07.
キィン・・・と響く耳鳴りにハッとして目を開ければ、目に映るのは気泡。それはぶくぶくと音を立てて水上を目指し、弾けては消えていく。母胎の中の様に温かいその水は安心感をもたらす。ぷくぷくと、口の端から気泡が漏れた。酸素を求めて水上に顔を上げる。

「ぷはっ・・・・」

バシャンッと大きな音が反響した。ぽたりぽたりと髪から雫が滴り落ちて、顔を手で拭って目を開いた。髪から落ちた雫が、自分が浸かる水面に波紋を作るのをじっと眺めてから小さく息を吐き、肩まで浸かった。
一番風呂を貰うと時々こうやって湯船に潜ることがある。潜って息を止め、次に水面に上がった時の解放感は頭をすっきりさせる。行儀は悪いけれど、誰も見ていないのでハルカだけの秘密である。

「・・・・・・」

突如頭に響いた音。いや音と言うより感覚だろうか。まるで頭の中で糸が張ったような感覚。

「・・・・・?」

なんだろう、この感じは。
思わずキョロキョロと辺りを見回してしまうが、もちろんそこは変わらぬ我が家の浴室。変わらぬはずなのに、違和感がある。

キィン・・・・・

(・・・また。)

訳の分からない異常事態に怖くなったハルカは早々に湯船から上がり、急ぎ目に髪と身体を洗うと浴室を出た。ほかほかとした身体からは湯気があがり、シャンプーの香りが脱衣所を満たす。傍にあったバスタオルをつかみ、頭に被って少し乱暴に拭く。身体も拭いて、出しておいた下着とパジャマを身に付け、脱ぎっぱなしにしていた服に手を伸ばした。
しかし、あるものが視界に入って思わず手を止めた。タオルが入った棚の上に置いておいた、金色のプレートタグネックレス。それに嵌められた石が、昨日のように紅く光っていたのだ。見間違いかと思ってそれを手にとってみるが、間違いなくそれは光っている。煌々と紅い光を放ち、それは熱を持つ。

恐怖を覚えた。昨日、あの時までなんの変哲もないペンダントだったのに、自ら光を放ったり熱を持ったり。こんなこと、普通じゃありえない。

「・・・・・っ、」

パッとそれから手を離す。ペンダントはカチャンと音をたてて床に転がった。ハルカは自分の身を守るように、タオルを抱えて後ずさった。未知なるものほど、人間が恐るモノはない。もしかしたら自分はとんでもない勘違いをしていたのかもしれない。これはお守りなんかじゃなく、なにか危ないものなのでは。

「・・・・・っ、あっ・・・!」

そう思ったとき、床に落ちたペンダントの光が更に強まった。その眩しさにハルカは思わず目を閉ざす。紅い光は更に更にと光の強さを増し、脱衣所を紅く染める。閉じた瞼を通り越して、紅い光はハルカの目を覆った。紅一色。そしてそれは次に白くなり、頭の中で弾けた。

強い光を感じなくなって、ハルカは漸く目を開く。視界に広がったのは暗く、どこか恐怖を感じさせる場所だった。すぐにどこかはわからなかった。しかしややもすれば、自分の通う学校だということに気付いた。夜の学校はしんとしていて、音がない。電気もなく、あるのは月の光だけ。見上げれば、丸い月が静かにハルカと学校を照らしていた。

そう、自分を照らしていた。はっとなってハルカは自分の足元を見る。見えたのはパジャマ姿のまま裸足で立つ自分の足だった。しかし、地面の固さや冷たさは感じない。踏みしめる感覚もない。まるで、そこに足をつけていながら浮いているような、不思議な感覚。影もない。月明かりに照らされているのに伸びるはずの影法師がないのだ。ハルカは自分の手をじっと見た。月に翳してみると、透き通って月の形がぼんやり見える。これではまるで。

「・・・・・・」

“幽体離脱”。そんな言葉がハルカの脳裏によぎる。もしかして自分は何かにとり憑かれてしまったのではないだろうかと不吉な予感さえしてしまう。
あのペンダント。あのペンダントに霊が住み着いていたのかもしれない。その霊に、自分は身体を乗っ取られ、弾かれた自分の魂は彷徨ってこんなところまで来てしまったと。冷静ではない思考にハルカはふるりと身を震わせた。実はハルカは幽霊やお化けといった類は苦手だったりする。恐怖に足が震えだす。じわりと目頭が熱くなった。

(誰か。誰か助けて・・・・。)

ハルカは自分の身体を抱きしめるようにしてしゃがみこんだ。何故自分がこんな目にあっているのか。理解できない状況に恐怖し、思わず涙が零れた。

「簡単な解答があるぜ!!」

その時、突然人の声が聞こえた。顔を上げて、正門の向こうを見る。今の声にハルカは聞き覚えがあった。太く、低く、冷徹さを感じるその声。―――牛尾だ。なぜ彼がこんな時間にこんなところに居るのかと不思議に思った。それにあの言葉は誰かに向けて言っているようだった。彼の他に誰か居るのだろうか。まさか、また誰かを脅しているのか。

(最悪だ。)

助かったと思ったら最悪の展開。

「この右手をおもいきり振り下ろしてもよー!オレの左手を傷つけず、すべての金を手に入れる方法がなーーーっっ!!」

ハルカは立ち上がって声が聞こえた方を見やった。牛尾が校庭の真ん中で何故か置かれている跳び箱の傍に立ち何かをしていた。そして彼は右手を大きく振り上げていてその腕の先にあるものは、ナイフ。その矛先に立っているのは、もうひとりの人影。
小柄で、ツンツンと髪を立たせ、金のメッシュの前髪と着ている服を靡かせる男の子。

「・・・・武藤、くん・・・!」

どうして彼がここに居る。どうしてナイフを向けられている。どうしてその場から動かない。どうして彼は――――笑っている。

「このオレにナイフを持たせた――それがきさまの敗因だったなーーっっ!!死ねぇぇぇぇ!!遊戯ぃぃぃっっ!!」
「武藤くんっっ!!」

それは信じられない光景だった。勢いよく振り下ろされたナイフは、まっすぐに遊戯に向かっていた。本当に殺す勢いの一撃。ハルカは知らず、駆け出していた。彼が死んでしまう、そう思ったから。けれど。

「!」

遊戯は身軽に後方に跳んで避け、タイミングを図ったその後退により牛尾が振り下ろしたナイフは標的を見失ってそのまま地面に刺さる。ハルカは驚いてその場に足を止めた。

「やはりルールを守る事ができなかったようだな!」

そう大声をあげる遊戯は、見たことのない不敵な笑みを浮かべていた。いつも下がっている目尻がきゅっと釣り上がり、まるで相手を挑発する様な笑み。自分は、夢でも見ているのだろうか。思わずハルカはそう思った。

「な、なんだ・・・その額の・・・め、眼!!」

(眼?)

牛尾が意味の分からない言葉を零しながら、遊戯の額を指差す。見えない何かがそこにあるとでも言うように。すると遊戯の胸元で何かが光を放ち始めた。金色の眩い、美しくも圧倒されそうな輝き。ハルカは一生懸命に目を凝らしてみたが、あまりに光が強すぎて見極めることができない。

「こいつはオレの“心の領域を超えた者”にしか見えないもの!友達を傷つけ、金をも奪おうとした、お前にしかな!!」

低く、けれどはっきりと威圧的に話す彼。あれは本当に、あの遊戯なのだろうか。

「運命の罰ゲーム!!!【GREED‐欲望の幻想‐】!!」

光の強さが増大する。それは目のような形の光で、立ちすくむ男を襲った。

「あ・・・ああ・・・・・」

ハルカが立つ位置からでは牛尾は背を向けているのでよくは分からないが、光を浴びたその人が何か呻いているのが聞こえた。

「あらあぁぁぁぁ!!金だ!!カネカネ!!金だらけだぁぁぁぁっ!!l
「!!?」

突然嬉々として叫ぶ男の声に、びくりと身体が跳ねた。狂喜乱舞する彼は、何かを掴むように腕を振り回し、天を仰いでいる。牛尾は金を連呼しているが、そんなものはどこにもない。ハルカはただ、その浮世離れした光景を呆然と眺めていた。

「金に目が眩むなんて言葉があるけど・・・・・もうあんたの眼には“欲望の虚像”しか映らないぜ!ま、強欲な君にとってはまさにハッピーエンド!フフ・・・・・」

喜び叫ぶ彼を横切りながら遊戯がハルカの方に向かってくる。そうしてやっとはっきりと見えた遊戯はもう夜も遅いというのに制服を着ていた。が、どこかいつもと違う。
あの腕の十字架のようなものはなんだ。首に掛けてある金色の逆三角錘。キラリと煌めくあれが先ほどの光の正体なのだろうか。彼の言葉は、一体どういう意味だろうか。あの男はどうしたというのか。もう何がなんだか分からない。

「ん・・・?」
「!」

突然、彼と目が合った。雰囲気のまるで違う相手は、本当に別人のようだった。

「・・・・・」

向かい合う二人はお互いに口を閉じたまま。遊戯の瞳はじっとハルカを見ている。そしてハルカも静かにその瞳を見つめ返した。
遊戯の瞳は、こんな色をしていただろうか。自分とは違う、深いアメジスト。その瞳に見つめられると、時間が止まったかのような錯覚を感じる。目が、離せない。

「・・・・・お前・・・」
「・・・・!」

小さく彼の口が開き、低く呼ばれる。それに我に返って、ハルカは慌てて視線を逸らした。すると彼がこちらに歩いてくるコツコツという足音がした。ハルカは動かず、じっとその場に立ったまま顔を伏せる。下げた視界に、遊戯の足元が映った。
ドキリと、胸が鳴る。妙な緊張感が、ハルカの体を駆け抜けた。

「・・・・・・・・」

そっと顔を上げれば、さっきよりも近いところに彼が居た。改めて顔を見ると、遊戯に見えて遊戯じゃない、とハルカは思った。似ているけれど、どこか違う。ではここに居るのは誰だ。今しがた、牛尾を変えてしまった、この人は誰。
すると彼は無言で手をこちらに伸ばしてきた。思わず身を引きそうになり、目を瞑る。彼の手が、ぬくもりが、頬に近づいた。そう感じ取ったときだった。

「!」

世界が明るくなるのを感じて、ハルカは目を開いた。
そうして見えたのは、自分の家の脱衣所。ペタリと床に座り込んでいるハルカの傍には、光を失ったペンダントが転がっていた。ハルカはそれを拾い上げ、じっと見つめた。自分は夢でも見ていたのだろうか。いつの間にか学校に居て、遊戯と牛尾が居て、遊戯が叫ぶと、牛尾の様子が変わって。遊戯が、別人に見えて。

(まだ胸がドキドキする。)

ペンダントを握って、胸に抱える。
夢かもしれない。夢じゃないかもしれない。それでも。

あの時の彼の瞳が、脳裏に焼きついて離れなかった。

* * *

今朝も早くに学校に到着した。いつもと変わりない朝。変わりない風景。なのだが。
昨夜、あの校庭で起きたことは現実だったのだと先ほど証明された。校庭を歩く途中、木の根元で木の葉やゴミに囲まれて幸せそうに笑むあの風紀委員を見かけたのだ。いつもと同じく教室から校庭を眺めていると、次第に増えてきた登校してくる生徒たちが、木の葉に埋もれる牛尾を見て驚いているのが見えた。

徐に首の後ろに手を回し、ペンダントを外す。それはいつもと変わらず、朝日に反射するだけだった。
不思議な石だ。突然学校に飛ばされた時は、呪いのペンダントなのではと思った。しかし帰ってきてからそれは違うとハルカは自分で訂正した。このペンダントは、何かを自分に伝えたかった。何かを見せたくて、彼のもとに自分を飛ばしたのではないか、何故かそう思ったのだ。
しかし妙な確信がハルカの中にあった。これから何かが起こる気がする。今までなんの変哲もなかったこの人生が、変わろうとしている。

「城之内くん!くつーっ!」

ガラリと大きな音を立てて教室の扉が開く。そちらを見れば、城之内が慌てたように入ってきた。後に続いて何故か片方だけの上靴を持った遊戯が入ってくる。どうやらその上靴は城之内のものらしく、遊戯がやっと振り向いた城之内に渡していた。

遊戯はいつもの優しい雰囲気の遊戯だった。
昨夜見た遊戯は、どこか神秘的で、そして少し威圧的があった。やはり別人だったのか。

「・・・・!」

そう思ったとき、遊戯の胸元で揺れる金色の光に気づいた。それは昨夜の彼が首から下げていた金色の逆三角錐に酷似したもの。本物の金なのか、陽光の反射が眩しい。ペンダントの真ん中には、先日遊戯がハルカに見せた宝物の箱に刻まれていた眼の紋章があった。

もしかして、あれは遊戯が挑戦していたパズルなのだろうか。もしそうならば、何故昨夜の彼は遊戯の宝物を所持していたのか。やはり同一人物か。

そんなことを考えながら二人を見つめていると、なんだかいつもと雰囲気が違うことに気づいた。いつも意地悪く笑っていた城之内は照れたように遊戯に笑い、遊戯もいつもの困った顔ではなく、楽しそうな笑顔を見せている。どうやら、二人の間になにか変化があったらしい。
きっと昨日のことが関係しているのだろうとハルカは思った。うまく収まったようでよかった。
ひとり笑っていると、二人共にハルカの方に顔を向けた。

「よう!彼方!」
「おはよう!彼方さん!今日も早いんだね。」

二人の笑顔は、まっすぐハルカに向けられている。まさかの展開に、ハルカはぱちくりと目を瞬かせた。
嗚呼、もう考えるのはよそう。ハルカは二人に笑顔を向けて言った。

「・・・・おはよう、二人とも。」