この場にいた誰のものでもない声に、レイナは驚いて顔を上げた。 スネイプの後ろから、レイナと同じ年頃の少女が顔を覗かせている。 エメラルドのような澄んだグリーンが、驚いた顔を向けてくるスネイプに向かって、ゆるりと弧を描いて見せた。 「マリー!」 ホッとしたような嬉しそうなルーピンの呼んだ名前は、先ほど紹介にあった彼女と同じものだ。 碧眼がその声に応えるようにぱちりと瞬かせて、彼女は言葉を続ける。 「感染者も出さず、大きな怪我もなく、おさまったことだと。 私は“叔母”から聞いてますよ、スネイプ教授?」 ねぇ、と和やかな声で語りかける少女は、厳しい表情のスネイプの背中を宥めるように一撫した。 きつく眉間にシワを寄せたまま、しばらく口をつぐんでいたスネイプは深いため息を吐き出す。 「認識の違いがあるようだな」と低く吐き捨てたが、それ以上の言葉は続かなかった。 「顔合わせの場に遅れてしまい、申し訳ありません」 スネイプの隣に立って、そう一礼をしたマリーに「いいんじゃよ」とダンブルドアは返す。 「手紙が届いたのが、君が出かけたあとだったようじゃからな。 さて、改めて紹介しよう、レイナ。彼女が君のサポートに当たる学生の、マリー・カウンシルじゃ」 「はじめまして」 「は、はじめまして」 ぎこちなくも挨拶を交わしたところで、ダンブルドアは紹介を続ける。 「スネイプ教授は、マリーとは叔母の婚約者という関係柄で仲も良い。 もし、またきつい言葉でもかけられたら、マリーに相談すると良いぞ」 「レイナ、口と顔は怖いがこれでも生徒思いの教授なんだ。 あまり怖がらないでやってほしい」 「……本人がいる前で話す内容ではないと思われますが?」 こめかみをひくつかせながら低く唸ったスネイプの悪態を、ダンブルドアは「このように素直じゃない」と笑いながら返し、マリーは「発言の翻訳が必要なら言ってくれ」などという。 流石に笑うことも頷くこともできず、レイナはぎこちなく視線を彷徨わせた。 「冗談はさておき。 君の“体質”に関する悩みはマリーかスネイプ教授に、必ず相談するように」 「は、はい」 「マリーからは、何かあるかの?」 「今は特に」 「では、お開きとしよう」 ダンブルドアの言葉で、このおかしな集まりは一先ず解散となった。 くるりと踵を返したスネイプの背中を一瞬から見送って、マリーは少し申し訳なさそうな顔でレイナに「またあとで」と言い残し、足早にその背中を追いかけた。 「スネイプのご機嫌とりは彼女“たち”に任せておけば良い」 「彼女、たち?」と思わず疑問を口にしたレイナに、ダンブルドアは愉快そうに笑った。 「婚約者には、あれでも頭が上がらんからのぉ」 マリーは足早に校長室を出て、先を行くスネイプを追いかける。 随分と前を行く背中に、マリーは螺旋階段を二つ飛ばしほどに駆け下りた。 ズンズンと歩を進めるスネイプの背中は重い空気を背負い、これを他の生徒でも見たら飛び退いて道を開けただろうなと思わせるほどの不機嫌さだ。 気づかれないように微かなため息をついてから、マリーは追いついたスネイプの隣に並んだ。 「黙って“散歩”に出たこと、怒ってる?」 顔を覗き込むように見上げたマリーに、スネイプは視線を前に向けたまま不機嫌そうに唇を真一文字に引き結んだ。 それに苦く笑って、マリーは歩く方向に顔を向けて口を開いた。 「てっきりそれで、不機嫌なのかと」 「……本当にそう思うのか?」 ようやく帰って来た苦々しい返答に、マリーは「まさか」ときっぱり否定した。 わかっている、つもりだ。 彼が何に怒り、悲観しているのかを、マリーはよく知っていた。 だから繰り返し、こう言うしかないのだ。 「あの件で──彼を憎むべきではないよ、セブルス」 スネイプは不意に、歩く足を止めた。 二歩ほど、前に進んだところで足を止めたマリーは後ろを振り返る。 スネイプの胡乱な目がこちらを見下ろしていた。 「確かに、彼等の行動には問題はあった……でもあれはリーマスが、悪いわけじゃない」 そう、結果的にルーピンは加害者となってしまったが、そもそもけしかけた彼等の行動はあまりに短絡的で、自分たちの“悪戯”がどれほど恐ろしい行為だったのか想像できていなかった。 「だから、あの件において責をおうべきは全員なんだ。私を含めてね」 慣れが起こした鈍さを、マリー自身もまた持っていた。 「君に、話していなかった私も悪かった……」 思い起こすのは過去の情景、悲痛に歪んだまだ年若い彼の顔──。 目を伏せたマリーに、スネイプは微かに震える手で自分の顔を手のひらで覆った。 「黙ってくれ、マリー──……」 震えた声で止めるスネイプの言葉を無視して、マリーは言葉を続ける。 「セブルス、あの夜だって私は」 「黙れといってるだろうっ!!」 スネイプは腹の底から吠えた。 肩で息を繰り返しているスネイプを、じっと見つめているマリーの表情が何を写していたのかは、誰も見ている者はいない。 「お前がどう庇おうとも!! 私の考えは変わらんと、前にも話したはずだ!」 きつく食いしばった歯の間からフーッ、フーッと漏れ出る荒い息に合わせて、怒らせた肩が上下に揺れている。 「……わかってるよ」 しばらくの沈黙の後、マリーは足を動かしスネイプの横をすり抜ける。 視界の隅に揺れたローブを追うように顔をあげたスネイプに、マリーは背中を向けたまま口を開いた。 「ダンブルドア先生と、もう少し話してくる──先に帰っていて」 少しだけ強張ったようなマリーの声に、ずきりとどこかが痛んだがスネイプはそれを吐き出せなかった。 校長室に戻っていく、いつになく頼りなく見えた背中に、かける言葉を見つけれないまま。 スネイプは顔にかかった髪を掻きあげながら深いため息を吐き出した。 たとえ正論でも、何年も昔の話だとしても、未だ受け入れられない真実──彼女を傷付ける原因となった自分を正当化するように、相手を恨むような幼稚さにスネイプは舌を打つ。 恨むべきなのは、奴等なのか、自分の愚かさなのか。 スネイプは唇を噛み、地下にある自分の研究室に向かって歩き始めた。 ・・・ あれは、満月の夜のことだった──。 前を行くポッターが、スネイプの手を引き走る。 自分の腕を掴む、力強い手を振り払う事が出来ず、スネイプはほとんど引きずられるままにその後ろを走った。 「早く! 早く!!」 彼女の急かす声に、獣の喜色を含み吼えた。 道の捩れに傾いた体、視界に入った彼女に伸びる恐ろしい鈎爪が迫っていた。 「カウンシル──!!」 次の瞬間には消えた彼女の姿に、血の冷える感覚に唇を震わせ、ただひたすらに恐怖した。 無事だった彼女を目の前に、引き裂かれたブラウスから覗く、血の滲んだ肌を見ると視界が歪む。 マリーは手を伸ばしスネイプの頭を抱き寄せると、誰にも見られないように涙を隠してくれた。 背中に回す事など出来なかった手は、きつく拳を握ったまま。 「大丈夫、大丈夫だから」 震える体を撫ぜながら優しく宥める声に、鳴咽を押し殺しながら。 あの怪物の姿が、自分の命の危機が、恐ろしかったのではなく。 彼女がいなくなることが恐ろしかったなど、彼女にはきっと伝わっていないのだろうと。 ただ、言葉にする事もできず、血が滲む程に下唇を噛んだ。 (私は──……) 優しく髪をすく手の心地良さに身を委ねながら、意識が浮上していくのがわかる。 いつの間にか寝てしまっていたようで、体に纏わり付くローブに体の自由を押さえ付けられ不快さを感じながらも、撫ぜる手がそれさえも洗い流すようだった。 「……マリー」 薄く開けた視界に、自分の側に腰を下ろしたマリーの姿が映った。 研究室のソファでうたた寝していたのだろう、時間の経過がわからないがマリーは自分の元に戻って来てくれた。 先程の事で躊躇いがちにおずおずと言った感じで伸ばした手に、マリーはそれに身を任せるように瞼を閉じた。 少しかさついた指が、マリーの白い頬を撫ぜ、こめかみ辺りを擽る。 薄く開いたマリーの澄んだ碧眼が、スネイプを見下ろしていた。 「泣いている」 その言葉に、自分の眦から涙が筋を作っていた事に気付いた。 先程の夢のせいだろうそれを拭おうとしたスネイプの手を止めて、マリーの指がその涙を掬う。 その動きが、あの夜と被って、また揺らいだ視界をごまかすように眉間にシワを寄せた。 「……」 無言のままのマリーが、まるで夢の続きのように思えて、スネイプは腕を伸ばしてその細い体抱き寄せた。 「夢を、あの夜の……」 合わされた額から、言葉が微かな振動となって体に染み渡る。 声色は不機嫌ながらも、心地よいなとマリーは思っていた。 「セブルスは、あの夜も泣いていたね」 「恐ろしかったのだ……お前を失う事が」 10年以上前には言えなかった言葉が無意識に零れる。 先程までの夢のせいなのかもしれない。 「私は……お前を傷付けようとする者が憎い。 あの時の愚かな自分も、奴らも」 「……あぁ」 「きっと、許す事は出来ないのだ」 「うん……わかってるよ」 微かに歪んだマリーの唇にスネイプのそれが重なった。 そのキスがなんだかこそばゆくて、マリーは笑った。 「全てはお前が愛おしいからだ、マリー………」 「私もだよ、セブルス」 擦れて出来た亀裂を少しずつ埋める、柔らかいものが温かく胸を満たしていく。 スネイプはその微睡みに似た心地良さの中で、ふと先程の話しを思い出して眉間にシワを寄せた。 「第一……マリー、お前が作れば良いのだ。 何故、私が奴に薬なぞ……」 ブツブツと愚痴を唸るように呟くスネイプの背中を、宥めるように撫ぜながらマリーは喉を鳴らして笑った。 「あの薬の基本原理は、お前が作ったのだろう?」 「なんだ、知ってたの──。 でも、ほったらかしにしていたそれを発展して完成させたのは君だろ?」 「……まぁな」 まさか、行方が知れなかった10年の間に。 その影を追い掛けるように、彼女が残した研究に没頭していたなどと、本人に言えるはずもなく。 スネイプの酷く苦々しい言葉に、彼の胸に顔を押し当ててマリーは声を押し殺すように笑った。 その様子があまりお気に召さなかったのか背中に回された腕に力が篭る。 「その上、転入生の世話──校長達は我々の逢瀬の時間を相当削りたいらしいな」 マリーはソファに横たわったスネイプの上に乗った状態で、彼の怒りは昔の怨恨より、今現在の二人の時間が減る事への怒りなんだろうかと考える。 「土日は必ず部屋を尋ねるよ?」 「毎週末、私の部屋に来ていたら怪しまれるだろう。 真実を知ってるポッター達ぐらいは、なんとも思わないだろうが……」 「んー…教えてしまう?」 暗に、自分の正体を容易にバラそうする発言にスネイプは馬鹿者と悪態をついた。 「信用出来ない者に、容易に秘密をばらすな」 「いや……相手は東洋の魔法使いの名家の出だよ? 信用には値するだろう。 それに校長が受け入れた人間だ、問題はないと思うんだが」 それでもスネイプが頷く筈もなく、絶対に駄目だと逆に強く念押しされてしまい、マリーは渋々と頷くしかなかった。 何故、そこまで頑ななのか理由はわからないままであった。 しばらくは離してくれそうにない腕の中で、スネイプが納得してくれそうな、“逢瀬”のスケジュールをマリーは静かに組み立てる。 (耐性がない子が、スネイプ教授に睨まれたら可哀相だしな………) まだ見ぬ級友に対する心配の種を見つけつつ、その心配に反した出来事が待ち受けている事を、誰も微塵も思ってはいなかった。 「セブルス」 「あぁ」 「そろそろ帰らない?」 ずりっとスネイプの上で身動ぎをして、マリーは顔を上げた。 「私たちの家に」 柔らかく甘い声に、スネイプは満足そうに一つ息を吐き出して「あぁ」と頷いた。 「帰るか。残りの休暇を無駄にすべきではないからな」 最後にもう一つだけ、キスを交わしてからマリーはソファから立ち上がる。 差し出した手に、スネイプが指を絡ませ引かれるままに家路へと歩き出した。