その日、ハルカはいつもと同じ時間に目を覚まし、同じ時間に家を出てバスに乗り込んだ。バスの中は満員でもなければ全く乗客が居ないわけでもなく、ある程度座席は埋まっていた。車内にざっと目を通し、空席を見つけてスカートを押さえながら座る。鞄を膝の上に置いて、ホッと一息ついたところでバスの乗車口が閉まり、低く独特のある運転手の発車のアナウンスがゆるりと車内に響いた。バスが動き出すと身体が揺れ、少し座席に押し付けられる感覚にけれど当たり前の如く反対の力をかけて姿勢を戻す。それからいつも通りに鞄から読みかけの本を取り出した。ちらりと見えた隣の窓際に座る濃い灰色の背広を着た歳若い男性は、早朝で眠いのか窓の桟に肘をつき黒い短髪はこっくりこっくりと舟を漕いでいた。彼が抱えている鞄が膝から落ちかけているのに気づかない程強敵な睡魔らしい。ハルカはその男性から視線を外すと挟んでいた栞をとって表紙と最初のページの間に挟んだ。それから暫く、学校近くのバス停に着くまでハルカは読書に集中した。
聞き慣れた次の停車予定地のアナウンスが、物語に集中していたハルカの耳に自然と入る。ハッと現実に引き戻されたハルカは目の前の座席についた「とまります」のボタンを押した。するとバス内で「つぎ、おります」という録音された女性の声が流れ、運転手が次のバス停で止まることを受諾する放送を流した。それを確認したハルカは読んでいたページに栞を挟んで本を鞄に戻し、定期券を取り出した。次第にスピードを緩めるバスの窓から見える景色は、見慣れた学校近くの商店街。それを横目に完全に停車するのを待って立ち上がり、降車口で定期券を通してから下車した。
そこから少し歩いて、見えてきた学校の正門。それをくぐって昇降口に入り、靴を履き替え教室へ。開け放された教室出入口から中に入れば、そこはしんとした空間だった。ハルカは空席だらけの教室内を歩き窓際の自分の席に鞄を置いた。中身を机の中に仕舞い、窓を開けて席に座りじっと空を眺める。そうして次第に登校してくるクラスメートを待つことは入学した時から変わらない。
ややもすれば日直が来て仕事を始め、他の生徒がぽつりぽつりと現れ、杏子や本田も登校してくる。互いに挨拶を交わして予鈴が鳴るまで雑談と洒落込む。粗方生徒が集まり校内が賑やかになってきたころに遊戯も教室に現れる。彼とも挨拶を交わして、会話の輪に混ぜながらもう一人の友達を待つ。
それは本当にいつもと変わらない光景。ゆるりとした学生生活のワンシーン。変わらない―――はずなのに、その日は一つだけ違っていた。
その違和感を覚え始めたのは、始業のベルが鳴り担任が入ってきてSHRを始めた時だった。
「今日はー、また海馬とー、えーそれから・・・・・・城之内が休みだそうだ。」
「・・・・・・!」
いつもと変わらないはずの1コマにぽっかりと穴が空いていることに気づいたハルカたちは、動揺した。
「これは事件だぜーっ!城之内が学校休むなんてよー!」
SHRが終わり、1時間目の授業が始まるまでの僅かな時間にハルカたちは集まり、突然起きた非日常について話していた。本田に至っては動揺を隠しきれず声量が大きくなっている。
「あいつ健康だけは赤丸優良児のハズだしなー・・・テストは赤点ばっかだけど!」
「初めてだよね・・・城之内くんが休むなんて・・・・・・」
いつも元気な姿を見せて場を盛り上げるムードメーカーな城之内が居ないことに遊戯は酷く悲し気に表情を曇らせた。ハルカが覚えている限りでも学校で城之内を見かけない日はなかった。風邪でもひいてしまったのだろうかと首を傾げた。
「本田くんは知らないの?城之内くんの事。」
「おう・・・・・・なんの連絡もないしな・・・・・・」
このメンバーの中では城之内と付き合いが長い本田を振り返って遊戯が訊ねると、本田は傍にあった遊戯の机の上に座りながらそう答えた。
「居ないとなるとちょっとさびしい気もするわね。」
「・・・・・・」
杏子が空席の城之内の席を見ながら呟く。ハルカも釣られて城之内の席を見るが、目に映るのはまるでそこだけ時間が止まってしまったかのように静かに佇む勉強机と椅子だけだった。焦燥感にハルカも思わず俯いてしまう。
「・・・・・・兎に角、学校終わったらあいつん家行ってみよーぜ!オレ知ってっからよ、奴ん家・・・・・・。」
本田の言葉に遊戯は大きく頷いた。
「あたしも行くわ!今日バイトないし・・・・・・ハルカちゃんもないでしょ?」
「・・・・ない。私も、行く。」
杏子の言葉にハルカも頷く。素直に心配なのだ。風邪ならば見舞いをしたいし何か事件に巻き込まれたなら手伝いをしたい。それはこの場に居る全員が同じ気持ちだった。
「じゃ、放課後昇降口に集合な。」
「うん。」
「分かった。」
「・・・・・・。」
そろそろ授業が始まる時刻なので本田が遊戯の机から下りながらそう言うと皆同時に頷いた。それから何も言わず解散となった4人は、それぞれの席に戻った。
「おーい、席につけよー。」
教室の出入口から歴史の教師が入ってくる。ハルカたち同様自分の席から離れていた教室内の生徒は慌てふためきながら席に戻る。そんな様子を見ながら自分の席に座ったハルカは、移動する生徒たちの間からふと目に入ったもうひとつの空席に意識を奪われた。
「・・・・・・」
もうひとつの空席。それは海馬の席だった。
彼は最近学校に姿を見せていない。教師たちはその理由を生徒に教えることはなかった。ただ、ハルカにはなんとなくその理由が分かっていた。
海馬が学校から姿を消したのは、あの日の翌日からだった。
海馬はあの日、遊戯のもう一つの人格に裁きを受けた。ペンダントの力で精神体となってその現場に居合わせたハルカは、何かに怯え逃げる海馬の異常な様子に恐怖し、そして悲しんだ。初めて遊戯の力に怖いを思ったのだ。人を苦しめ変えてしまうことが簡単にできる彼に、言い知れぬ恐怖を感じていた。
それから、あれ以来姿を消してしまった海馬のことがハルカは心配だった。彼のことを知る人はこの学校に居ない。友人を持たない彼は全く情報を得られない人だった。どこに住んでいるのか、どうしているのか、―――双六の気持ちは理解して貰えたのか。聞きたい、確かめたいことがあるにも関わらず、答えてもらえない日が既に3日も続いていた。
* * *
「本田くん、中学生の時から城之内くんと知り合いだったの。」
「ああ。でもあいつん家、殆ど行ったことねーんだけどな・・・・・・」
本日の授業を全て終え、昇降口に集合したハルカたちはそのまま城之内の家へと向かっていた。学校の正門を出てから20分、ハルカたちは本田を先頭に歩を進めている。景色は段々と住宅街となり、脇に見えた公園からは高校生よりも先に帰宅した小学生や幼稚園児たちが遊んでいる楽しそうな声が聞こえる。そろそろ帰宅時間なのか、女性の「帰って来なさーい!」という呼び声が聞こえた。夕日はもうすぐその顔を地平線に沈めようとしていた。
「へ〜、こっちってこんなに静かな所だったんだ。なんか和やかな感じでいいね。」
辺りをキョロキョロと見回して杏子がそう溢す。夕日色に染まる閑静な住宅街は長閑な雰囲気を漂わせていてどこか懐かしくも落ち着く佇まいである。ハルカも杏子も遊戯もここよりやや賑やかな場所に住んでいるため、この雰囲気は新鮮だった。
「たしかこの団地だぜ!昔一度だけ来たことあんだ。」
本田の言葉に3人は目の前の小さなマンションを見上げた。杏色のその建物は4階建てで、ごく普通のマンションであった。
「たしか三階の一番端っこだったよな・・・」
マンションの入り口から入って階段を登り、真っ直ぐに本田の言う三階の端の部屋に向かう。そして扉の横に掛けてある表札を確認するとそこにはしっかりと「城之内」と書かれていた。
「お、ここだ。スミマセーン!!」
チャイムがないので本田が扉を少し強めにノックする。古く重そうな扉は鈍い音を立ててキシキシと揺れた。暫く中からの返答を待ってみるが、誰も出てくる様子はない。
「・・・・・留守?」
「誰もいねーのかな・・・」
中からは音も気配もない。どうやら外出中のようだ。
「あれ。」
時間を置いて出直そうかと杏子に話しかけようとした時、本田が訝しげな声を上げた。
「でも鍵かかってねーぞ。」
見ると本田は何を思ったのかドアノブを回して扉を開いているではないか。本田自身驚いたように手元を見ていた。
「ちょっと覗いてみっか・・・」
「ねぇ、留守かもしれないんだからやめよーよ・・・・・・」
杏子は流石に勝手に人の家を覗くのは失礼だと本田を止める。しかしハルカはそんな杏子の手を止めるように腕手を置いた。
「・・・・・・でも、留守、なのに、開いてる、なんて、もしかしたら、泥棒かも、しれないし・・・・・・」
「・・・そ、そうだけど・・・・・・」
ハルカの言葉に杏子は難しい顔をする。もしも空き巣ならば警察を呼ばなくてはいけない。少しでもおかしいと思ったのなら調べたほうが良い。少々危険ではあるが、ここには一応男が2人居る。
「覗くだけだから大丈夫だろ。何かあったら走って逃げればいい話だ。」
どうしたものかと考える杏子に本田がそう笑いかけてそっと扉の隙間から覗き込んだ。それもそうかと納得したらしい杏子も先程から成り行きを見守っていた遊戯もハルカも一緒になって覗き込む。するとすぐに鼻を掠めたアルコールの匂いにぴくりと片眉を上げた。
「!!」
「ヒッ!!」
突然何かが勢いよく弾ける音がして、ハルカは思わず肩を震わせて一歩退いた。何事かと扉をよく観察してみれば、茶色の破片と何か泡だった液体が玄関のタイルを濡らしていた。瞬間漂うアルコールの香りが強くなる。これは。
「・・・・・・ビール、瓶?」
何故かビール瓶がこちらに飛んできたらしい。運良くそれは本田が抑えていた扉にぶつかってハルカたちに被害はなかったが、一歩間違えれば大怪我である。
「てめ〜〜〜このクソガキ〜〜〜〜!!!」
「!!!」
扉の向こうから男性の怒鳴り声がした。只でさえビール瓶の割れる音で暴れる心臓がまた大きく一泊鼓動を打つ。
「2日もどこほっつき歩いてやがったぁぁ〜〜〜!!ヒック。」
玄関の先、リビングと思わしき場所から男の声がする。ぼんやりとした明かりの下、テーブルの上には酒の缶と瓶、それから男の組んだ足がテーブルの上にあるのが目に入り、周りには無造作に転がされた酒の缶と開けられて食べ残されたつまみの袋、ゴミ袋なんかがあった。
「失礼しましたーーっ!!」
男の異常な様子に大慌てで扉を閉めたハルカたちはマンションの階段を駆け下りる。マンションの出入口まで来た時、4人はやっとホッと息を吐いた。
「びっくりしたぁ!」
「・・・・・・!」
遊戯の一言にハルカは何度も大きく頷く。未だ心臓は早鐘を打っていて身体が火照っている。
「ね・・・、今の・・・」
杏子が先の男が誰なのかなんとなく察した様子で本田の背中に声をかけると、本田は「ああ」と肯定するように頷いた。
「あいつの親父さ・・・昔からあの調子らしい。あれが・・・あいつが家にダチあがらせない理由だ・・・・・・」
自分のことのように悲しげに呟く本田の言葉を、ハルカたちは黙って聞いていた。
城之内の父親は酒狂いであった。仕事もろくにせず日中から酒浸りになり暴言を吐いて暴力を振るうらしい。それにより城之内が小さい頃に両親は離婚。今城之内はこの父親と二人暮らしをしているのだ。
金髪で喧嘩っ早いところがあるにしろ、明るく友達思いな城之内からは想像もつかない家庭事情だった。
「だが、家には居なかったな。」
「・・・・・・2日も、どこ行ってた、って、城之内くんのお父さん、言ってた。」
「ああ、帰ってきてねぇみたいだな。どこ行ったんだ、アイツ・・・・・・。」
学校どころか家にも帰ってはいない。こうなるとやはり彼に何かあったのは違いなかった。城之内が理由もなく姿をくらますなんて考えられないのだ。
「兎に角探しに行こーよ!」
遊戯の言葉に皆が頷く。一端の高校生が一人遠方へ行けるような金もない筈。もしかしたらこの町のどこかに居るのかもしれない。誘拐などされてこの町から居なくなっていない限り。見つからない場合は警察に届け出も出した方が良いだろうとハルカは考えた。何しろ彼は2日も失踪している。
それから4人は学校近くの商店街に入り、城之内が行きそうな場所を巡ってみることにした。
飲食店、ゲームセンター、パチンコ(制服姿なので外から覗くだけ)などなど。それでもどこを探しても城之内の姿はない。夕暮れ色の空は次第に暗くなってきていた。
「ダメだ・・・どこにも居ねー。アイツが行きそうなところは回ったんだがな。」
少し休憩と立ち止まったところで本田が溜息混じりにそう呟いた。馴染みの金色がなかなか見えない焦燥感にハルカも溜息を零す。
「城之内くん・・・・」
遊戯が俯きながらぽつりと彼の名を呼ぶ。陰ったその表情は酷く暗く、ハルカはそっと遊戯の隣に立った。
「・・・ハルカさん・・・・・」
「・・・・・・」
視線が合うとハルカはそっと微笑んだ。大丈夫、必ず見つかる、と思いを込めて。すると遊戯もそっと小さく微笑み返した。
「あとはオレが探すから、お前ら遅くならないうちに帰った方が良い。」
「・・・・・・でも、」
遊戯のそんな様子を見ていた本田が突然言った言葉に、顔を上げる。杏子も物言いたげに本田を見つめていた。一人でこの広い町を探すなんて無謀だ。
「なぁに、オレなら大丈夫だ!それに、あいつなら心配いらねぇさ。明日にゃツラ出すさ!」
ニヤッと意地悪く笑う本田に、それ以上なにも言葉が出なかった。同い年にも関わらず、彼が酷く大人に感じる。
「うん・・・・・」
「そうしよ、遊戯!」
少し迷った様子で返事をする遊戯に杏子も笑って促す。自分より相手を優先し人一倍気にする遊戯の性格をよく知る杏子は、遊戯がどれほど城之内を心配しているかが容易に想像できるようだ。柔らかく促す杏子に、ハルカは心の中で流石であると賛辞を飛ばした。
「大丈夫だぜ、遊戯!」
本田も遊戯の肩に手を置いてぽんぽんと励ます。彼こそこの中で一番城之内と長く付き合っている分心配は大きい筈なのにその仕草と表情はまるで父親のそれだ。