闇の陣営に下ることを告げた自分を、彼女は責める事も引き留める事もなかった。 ただ一言、「大切なモノと自分の命だけは守り通せ」──そう言葉を残し、彼女は背を向けた。 「さようなら、セブルス・スネイプ」 彼女にだけわざわざ言葉で闇の陣営に下る事を告げたのは、引き留めて欲しかったのかもしれない。 行くなと、そんな言葉を彼女に期待していたのかもしれない。 自身の感情をこちらに押し付けた事などなかった彼女に、随分な高望みだとはわかっていたのに。 別れ際、伏せられた碧眼を濁らせた感情の名前を、スネイプは知らなかった。 否、彼女の事など何一つ自分は理解出来ていなかったのだろう。 だから、彼女と一度だけ強引に繋いだ記憶と言葉を胸に、生きていこうと決めていた。 大切なモノ──その言葉通り、自分が守ろうとしたのはリリーだった。 自分の幼馴染みでもあり彼女が親友と慕う、リリー・エバンスが狙われていると耳にしたスネイプは恥もプライドも捨ててダンブルドアに懇願した。 エバンスの命と彼女の言葉を守る為に主君を裏切り。 自分が不死鳥の騎士団のスパイとしてここにいた事も、自分の本当の立場も感情も、全て発露したスネイプの言葉を諾諾とをダンブルドアは受け入れてくれた。 しかし、現実は残酷であり、自分は未だ無力で──彼女との約束のような言葉も、守れなかった。 1981年10月31日、ヴォルデモートによってリリーはジェームズと共に殺された事が、ダンブルドアの梟便により伝えられた。 スネイプは、すぐさまダンブルドアの元へ向かった。 校長室へと続く螺旋階段を上りながら、聞こえてくる声に先客がいる事がわかったが、スネイプは足を止めなかった。 「じゃあ、マリーは死んじまったんですか?!」 ドアノブにかけた手が、その名前に凍り付いた──手だけじゃない、頭から氷水を浴びたかのように全身が凍り付いた。 先客は森番のハグリッドと──赤ん坊だった。 火がついたように泣きじゃくる赤ん坊の声が、校長室の扉越しにも聞こえて来てくる。 「セブルス──入って来なさい」 促すような声に、スネイプは強張り震える手でドアノブを回した。 校長室には、ダンブルドアと赤ん坊──ハリー・ポッターを抱えるハグリッド、そしてソファーに伏して涙を零すマクゴナガルがいた。 スネイプはふらふらと幽鬼のように進み、ハグリッドの腕の中で泣く幼子を見下ろした。 噂だけで初めて目にする彼らの子は、母親によく似た緑色の瞳を涙に溶かし、額には痛ましいほどの稲妻型の傷跡が焼きついていた。 ぎゅっと閉ざしたまぶたの裏に、赤子を抱く幼馴染の姿を夢想する。結局、一度もその姿を目にすることはないまま、こんな悲劇に至ってしまった自身の情けなさを痛感する。 そっと手を伸ばし、口の中で呪文を唱えながら丸い額に触れるとハリーはするりと眠りについた。 ぐずりと頭上でハグリッドが鼻をすすりながら「ありがとうよ」と涙に濡れ切った言葉を落とした。 スネイプは鈍い動きでダンブルドアを見た。 「ダンブルドア、校長」 震える唇では、目の前の相手の名前を呟くのが精一杯だった。 ダンブルドアは悲壮に染めた鮮やかなブルーの瞳を伏せた。 「──手紙の通りじゃ、ポッター夫妻は死に……息子のハリーは生き残った。 ヴォルデモートの呪いを跳ね返してな」 「では……闇の帝王は」 「君の“しるし”を見るのが一番の答えであろう」 静かに促された言葉に服をめくりあげ、今の今まで自分の意思では見ることの出来なかったその証を見る。 証は──薄れていた。ほとんど消えかけていると言っていい。 「それが、答えじゃ」 「──……」 スネイプは力が抜けたように、マクゴナガルが座るソファーの対面に崩れ落ちるように座り込んだ。 その肩に優しく手を乗せながらスネイプにかけられた言葉は、悲痛に満ちたダンブルドアの声だった。 「ガブリエル・マリー・カウンシルもまた──ヴォルデモートの呪いを受けた」 「!」 弾かれたように顔をあげたスネイプは愕然とした表情でダンブルドアを見上げる。 唇が戦慄く。 「死…んだ、のですか……?」 先程のハグリッドの悲痛な言葉が蘇り、再び恐怖の権化のような冷たい感覚が心臓を鷲掴んだ。 「………生きてはおる、辛うじてな。 しかし、その身を蝕む呪いを解かぬ限りは……」 ダンブルドアは最後まで口にはせず、言葉尻を濁し視線を落とした。その目にいつもの輝きはない。 まるで生き物のいない、湖の底を覗き込んでいるかのようだった。 ヴォルデモートが、ガブリエルの能力を狙っているのは、スネイプも陣営内で確かに耳にしていた。 だが、彼女の力なら──大丈夫だと、自分にそう言い聞かせていた。なのに。 最後に聞いた、あの「さよなら」は、あれっきりの別れの挨拶だったと言うのか。 そんな、そんな事は認めたくなかった。 会いたいと、もう一度息をしている彼女に会いたいと切望する気持ちが湧き上がってきた。 「彼女は……マリーは今、何処に──?」 会わなければ、彼女に会って約束を守れなかった事を謝らなければならない。 そして、言わなければ。否言いたいのだ、隠し押し殺し続けていた感情を彼女にどうしても伝えたかった。 愛していると、そう伝えて彼女が生き絶えるまでその傍にいさせて欲しい。 ダンブルドアは静かにスネイプの真意の眼差しを受けていたが、悲しげに首を横に振った。 「セブルス、君がいくら望もうとも……彼女に会わせる事は出来ん」 「そんな……!何故です」 「マリーの願いじゃ」 ダンブルドアの言葉に口を噤む。 「彼女の呪いは進行していき──いつかは彼女を死に至らしめる。 それは今かもしれんし、何年もあとかもしれんのじゃ」 「──……」 「マリーは呪いにかけられた瞬間から、自分は最早死んだのだと言っておった」 ハグリッドとマクゴナガルの嗚咽が耳を通り抜けていって、ダンブルドアの言葉さえ靄がかってどこか遠くに聞こえる。 「ガブリエル・マリー・カウンシルは、死んだ──彼女はそう言っておる」 「そんな……!」 「死んだ者は蘇らない、二度と会うことは叶わないとな……」 ダンブルドアは悲しげに目を伏せた。 絶望に打ち震えるスネイプに、ダンブルドアは何度も宥めるように肩を撫ぜた。 「君が、こちらに下ると言った時──君の受け入れをわしに説いたのはマリーじゃった」 「!」 「あんまりにも呆気なくわしが受け入れたことを、君は驚いておったじゃろ?」 マリーが君が望むなら、闇の陣営側から足を洗わせてやって欲しい、と嘆願していたと言うダンブルドアの言葉に耳を疑う。 「マリーは、君の事を随分と気にかけていたようじゃ……。 似合わぬところに身を置くことを君が決意してしまったと、嘆いていた。 しかし引き留めることも出来ない自分には、こんな事しか出来ないと言っての」 ダンブルドアは、呆然としたままのスネイプに諭すようにそう言った。 マリーが、あの時見せた感情の名前がなんだったのか──朧気ながら答えの輪郭が見えて来た気がした。 彼女は、何を思って自分の背を見守って来たのだろうか。 「ダンブルドア校長……私は──今更、私は……彼女に一体何をしてやれますか?」 「……生きる事じゃ、セブルス。 マリーは、君が生きる事をいつも望んでいた」 スネイプは掻き毟るように顔にかかる長い髪ごと頭を抱えた。 頬に伝う涙は、酷く熱いように感じられた。 『大丈夫、大丈夫だから』 抱き込まれた胸の内そう囁かれた、いつかの彼女の言葉を思い出す。 「マリー……っ!」 彼女は、いつも自分の為には戦わなかった。 だから目の前の赤ん坊の為に、リリー達とともに戦い呪いを受けたのか。 彼女らしい最期だと、スネイプはそう思おうとして歪に唇を歪め、決意を固める。 自分がすべき事は生きて──彼女の遺志を継ぎ、リリーの息子ハリーを守る事だ。 例え、それが困難と苦悩の道だとしても、スネイプは彼女の約束の為に前に進む事を誓った。 「──校長、私に彼女の遺志を継がせて下さい」 ダンブルドアは静かに頷いてくれた。 彼女の遺志は自分の最期の時まで護り抜く──そして、彼女への想いもまた。 スネイプは、自分自身に硬く誓った。 力を失ったヴォルデモートの失踪後の世界は、目まぐるしく変わろうとしていた。 ヴォルデモートの死を信じる者も多かったが、油断ならないという気持ちを抱きつつスネイプはダンブルドアの庇護下でホグワーツの魔法薬学教授となり、再び母校に戻る事となった。 見慣れた学舎には、憎むべき記憶と共に端々に暖かな彼女との記憶が存在していた。 温かな初夏の日差しを受けるたび、彼女の緩やかな笑みを回想する。 青い空に広げる翼を彼女は夢想して、青い空を愛した彼女は今はこの空の元にはいない。 スネイプは焼き付く陽射しを避けるように目を伏せた。 また、新しい年が始まろうとしていた。 それが再会の年になる事を──スネイプはまだ、知らない。 END