クライテリオン酒場の前の通りで、ホウボーン料理店へ行く為に辻馬車を捕まえようとしていた私の肩を叩く者があった。 秘密がバレぬよう祖国に友人を一人もとたず、唯一身内の兄も行方不明中の私に声をかけてくるとは、一体誰だろうと振り返ってみると。聖バーソロミュー病院時代私の下、助手を勤めていたスタンフォード青年がそこに立っていた。 「ワトソン先生、お久しぶりです」 再会を喜ぶ青年との再会に、大きく驚いてからようやく喜びが追い付いて来た。 「スタン君、元気そうでなによりだ」 「それより、ワトソンさんどうしたんです! まるで末期患者みたいじゃないですか」 スタン青年が驚くのも無理はない。戦場に長くいた為に黒く焼けた顔に療養中に痩せこけた体、さらには負傷した足を庇う杖に寄り掛からせている現状なのだ。 「説明はちと長くなるなぁ──どうだろう、昼食はまだなら今から私とホウボーンにいかないか、奢るよ」 「それは、喜んで」 青年が頷いてくれたのと同じく、雑踏とした街路で辻馬車を捕まえる事が出来た。 「つい最近まで、アフガン戦争に従軍していたんだよ」 がらがら走る馬車の中で、少し長い道すがらかいつまんで自分の冒険談を話す事にした。 「あれ?先生はインド駐在ではありませんでしたか?」 不思議さを隠そうともせず首を傾げる青年に苦笑する。 「うん、赴任前の戦争が始まったからね。 すぐにカンダハールまで行って、ついにはマインワンド」 「かのマインワンドの大苦戦にですか!」 「そうそう、そこで間抜けにもジェゼール銃弾にやられてね」 骨を砕かれた足を撫ぜる手に目を細めた青年は「散々でしたね」と酷く同情を込めて唸った。 「今はこちらで療養中ですか?」 「しばらくはホテル暮らしだったんだが、そろそろ定住先を探そうと思っているところさ。 手頃な家賃で居心地のよい部屋はないものか、それが大問題なんだよ」 大袈裟に肩を竦めてみせた私に「そいつは不思議だ」と青年は呟いた。 何がだ?と疑問を口にする前に、目的地への到着を知らせる声に一旦飲み込んだ。 「実は、今日そういうことを私にいうのは、貴方で二人目ですよ」 「へぇ、珍しい事もあるね。どんな人だい」 注文をとったウェイトレスが下がると、青年は言いたくてたまらないというように話し出した。 「病院の化学研究所にいる男なんですがね。 いい部屋を見つけたんだけれど、一人で占領するには負担が重すぎるし、かといって半分持ちあってくれる物はないしって、今朝ぶつぶつ溢してましたっけ」 「へぇ?」 「おや、先生にも案外いい話だと思いますけど」 「いやだって、話すわりに君、私に進めたいようではないみたいだけど?」 青年は困ったように笑って頭をかく仕草は助手時代から変わっていない。 「先生にはおあえつらいむき、という感じですが。 同居人になるシャーロック・ホームズと堪えず一緒にいるとなると、あまりよくないかもしれない」 グラス越しに青年はいささか妙な顔をしていた。 「どんなところが難ありなのかな?」 「なあに、べつにいけないってわけではありませんよ。 私の知るかぎりでは、そりゃもう尊敬すべき人なんですけどね」 「? 医学生なのかい?」 「いいえ、といっても何が志望なんだか、私にはてんで見当がつきませんよ」 その男は科学に夢中で、解剖学には大変造詣が深く化学者としても一流。しかし、組織だって修めたことがないくせ、知識は他の教授を圧倒させるほどだとういう。かなり愉快そうな人物のようだ。 「当人に直接、それについて訪ねたことは?」 「訪ねたって容易に話すような人じゃないんです。 もっとも興にのると、随分うちとけて話せる人なんですけれどね」 運ばれてきた料理に一旦会話を区切り、ナイフとフォークを持ちながら先に口を開いたの私だった。 「一度、お会いしてみたいものだな」 「え?ホームズさんにですか? この話を聞いて、同居を考えれたんですか先生?」 いやいや、秘密のある私が知らない人間と同居など、無理がありすぎる。 「人として興味がある」 「相変わらず変わった人ですね、あなたも」 「……誉め言葉として受け取っておくよ」 小さく息を吐いた私に、青年は笑った。 「今きっと、研究室にいますよ。 あの人は何週間も顔を出さぬかと思うと、朝から夜まで閉じこもる人でね。 差し支えがなかったら、食事がすんでからいっしょに馬車で行ってみましょう」 特に用事もなかった私はそれに応じた。 そして久々に再開した私達の話はほかの方面に反れていった。