蝉の音が遠ざかる。 目の前に立つブロッケンマンは、穏やかに──昔のままで笑っていた。 返事も出来ぬまま間抜けな顔で彼を見つめていた 春乃は、後ろからかけられた近所の人の「あら、こんにちは」という声で正気に戻った。 「あ、こ、こんにちは」 「お祖父さん、大丈夫だったの?」 「はい、夏バテしてただけなので、空調が効いてる病院にいったら、すごく元気になってますよ」 「そう、良かったわぁ」 胸を撫で下ろす仕草をして笑う、隣家のご婦人に「心配をおかけしました」と小さく頭を下げる。 「春乃、家族が体調を崩しているのか?」 「え、あ……」 心配顔のブロッケンマンを見上げながら何と言ったらいいものかと、悩んでいるとご婦人があらあらと微笑んだ。 「素敵な方ね、春乃ちゃんの“いい人”?」 「!!」 春乃の隣に立つブロッケンマンに気付いて、こっそり耳打ち──とは言え音量的に彼にも聞こえているはずだ──に春乃の頬に朱が走る。 「いえ、その……!」 「うふふ、照れなくてもいいのよぉ。 あ、お邪魔したら行けないわね」 またね、と慌ただしく去っていくご婦人を引き止める事も出来ず見送ると、春乃は思わず頭を抱えた。 「春乃、“いい人”というのは善人ということか? この顔を見て善人と評するとは……なかなか懐の広いご婦人のようだな」 訂正した方がいいのか、しない方がいいのかの悩みはとりあえず置いといて。 往来での立ち話は危険──とは言え、明日になればこの話は近所に広がってると思うが(恐るべき主婦の噂伝播!)──と判断した春乃はブロッケンマンを見上げた。 「とりあえず、立ち話もなんですし……あがって下さい」 麦茶をグラスに注ぎながら、ブロッケンマンが自分の家の居間にいるという事実に変な汗が滲む。 (帰って来たのか……お盆だから?) ドイツの、と言うより超人の世界にもお盆はあるのだろうか、春乃にはわからない。 カロン、と少し溶けた氷がたてた音に、はっとして思考を切り上げると春乃は冷菓と共にグラスをお盆に乗せ居間戻った。 「暑かったでしょう、麦茶冷えてますから喉を潤して下さい」 「すまない、ありがとう」 平屋造りである我が家の居間をもの珍しそうに見渡していたブロッケンマンは、こちらに視線を戻すと緩く笑った。 少しばかり、彼の表情に違和感を覚えた。 麦茶を飲むブロッケンマンをぼんやりと見つめながら、こんなに笑う人だっただろうかと考える。 (屋敷にいた頃はもっと厳めしい顔の方が多かった気がする……) それが当主としての顔であったのは知っていたが、警護として傍にあった春乃にとっては一番よく見慣れた顔だった。 「……春乃?」 「!」 あまりに見詰め過ぎていたせいか、不思議そうな顔をしたブロッケンマンがずいっと顔を近付けて来た。 「え、あ」 どう言い訳しようかとしどろもどろになっているのを、間近にじっと見詰めていたブロッケンマンは不意に小さく吹き出した。 「ふっ──くっくっ、随分と隙だらけになったな。 いや……刺々しくなくなったと言うべきか」 くつりくつりと喉を鳴らして笑うブロッケンマンに、一瞬呆気にとられていたが何だか面白くなくて唇をへの字に曲げた。 「貴方の護衛をしてた時と比べないで下さい。 四六時中、回りを警戒してればそりゃあ刺々しくもなりますよ」 「そうか、なら今の方がずっといいな」 伸ばされた手が頬を撫ぜ、そのままくしゃりと髪に指を絡ませる。 一連の動きを彼の手がする最中、春乃は動けないまま受け入れていた。 「こうやって触れるのにも、以前は酷く気を使ったと言うのに──今は簡単に触れられる……」 伸びたな、と最後に呟かれたのは髪の事だろうか。 日本に戻ってから伸ばしっぱなしの髪は、もう肩に付くくらいに長くなっていた。 ブロッケンマンの手は、確かめるように頬の輪郭をなぞり、目元に残る傷跡をなぞる。 少しかさついた指の暖かさを、思いのほか忘れてはいないのだな、と他人事のように思った。 「──気を張る必要が今はありませんから」 拒む必要のない熱を受けとめながら、ブロッケンマンの淡いブルーの瞳を見上げた。 「ここには、貴方と私しかいない」 もう咎める誰かも、気にする立場もここには存在しないのだ。 だからブロッケンマンが静かに距離をつめて来ても、春乃は静かに瞼を閉じる。 (そう言えば、幽霊でも暖かいんだな……) 触れた唇の熱と、背中に回った腕の逞しさに春乃はぼんやりとそう思ったが、その思考はすぐに何処かに追いやられていった。 (忘れたとは言わせない)