっ!」
悔しそうに顔を顰める城之内に遊戯は苦笑する。
「周りの雰囲気で思考を持ってかれちゃったんだと思うし、仕方ないよ。」
「あー・・・でもやっぱ癪に障るし許せねー。遊戯、お前も昨日やられたんだろ?ケガとか大丈夫かよ。」
「うん、避けられたみたいだから大丈夫。どこも痛くないよ。」
「それならいいけどよ・・・・」
まるでさっきの杏子と同じことを言う城之内に、遊戯はこっそり心の中で笑った。当時の記憶はないけれど自分の身を本気で心配してくれる人が居ることに喜びを感じる。長年願ってきた“親友”という存在をこんなに近くに感じることができる。不謹慎だがその心配が凄く嬉しかった。
「・・・・ところでよー遊戯。」
「ん?」
突然肩を抱かれた遊戯は何?と城之内の顔を見上げた。すると城之内はさっきの悔しげな表情から一変にやにやした表情でちらりと自分たちの後ろを見やった。
「・・・ハルカのやつ、眼鏡外すと結構美人だな。」
「!?」
にやりと笑って言われた言葉に遊戯の心臓が大きく跳ねる。顔に一気に熱が集まるのを感じて、遊戯は口をぱくぱくと開け閉めした。
「あっはっはっ!おっまえ分かりやすいなぁ!揶揄い甲斐があるっ!」
「!!ひ、ひどいよ城之内くんーっ!」
腹を抱えて笑い出す城之内に遊戯は顔を真っ赤にして抗議する。実を言うと今の城之内の指摘は遊戯がハルカを見て最初に思ったことなのだ。所謂「眼鏡マジック」か、将又彼女自身が元来そうであったのか、遊戯の目に映ったハルカの姿は大変目を惹くものであった。レンズ越しでしか見られなかった目は大きく、少し目尻がつり上がっているところが芯の強い様子を見せる。けれど長いまつげの下の景色を映す茶色の瞳は同じパーツを持つ人間のはずなのに特別美しく見えて。白い肌にほんのり健康的な薄紅に染まった頬と小さな鼻、それからその下のぷっくりとした唇。その唇が小さく開く様が朝日に照らされ妙に艶かしく映り、遊戯はごくりと唾を飲み込んだ。
「・・・・・武藤、くん?」
「えっ!?」
見つめた先の唇から発せられた聞きなれた音に驚いてパッと視線を上げると、彼女は不思議そうに遊戯を見ていた。
(ぼ、ボクってばいつの間に・・・・!)
無意識下でハルカを見つめていたことに漸く気づいた遊戯は顔を真っ赤に染め上げる。
「・・・・・なにか、あった?」
「い、いや何もないよ!?め、眼鏡かけてないハルカさん見るの初めてだからびっくりして・・・・」
誤魔化すようにそう笑うと、ハルカはその様子に僅か訝しみながらも「・・・・・そう。」とだけ言って視線を杏子に戻した。
「遊戯、お前見とれすぎ。」
「じょ、城之内くんが言うから・・・・!」
プププと笑う城之内に再び抗議する遊戯。逃げる城之内はそれでもげらげらと笑いながら楽しそうに遊戯を煽った。その光景はいつかのいじめの光景と似ているようで、しかしそれとは違う和やかな雰囲気に見ていた杏子は呆れたように溜息を吐いた。
「なーにやってんだか、あいつらは。」
「・・・・・・ふふ。」
ハルカはしかしそう言いながらも嬉しそうな顔をする杏子を見て小さく笑った。