ハグリッドの授業でヒッポグリフに襲われ、怪我をして休んでいたマルフォイもその週の木曜日には、授業に出るようになった。 包帯を巻いた腕をすれ違い様に目だけで見送り、マリーは先を歩くレイナの背中に視線を戻した。 「“闇の魔術に対する防衛術”の教室て何処だっけー?」 「こっちだよ」 左に行く道を、右に曲がろうとしていたレイナのローブをくんと引っ張ってマリーは止めた。 「あ、ごめんごめん」 ローブから手を離し並んで歩き始めた二人の目の前に見えて来た扉が開き生徒達が出てくる。 「? 何、かな?」 「あ、マリー、レイナ!」 教室から出て来たジニーがこちらに気付くと手を振った。 「どうしたの、授業は?」 「やぁ。今日は実地練習をすることにしたから、移動だよ」 ジニーの後ろから顔を出したルーピンが、レイナの疑問に答えた。 「実地……」 「二年にはまだ早い気もしたけど、タイミングよく入り込む事もないしね……」 マリーの呟きにウインクをしてそう言ったルーピンに、マリーは目を細めただけで特に深く聞くつもりはないようだった。 「よし、それじゃあ、移動するよ」 ざわざわと期待に満ちた言葉を交す生徒達に混じり、レイナの表情も期待の色が見える。 「何をするのかな?」 マリーは生徒の先頭を歩くルーピンの背中を見ながら、「なんだろうね」と曖昧に返した。 ルーピンは職員室のドアの前で立ち止まった。 「さぁ、お入り」 ルーピンはドアを開け、一歩下がって声をかけた。 生徒達がおそるおそると職員室へと入っていく。 ちぐはぐな古い椅子が乱雑に置かれた部屋はがらんとしている、見慣れない部屋に生徒達はキョロキョロと部屋を見渡していると、ふと奥でワナワナと震える洋箪笥に目がいった。 ガタン!と一際大きく震えた箪笥に何人かが驚いて飛びのいた。 「心配しなくていいよ、中にまね妖怪──ボガートが入っているんだ」 ルーピンは静かに言った。 ガタガタと暴れる箪笥の取っ手を、生徒達は不安そうに見つめている。 「ボガートは暗くて狭いところを好む。 洋箪笥、ベットの下の隙間に流し下など──私は一度、大きな柱時計の中に引っ掛かっている奴に出会った事がある。 ここにいるのは、昨日の午後に入り込んだやつで、三年生の実習に使うつもりなんだが……君達もいい機会だ、一度対面してみるといい」 さて、とルーピンはそこで言葉を切った。 「ボガートは、私達が一番怖いと思うものにその姿を変える。 それまでは、どんな姿をしているのか誰も知らない。 しかし、私が外に出してやるとたちまち、それが一番怖いと思っているものに姿を変える」 ルーピンの説明に、それぞれ自分達の一番怖いものを思い出しているのか、生徒達は顔を嫌そうに顰めた。 「ボガートを退治する時は、誰かと一緒にいるのが一番いい。 向こうが混乱するからね」 「私たちが、退治するんですか?」 ジニーが不安そうに手を挙げて発言した。 「いいや、ちょっとした体験だ。退治は次の三年生がする。 君達は来年の軽い予習みたいなものだよ」 タイミングを見計らって箪笥に戻すからと言った、ルーピンの言葉にみんな安心したようだった。 「さて、退散させる呪文は簡単だけど、精神力が必要だ。 こいつを本当にやっつけるのは笑いなんだ、ボガートに君たちが滑稽だと思える姿をとらせる必要がある。 だから、今回はやってみたいと思う者だけが行う」 自分が怖いと思っているものと対面する精神力がある者だけが、と続けたルーピンの言葉に生徒たちは友達と顔を見合わせた。 結局、志願者は全員の三分の一ほどのメンバーで、それでもマリーは十分な人数だなと思った。 恐怖に向き合うにはまだ早過ぎる気もするが、逆に言えばまだこの年頃なら恐怖といっても可愛いものだろう。 そうぼんやり考えていたマリーの横のレイナが一歩前に出た。 「───レイナ?」 「え、マリーはやらない? 自分が一番怖いものとか、すごい興味あるから!」 志願者のグループに歩いていくレイナに、マリーは思わず額を押さえた。 まずい予感がして、サポート役はここもなんとかカバーするべきかとマリーはレイナの後を追った。 「さて、大丈夫かい? 他のみんなは固まって下がっていなさい。 そうすれば大丈夫だから」 ルーピンは志願しなかった生徒達にそう呼び掛けると、勇敢なメンバーを見下ろした。 「私がボガートを洋箪笥からだす、そして一番目の君を見る。 そうすると、君が一番怖いものに変身するんだ。 そしたら、杖をあげて──こうだよ──そして叫ぶんだ。 『リディクラス、はかばかしい』──そしたらその姿を一番おかしな姿に変えるんだ、いいかい?」 メンバーはルーピンの言葉に重々しく頷いた。 「一番目の子以外は少し下がって、次の生徒は前に出るように私が声をかけるからね」 先陣の少年以外が下がると、ルーピンが自分の杖を箪笥の取ってに向けながら言った。 「いいかい?三つ数えてからだ。 ──いーち、にー、さん、それ!」 洋箪笥が勢いよく開くと、中からゾンビが現れた。 B級映画のようなそれに、少年は体を震わせながら「リディクラス!」と上擦った越えて呪文を唱えた。 途端、ゾンビは元の腐敗する前の姿に戻り、みんなの笑い声が上がった。 ボガートは笑い声に途方にくれたように立ち止まった。 「次、前へ!」 ルーピンが大声で呼び、先の少年と友人らしいとハイタッチした少年が前に出る。 ボガートは少年に向き直ると、パチンと音がしてバンシーに変わった。 バンシーが口を開くと、長い歎きの悲鳴が部屋中に響いた。 「リディクラス!」少年が叫ぶとバンシーの口はガムテープで塞がれてしまった。 ルーピンが次々の生徒を呼んでいくと、ボガートは徐々に混乱しだした。 「さぁ、もうすぐだ、レイナ!」 唇を引き結んで前に出たレイナの前で、リボン結びにされた大蛇が振り向く。 パチンと音がした。 大蛇が消え、ボガートが一瞬どこへ消えたかと、みんなが辺りを見渡す中。 レイナは目の前に浮かぶその姿に目を見開いた。ざわりと、鳥肌が立つ。 「レイナ……!?」 レイナの次に、生徒達より先にその姿に気付いたルーピンの声に生徒達がそちらに視線を向ける前に、またパチン!と音がなった。 ボガートがまた姿を変えた──そこには黒いローブを纏った男が立っていた。 フードで顔が影になっているのに、その奥から不気味な赤い目だけが光り、レイナの前に立ったマリーを見下ろしている。 マリーを見て、ニヤリと笑った口許に、マリーも口の端を歪めた。 それは自嘲の様な色合いが濃かったが、マリーと向き合うボガート以外、その表情を見る者はいなかった。 あまりに恐ろしく、闇そのもののようなボガートの姿に、生徒達は声もなく後退りする。 ざわざわとする恐怖感に、生徒達はその姿が何者なのかわからなくても、とても恐ろしいものだと本能的に理解していた。 『リディクラス、箪笥に戻れボガート』 低い唸り声のような呟きは、すぐ背後に立っていたレイナにしか聞こえていなかった。 そのタイミングでルーピンも杖を振り、ボガートが箪笥の中にまた閉じ込められた。 ガタガタと震える箪笥を驚いて見る生徒達に、ルーピンは笑顔を向けた。 「さぁ、これで全員だね! 三年生の授業もあるから、これ以上ボガートをからかって退治でもしてしまったら、午後の授業でやる事がなくなってしまう」 ルーピンの茶化したような言葉に生徒達は笑った。 興奮気味の生徒達は後半二人が呪文をまともに唱えていない事など、気にしていないようだった。 マリーは掴んだままだった杖を見ると、溜め息混じりにそれを懐へと戻した。 「よーし、みんないいクラスだった。 二年生で勇敢にもボガートと向き合った君達に、一人5点をやろう」 「………」 レイナは微かに震える肩を抱いたマリーを見上げた。 俯いたマリーの表情は、顔にかかった髪でよく見えなかったが、引き結ばれた唇は真っ青だった。 「今日はこれでおしまい」 ルーピンの言葉に、みんな興奮してぺちゃくちゃ言いながら職員室を出ていった。 しかし、マリーとレイナだけが職員室に残っていた。 生徒達が全員いなくなったと同時に、振り返ったルーピンの目の前で、マリーの体が傾いた。 「マリー?!」 レイナがなんとか支えようとしたが、マリーはそのまま床に座り込んで目を押さえていた。 「マリーっ?」 「だいじょうぶ……」 応えてくれた声はかすれて小さい。 「ルーピン先生! マリーが…!」 そばに立つルーピンを見上げると、酷く苦い表情でマリーを見ていた。 「レイナ……すまないが、スネイプ教授を呼んで来てくれないか? その、今の授業での事を話せば全てわかってくれると思うから」 「え、でも……」 心配そうにマリーを見下ろすレイナに、ルーピンは無理に笑うとその肩を叩いた。 「今のマ#リー#には、スネイプ教授の“薬”が必要なんだ、頼むよ」 「──…はい」 「それから、彼女は医務室に連れて行くから。君は先に昼食に向かいなさい」 ルーピンに背を押されて職員室をでたレイナは、もう一度疼くまるマリーの背中を見た後、足早に地下室を目指していった。 ルーピンはその背中を見送ってから扉を閉めると、悲しげな顔でマリーを振り返った。 「悪い事をしたね……」 「レイナに、は……虚実でもまずいだろうからな」 「……何時から、知っていたんだい?」 「愚問だよ、リーマス」 マリーは肩を小さく震わせて笑ったようだった。表情が見えないので、確信的ではないが。 ルーピンはゆっくりとマリーの前まで来ると、目の前に膝を付いた。 右目を小さな手で押さえたマリーが、その気配に顔をあげた。 「傷が……浮き上がったんだね」 「人の事は言えないらしいな……」 そう言ってマリーは苦く笑った。 ゆっくりと外された手の下から、目蓋を走る稲妻型の傷痕があらわになる。 「本当にそっくりなんだね……」 それを悲しげな目で見つめながら、ルーピンは囁くように言った。 友人の息子の額に刻まれた傷にそっくりな傷跡は、白い瞼を引き裂き頬骨の辺りまで走っている。 「気には病むなよ、君の授業は生徒達には為になった」 「でも……」 「それに、私が何が一番怖いのか……再確認も出来たしな」 そう言ってマリーは少し儚げに笑う。 ルーピンはそれ以上何も言えなかった。 「──立てるかい? とりあえず、椅子に座って」 「あぁ……」 ルーピンに支えられ立ち上がったマリーは、すぐ側の椅子によろめきつつも腰を下ろした。 背もたれに寄りかかって、深く息を吐き出す。 「チョコレートは?」 「いや、いい」 未だ青い顔のマリーは首を横に振ったその時、職員室の扉がけたたましく開いた。 「セブルス──」 走って来たのだろう、微かな息切れに肩を揺らすスネイプの視線はすぐにマリーを映した。 扉が開いた音に顔をあげたマリーの右瞼の辺りに浮き上がった傷痕を見つけて、スネイプはすぐさまルーピンをきつく睨み付けた。 「ルーピン、貴様……っ」 足早に近寄って来たスネイプがルーピンの胸倉を掴むと同時に、マリーは「セブルス」と諌めるように名前を呼んだ。 予想内の行動だったマリーには時に動揺も衝撃もなかったが、ルーピンには悪い事をしたなと思った。 マリーは自分に向いた、未だ険のある黒い瞳を見上げながら首を横に振った。 「いいんだ」 この話しは終わりだと言わんばかりのマリーに、スネイプは眉間の皺を深くした。 「しかし、お前は……!」 「セブ」 激昂しているスネイプが言い募ろうとする前に、マリーがその言葉を遮った。 穏やかな碧眼に見つめられ、勢いが削がれたのかスネイプは忌ま忌ましげに舌打ちすると、突き飛ばす様にルーピンを離した。 ルーピンはよろめいて数歩、スネイプから離れたが何か文句を言うつもりはないらしく、所在なげに服を直すと視線を落とした。 マリーはスネイプをちらりと見た後、ルーピンを見上げた。 「リーマス、お昼食べて来たらどうだい? 午後からの授業もあるんだろう」 「マリー……」 「後で、私も行くから」 彼と話しをつけてからね、と言外に言って苦笑したマリーに、ルーピンは曖昧に頷きつつも後ろ髪引かれる思いで職員室を出ていった。 パタン、と静かに閉まった扉から視線を外し、未だ自分を見つめる視線と自分のそれを合わせた。 ズクリと疼いた傷が、微かな熱を保有している。 マリーは苛立ちの残るスネイプの視線に、微かな苦笑を口許に浮かべた。 「心配しなくても大丈夫だよ、所詮ボガートだ」 「そのボガートごときに、傷痕が疼くのにか?」 「咄嗟の事で閉心が出来なかっただけだよ」 間に割り込む事ばかりを考えていたから、一瞬だけ自分の心を隠すのを忘れてしまったのだ。 そこまで、緩い閉心をしていたわけでもないが、今の体に比例していたのか微かに弱かったのかもしれない。 スネイプは渋い顔のまま、ガタガタと微かに揺れる洋箪笥を睨んだ。 「お前の恐怖は──やはりそれなのだな」 「……」 マリーは右の瞼に触れながら、口の端を歪めた。 「あいつは、私から大事なモノを奪っていく──」 家族も大切な友人達も──大事な人も、何もかも。 マリーは歪んだ口許を隠す様に手で覆った。 「あれを………笑い飛ばせるものに変える想像などつかないな。 出来て、殺すイメージだ」 笑えないな、と厳しい声色で言ったマリーに、スネイプは視線を彼女に戻した。 しばらく黙って、マリーのつむじを見下ろした後、彼女が座る隣の低い肘掛椅子に座った。 向き合わない状態で、短い沈黙が続く。 「もし……」 その沈黙を破ったのは、スネイプだった。 マリーの視線が隣に向けられた。 「私がボガートと対峙すれば、何が目の前に立つのは同じだろうか」 「……どうだろう。そうかも知れないし、違うかも知れない」 十年以上も離れていた時間で、彼が何を目の当たりにし、何を恐れたのかなど計り知れない。 逆も同じだろうが、マリーの場合わかりやすい出来事があった。 「………」 「君はあの箪笥を開けるなよ、ボガートは次の授業でも使うんだから。 退治してしまったら、大変だ」 箪笥に向けられたスネイプの視線に気付いたマリーの言葉に、スネイプは怪訝な表情を浮かべた。 「お前の事がありながら、次の授業でもあれをやるのか?」 「次は三年生だし、私とハリー以外だったら、子供達の恐怖は可愛いものだよ」 小さく笑ったマリーは、おそらく先ほどまでの授業のボガートの事を思い出しているのだろう。 確かに、10年と少ししか生きていない子供達の一番怖いものなどたかが知れているとスネイプも、それには同意を示した。 しばらくの沈黙の後、マリーの手が、肘掛に置かれていたスネイプの手に重ねられた。 スネイプはその手を見つめた後、自分の手を浮かせてからその手を優しく握った。 絡んだ細い指が、スネイプのかさついた指を撫ぜた。 穏やかな沈黙。 手を繋いだまま、椅子の背もたれに寄り掛かり、深い息を吐いて目を閉じたマリーを、握った手を見つめていた視線をあげて見たスネイプが目を細める。 「医務室には行くか?」 「……いや、傷が消えれば午後の授業には出るよ」 幾分、疲れが見える声で呟かれた声に、スネイプは頷けないでいた。 「レイナを、一人にはしておけないだろ」 「……自分の事を気にしろ、馬鹿者」 薄く開いた片目が、スネイプを見て笑ったようにスネイプには見えた。 「大丈夫だよ」 「お前の大丈夫は信用ならん」 きっぱりと言い切ると、マリーは力なく笑った。