地上では大地を打つ音まで聞こえてくるほど大雨も、地下にはその気配さえも伝わってこない。 微かに部屋にまで入ってくる音は、遠ざかる疎らな生徒の足音だけだ。 与えられた助手としての部屋は生徒が避けて通る地下牢、魔法薬学教授の研究室の隣だ。 昼夜も関係なく光が入らないこの部屋は少ししけっぽく、ひんやりとした空気を纏っていた。 魔法で光の範囲を広げたランプに火を入れながら、マリーは読みかけの本を拾い上げる。金曜の昨晩、次の日が休みだからと随分遅くまで読んだ本は、あとほんの数頁しか残っていない。 持ち主が何度も読み返したのだろう、擦りきれが目立つその皮表紙を指先で撫ぜる。 よくよく考えてみれば、これを読みきってしまえばこれからの休日読む本はもうない。 残り10頁もないそれを読みきるのはどう長く引き延ばしても1時間。 マリーは杖を振り紅茶を淹れながら小さく溜め息をついた。 「隣人を訪ねてみるか……」 ちらりと見たのは隣室側の壁。 助手となってから教授の──スネイプの部屋を訪ねるのは授業のある日ばかりで、休日さしたる用事もなく行くことはない──というより、この距離感を計れずに行けずにいるというのが確かであるのだが。 読みかけの本の背表紙を肩に預け、一先ずの理由があるからと心中で言い訳する。 「返すついで、ついで、だ」 言い訳を呟いてみて、ますます子供じみているなと苦笑しながら、淹れた紅茶を片手に頁を捲った。 目的があったせいなのか、よほど集中していたからか、最後はものの30分で読み終わってしまった。 見上げた柱時計は、朝を過ぎてそれでも昼には早い時刻を指している。 休日のあまり早い時間に行くのも礼儀的にどうかと考えつつ、もて余してしまった時間をどうする事も出来ない。 ええいと、覚悟を決めて立ち上がると部屋を出て、隣室のドアの前に立つ。 ノックを数回。 「セブルス、今いいかい?」とドア越しに尋ねてから返答を待つ──待つがなかなか返事がこない。 出鼻を挫かれたな、と小さく苦笑して、出直そうとマリーが本を片手に短い来た道を帰る。 自分の部屋のドアノブに手をかけた時、開いた隣室のドアに目を瞬く。 「──どうかしたか」 寝間着にナイトローブを引っ掛け顔を出した相手の顔色に面食らって、一瞬言葉を失ってから眉を下げる。 「どうかしたか、は君の方だ。何て顔色だ」 体調が悪い時にしくじったなと、自分のタイミングの悪さに舌打ちしたくなりながらマリーは首を横に振った。 「間の悪い時に訪ねてしまったね……」 本を返しついでに少し話せたら、なんて欲をかかなければよかったと心中悪態をつきながら、伸ばした手の甲で彼の青白い頬を撫ぜる。 「気にするな……雨のせいで、偏頭痛が酷いだけだ」 頬に触れた手を握りながら伏せられた瞼は深い影を目元に落とす。 「君、偏頭痛持ちだったっけ…?」 「年かもしれんな」 「いやいや」 少しの軽口の後、部屋の中に一歩引いたスネイプにマリーも外に一歩引く。 すると怪訝そうな視線がこちらに向けられた。 「何をしている、入れ」 「寝てたんだろ? そんな状態の君を起こすほどの用事じゃないんだ…」 これを返したくて、と差し出した本を受け取ったスネイプが器用に片眉だけを上げて見せた。 「こんな事で、起こしてしまって悪かったね」 スネイプは本からマリーへと視線を移した。 「すると──今は、暇なわけだな?」 「え? ぁ、まぁ……」 「ならば、入れ。そして、偏頭痛に効く何かを知ってるなら教えてくれ……」 片手で痛むのかこめかみを押さえるスネイプに、きょとりと瞬きを1つ。 「──スネイプ教授が、知らぬ事を私が知っていればいいですけど」 小さな笑みを浮かべ、招き入れられた部屋へと足を踏み出す。 見上げた顔は相変わらず青白いが、浮かぶ表情は穏やかだ。 「お前の腕は、認めている」 「光栄ですよ、教授」 自然に緩んだ表情筋は簡単に笑みを形作らせた。 スネイプは微かに目を見開いた後、咳払いをしてから部屋のドアを閉めた。 「さて、どうしようか?」とそう言って。 お茶の準備をしようとするスネイプを止めて、ベッドで寝ているようにと背中を押して寝室に押しやり、頭を片手で支えながらベッドの端へと腰掛けたスネイプを見下ろす。 「偏頭痛は薬、常用してると効き目がなくなるし。 君の事だ大抵の薬は自分で作って、試しているんだろ?」 「一応、本職なのでね」 「そうすると……あとはハーブの効能かな」 偏頭痛に聞きそうなハーブを使って、ブレンドティーや香油を使ってマッサージするのもいいだろうかと考えながら、痛むこめかみを押さえる手に自分の手を重ねる。 「その他だと……私には子供騙しの呪いくらいしか思い浮かばないな」 「子供騙し?」 「“痛いの痛いの、飛んでけー”ってね」 リリーがぶつけた痛みに泣く幼子によくやっていたなぁ、と懐かしみながら呟いた言葉に、スネイプが苦笑した。 「それで治れば苦労しな──……」 「だよねぇ」 「……」 「セブルス?」 頭を抱えたまま難しい顔で黙り込むスネイプの目の前に膝を着いて、俯き顔の顔を覗き込む。 「セブルス、大丈夫?痛みが酷いの?」 「──痛くない」 「ん?」 「さっきので、偏頭痛が……治った」 2人で思わず真顔で見つめあってから、あぁと思い至る。 「《言霊》が混じってたのかも、しれない。君に治って欲しかったから……」 無意識に混ぜてしまっていたことが恥ずかしくて、口元を手で多いながら思わず唸るように呟く。 「……そうか、有り難う」 そう呟いて立ち上がろうとしたスネイプを慌てて制する。 「でも、顔色が良くなるまで休んでいたほうがいい」 「しかし……」 「無理は良くない、君がよく私に言うじゃないか」 また難しい顔をしたスネイプは、少し諦めたように一つ溜め息を吐いた後、諦めてベッドへと横になってくれた。 「一応、ハーブティーも飲んでみないか?今持ってくるよ」 幾つか部屋にハーブがあったはずだと言って立ち上がったマリーを、スネイプは静かに見送った。 すっきりとした頭に触れながら、先程触れられた指先の暖かさを思い出す。 偏頭痛を抱えながらも、休日に私室を訪ねてくれたマリーをそのまま帰す事など出来なかった自分の気持ちなど。知らないのだろうな、とスネイプは深い溜め息を一つ吐き出した。 END