来る、と彼女は言った。 レイナにはそれが何なのかはわからなかったが、きっと恐ろしいものであろう事だけは、この薄ら寒い雰囲気で理解していた。 マリーは掴んでいたレイナの腕を引き寄せ、自分の背後へを庇うように立った。 暗いコンパートメントの中、入り口の扉に向けてマリーの腕が上がったのが、縋った背中の動きでわかった。 翳したマリーの手のひらの上に光の塊があらわれ、闇を照らす。 ほわりと白く明るくなった室内を、レイナはマリーの肩越しに見渡した。 そして、照らし出された扉のガラスに写り込んだ黒い影を見て、レイナは声にならない悲鳴をあげた。 頭まで布を被ったようななだらかなシルエットの影は、天井まで届きそうな上背で、扉の前に立っている。 息を殺しその影を見つめていると、影が動いた。 ギィ、と扉が軋む音がする。 微かに動いた扉の隙間に、白っぽい指先が差し込まれた。 半分ほどこじ開けられた扉から、影の正体がコンパートメントの中を覗き込む。 顔を覆う頭巾の中身を見ないように、慌てて落とした視線の先には、マントから突き出した手が見えた。 レイナは胃がぎゅっと縮むような恐怖を感じた。 腐敗した死骸のような、全体を痂に覆われた灰白色の手がこちらに伸ばされる。 あまりの怖さにレイナはぎゅっと目を閉じ、マリーの背中で顔を隠した。 『失せろ、吸魂鬼』 その時、マリーの声が不思議な響きを持って、レイナの耳に届いた。 恐る恐る目を開けると、影はこちらに背を向けてすーっと消えた。 目に見えて消えた存在に、レイナは思わず腰を抜かしてヘナヘナと床に座り込んでしまった。 「レイナ、大丈夫か」 宥めるように肩を撫ぜてくれたマリーを見上げる。 「っ!! あ、あれっ何、幽霊?!」 「“吸魂鬼(ディメンター)”だよ」とマリーはさらりと答えた。 「ディ……ディメン、ター?」 「“吸魂鬼”、闇の生物だ」 あまりにあっさりとした様子に、見慣れたものなのだろうかとレイナは恐怖した。あんなものが見慣れるほど出てくる生活など、恐ろしすぎる。 「レイナ」 「あ、え、マリー?」 マリーは手にしていた光の塊をレイナの方に柔らかく投げ渡すと、コンパートメントの扉を開けて廊下を見渡した。 「ちょっと、出てくる。此処で待っててくれ」 そう言い残して、コンパートメントの外へと出たマリーに、レイナは震える足を動かして手を伸ばした。 「え!やだ、待って! 私も行く、一人にしないで……!」 あんな怖いものを見てから、暗い中に一人で残されるのは恐怖でしかない。 レイナは慌てて、引き止めるようにマリーの手首を掴んだ。 少しばかり驚いたようにマリーはゆっくりと瞬きした後で、特に気にした様子もなく頷くと、手を繋ぎ直してから歩き始めた。 「足元に気をつけて」と言われた言葉に頷きながら、我ながら子供っぽかったなとレイナは眉を下げた。 手を引いて前を歩くマリーの背中は、年下なのにかなり頼りがいがあった。 自分より身長が大きいからなのかも知れないが。 奇妙な静寂に包まれた列車内をしばらく進んでいくと、マリーはふいに足を早め。 一つのコンパートメントを覗き込んだ。 「──ハリー、無事か?」 突き出した光の塊に照らし出されたコンパートメントの中で、少年が倒れていた。 「マリー!」 中にいた少年達と、そして倒れた少年を抱えていた男が振り返った。 男の顔は、レイナには見覚えがあるものだった──ルーピンである。 マリーはレイナをコンパートメントの中にひきれてから手を離すと、少年の側に膝をついた。 「やはり、此処にも奴らが来たか」 「あぁ。ハリーは、きっと……」 そう言葉を濁したルーピンに、マリーは重々しく頷いた。 マリーはそっと白い指先で、少年の青い顔に触れた。 「リーマスが一緒に居てくれて、助かった」 「一応、お帰り頂く事は出来たよ……」 マリーの言葉に、力なくルーピンは疲れ切った顔で頷いた。 「マリー、ハリーは……」 心配そうな顔でそう問い掛けたのは、少年のそばにいた縮れ毛の女の子だ。 「大丈夫。ショックで気を失っているだけだよ、ハーマイオニー」 その言葉に、友人なのだろう二人は安堵の息を吐いた。 「ハリー、起きて。ハリー」 その呼び掛けに呼応するように、少年の目が開く。 「、 マリー……」 少年はグリーンの瞳でマリーを見上げると、呻くように彼女の名前を呟いた。 薄明かる中でもわかるほど顔色が悪い、かなり気分が悪そうだ。 「大丈夫かい?」 赤毛の少年が恐々尋ねると、ハリーと呼ばれた少年は「うん」と頷いた。 「何が、起こったの? どこに行ったんだ──あいつは? 誰が叫んだの?」 ハリーは辺りを見回しながら、困惑気味に次々に疑問を口にしていた。 「誰も叫びやしないよ」と、怪訝そうに答えた友人にハリーはより一層混乱しているようだった。 「でも、僕……」 言葉を濁したハリーの頭上でランプが点滅すると、部屋の明かりが回復した。 明かりがあるだけで、安心感が全然違うとレイナはほっと息をついた。 ルーピンは少年と共にハリーに手を貸して、椅子に座らせた。 微かに体を震わせているハリーに、ルーピンが巨大なチョコレートをどこからともなく出し。 大雑把に割り、そのうちの大きなカケラをハリーに渡した。 「食べるといい、気分がよくなるから」 口にする気分ではなさそうだが、ハリーは小さくお礼を言ってそれを受け取った。 ルーピンは残りのチョコレートを他のみんなにもチョコレートを配ってあげた。 「ほら、レイナも」 「あ、ありがとうございます……」 最後のひとかけらを、ドアの横で所在なげに立っていたレイナを呼び寄せて渡すと、3人組はそこでようやく新顔の存在に気づいた様子だった。 自分に集まった視線に、居心地の悪さを感じて思わずマリーの背中に隠れる。 マリーがレイナの様子に小さく苦笑を浮かべた。 「えーっと、彼女は?」と赤毛の少年がたずね、それにマリーが答える。 「ロン、彼女はレイナ・タチバナ──転入生だ。 私と、ジニーの同級生になる」 「は、はじめまして……」 緊張気味のレイナに、マリーはこっそりこう付け加えた。 「赤毛の子がロン、それとハリー、女の子がハーマイオニー。 三人とも。君と同い年だよ。きっと話も会うんじゃないかな」 「あ、そうなんだ……もっと上かと思ってた」 レイナの答えに、マリーは喉を震わせて笑った。 「あれは……なんだったの?」 そう疑問を繰り返したハリーに、ルーピンが答えた。 「ディメンター──吸魂鬼と呼ばれる奴らだ。アズカバンの看守だよ」 アズカバン、とハリーは小さく繰り返した。 ルーピンは空になったチョコレートの包み紙を、丸めてポケットに入れると立ち上がった。 「私は運転手と話してこなければ。 それと……マリー、ちょっといいかな?」 マリーはそれに頷いて返すと、レイナに「ここにいて」と言ってルーピンに伴いコンパートメントを出て言ってしまった。 レイナはそれを見送ってから振り返った先で、今にも質問攻めにあいそうな空気に小さく悲鳴をあげた。 仲良くはなれそうですが、不安ですから早く戻って来てね。 レイナはハーマイオニー達に曖昧な笑みを返しながら、マリーにそう心の中で頼み込んだ。 運転席に向かいながら、生徒たちの怖がる様子を視界に入れたルーピンたちは顔を顰めた。 「吸魂鬼は、列車の中を練り歩いたみたいだね」 「あぁ……私たちのところにも現れたよ」 何のつもりか、吸魂鬼は列車の全てを見回ったようだ。 生徒たちのいる客室車両を抜けると、ルーピンとマリーはその物陰でひっそりと顔を合わせた。 「この件、学校にフクロウ便を送っておこうか?」 「そうだね、ハリーの件も……彼は恐らく、昔の記憶を引きずりだされたんだろう……」 ルーピンは顔を悲しげに顰ただけで何も言わず、懐から出した羊皮紙の切れ端に文字を書き始めた。 「……相変わらず顔色は悪いようだけど、元気そうでよかった」 ぽつりとそう溢したマリーに、ルーピンは微笑んだ。 「二年前、君から手紙をもらった時はびっくりしたよ。 まさか、生きていてくれるだなんて……その上、婚約の報告だろう?」 十年ぶりの報告はあまりに衝撃が強すぎたとルーピンは笑う。 からかいの含んだ旧友の表情に、少し照れ臭くなってマリーは顔を逸らした。 あの隠れ家を出るまで、マリーはルーピンとも連絡を絶っていた。あの日以来の一度も、だ。 「……長いこと、心配をかけてしまったね」 「いや、生きていただけで……本当に。嬉しかった」 二人は真っ直ぐに視線を合わせた。 「そして懐かしい学び舎で、懐かしい顔に会えたことも感激だ。 君たち夫妻には、世話になるよ」 マリーの様子に笑って、ルーピンは手紙の最後に自分の名前をサインした。 「よし、それじゃフクロウを……」 「いいや、リーマス」 「?」 差し出されたマリーの手に、不思議そうに思いながら書き終えた手紙を載せる。 『行き先は、ダンブルドア先生の机の上』 ぱっと手のひらの上から消えてしまった手紙に、ルーピンは目を見開いた後で愉快そうに笑った。 「随分、便利になったもんだ」 「昔よりこれでも成長したんだよ」 そう言って踵を返したマリーの背中を追って、ルーピンも歩き出した。 見下ろすつむじは随分と低い位置にある、最後に顔を合わせた時よりも頭一つ分は低いはずだ。 「ほんと、昔のままだ」 「ただ、巻き戻しただけだからね」 こんなに小さかったんだ、と呟くと、マリーは「この年頃は君と変わらなかったんだけど」と小さく苦笑した。 確かに、思い返してみれば高学年になって急に身長が伸びだすまでは、ルーピンはマリーとそう変わらない背丈出会った。 「──だから傷も、消えるんだね」 呟かれた言葉にマリーが視線だけで振り返った。 ルーピンはその視線にドキリとした。 感情が映りこんだ瞳を隠すように視線を前に戻すと、マリーは呆れたような声色で呟いた。 「隠してるだけさ……あの傷は目立つからな」 そう言うマリーの言葉はひどく平坦だ。 ルーピンとて、彼女の傷は噂でしか聞いたことがない。眼帯の下、隠された傷の形を知る者はもっと少ないのだろう。 「ハリーとそっくりなんだって?」 “あの人”がハリーの額に残した、悲劇の痕跡──稲妻型の傷をうけた夜、彼女は一度痕跡を消した。 「見る機会があれば、確かめてみるといい」 これで話は終わりだと言わんばかりのマリーに、ルーピンは小さく苦笑すると後は何も言わなかった。 「そうだね、機会はこれからの一年いくらでもある。 君の怖い婚約者が、許してくれたらだけど」 ルーピンの軽口に、マリーは「確認をとるのはやめたほうがいい」と忠告しておいた。 ・・・ 再び動き出した列車は、ホグワーツにあと十分というところに差し掛かっていた。 先程の事件を忘れ、明るい話題に変える為に、皆は転入生を質問攻めにした。 レイナは、少し赤ら顔のままその質問に緊張気味に答えていたが、マリーとルーピンが戻って来ると助かったとばかりに顔を輝かせた。 「おかえり!」 マリーはレイナが開けた隣のスペースに座り、その隣にルーピンが座った。 対面する席にはハリー、ロン、ハーマイオニー、そして増えたメンツのネビル、ジニーが座りかなりきつそうではあった。 その中でハリーは、未だ青い顔でチョコレートを握ったまま、楽しげな面々から一歩引いた様子でいる。 「おやおや、チョコレートに毒なんて入れてないよ?」 ハリーにそう茶化して言ったルーピンに、のろのろとハリーはようやく一口かじった。 「あと10分でホグワーツに着く。 ハリー、大丈夫かい?」 「はい……」 「彼は弱くはない、大丈夫ですよ」 ハリーは何故ルーピンが自分の名前を知っているのか疑問に思ったが、マリーから話を聞いたのかも知れないと思った。 「レイナ、みんなとちゃんと仲良く出来た?」 「うん……ってか、マリーってばなんかお母さんみたいだよ、私より年下なのに」 その言葉にハーマイオニーは、マリーに思わず目配せした。 「よく言われるよ、12歳にしては大人びているってね」 彼女に自分の秘密は打ち明けていないと言う答えを出すと、三人は目配せをした後、そうねと曖昧な同意をした。 大人びてるも何も、中身はハリーの両親、はたまたあの魔法薬学教授と同年代で、かつ婚約者なのだから。 「でも、大変だったわね。 病気のせいで学校に行けなくて、勉強も出来なかったなんて……」 「勉強が出来ないなんて、君なら頭可笑しくなっちゃうね」 茶化したような口ぶりのロンを、ハーマイオニーはきっと睨みつけた。 「ぼ、僕も薬草学が好きなんだ、日本の薬草学について教えてくれる?」 「うん! 私もこっちのにはあまり詳しくないから、ぜひ教えてね」 「あ、私も日本について知りたいわ。 日本の魔法学校についてとか」 仲良くなった様子の彼らに、マリーは満足そうな色を表情にうつした。 あまり表情は変わっては見えなかったが、長年の付き合いでか気付いたのはルーピンだけだった。 到着まで、みんなは先程の騒動など忘れたように話し続けた。