初めての飛行訓練を終えたその夜、呼び出してきた筈のマルフォイとの真夜中の決闘は行われる事はなく。 おそらくマルフォイの告げ口で現れたであろうフィルチから逃げ回り、運悪く出会ってしまったピーブスのせいで散々な目にあったばかりか。 ハリーを含めた四人は、不運さの駄目押しと言わんばかりに四階の『禁じられた廊下』で怪物と対峙していた。 床から天井までの空間を埋め尽くす、怪獣のような三頭の犬にその三対の目で見下ろされ。四人は蛇に睨まれた蛙のような状態で、恐怖から瞬きさえも出来なかった。 怪物犬はハリー達の突然の登場に不意をつかれたらしく戸惑いを見せたがが、すぐさまに雷のような唸り声を上げ始めた。 獣の対応として初歩的な、がっちりあってしまっている目を逸らさないようにしつつ、ハリーは必死で暗闇の中のドアの取っ手をまさぐった。しかし中々、見つからない。焦れば焦るほどハリーの手は見当違いな場所を探っていた。 そうして今にも噛み付いてくれようとばかりに怪物が口を開けた瞬間、ドアがぱっと開いた。 怪物犬から出来る限り距離をとろうと、ドアにへばり付いた四人はそのまま後ろからひっくり返る。 見上げた視界に黒いローブが揺れた。 転がった獲物の隙を見逃さなかった怪物犬が飛び掛かかろうと、体制を低くした瞬間。 『鎮まれ』 小さい声ながらよく響く透明な声に、怪物犬がぴたりと動きを止め。唸り声も徐々に小さくなっていく。 『いい子だ』 その声に促される様に怪物犬はそのまま、伏せをするように膝をついた。 あっという間の出来事に呆然としているハリー達の頭上から、聞き慣れた声が降ってきた。 「さぁ、ここは入っては行けない場所だぞ、悪い子たち」 「マリーさん!?」と思わず声をあげたハリーに、しっとマリーは唇に人差し指を当てる。 「静かに……アーガスさんが戻って来てしまう。早くここから離れなさい」 微かに廊下の向こうに視線をやりそう囁いたマリーに、四人は慌てた様に立ち上がり部屋から飛び出た。 後ろ手にドアと閉めたマリーが『閉まれ』と不思議な響きを持つ声で言うと、カチリと音がして鍵がかかった。 マリーはしっかりと施錠されたのを確認してから、ハリーたちを振り返った。 「送って行く」 そう言ってローブを翻したマリーを、ハリーとロンは一瞬顔を見合わせてから慌てて追いかけた。その後ろを半泣きのネビルの背中を押したハーマイオニーが続いた。 四人はドキドキしながら、マリーが一体何処へ自分達を送って行くつもりなのかを考えた。 フィルチの所か、それともマグゴナガル先生の所か。 前を歩くマリーは何も言わず、一度もこちらを振り返ることもなく廊下を進んでいく。 ハリーは、同級生の息子である自分がこんな事をしてマリーに失望されたのではないかと、罰則以外の不安も出て来た。 下を向いて歩いていた四人は立ち止まったマリーに気付かず、彼女の背中にぶっかった。 「どうしたの?着いたよ」 後ろからの衝撃にたたらを踏んだマリーは、不思議そうな顔でそう言って振り返った。 「──え?」 マリーの背中にぶつけた鼻を摩りながら顔をあげると、そこはフィルチの部屋でもマグゴナガル先生の部屋の前でもなく。グリフィンドール寮の入り口、太った婦人の肖像画の前だった。 ぱちぱちと目を瞬いて、ハーマイオニーはおそるおそるとマリーを上目遣いに見た。 「あ、あの、カウンシル先生。私達に罰則は……」 今は、というだけで後から下されるかもしれない罰則に怯え、そう訪ねたハーマイオニーにマリーは小首を傾げた。 「グレンジャーは罰が欲しいの?」 「え……いえ」 そんなことはないと首を横に振ると、マリーはゆるく微笑んだ。 「折角、授業で貰った点数をこんな事で減らされたら嫌だよね」 「でも!……校則を破ったのには、代わりはないし……」 徐々に声を落として俯いてしまったハーマイオニーの頭に手を伸ばし、マリーはその丸い輪郭を確かめるように優しく撫ぜた。 「グレンジャーは真面目で良い子だね……。 でも、昼間も言った通り私は助手だから、点数をどうこうできないし、するつもりもない。 それに、ここに来るまで反省はしただろ?」 マリーのその言葉に、この道中ぐるぐると頭の中をよぎったことも思い返して四人はそれぞれ素直に頷いた。 「それで十分なんだよ。 さぁ……もう遅い、早くベットに入りなさい」 そう言って真っ青な顔で震えていたネビルの頭をくしゃりと撫ぜ、またあの不思議な響きの声で『もう心配はいらない、夢も見ずにぐっすりおやすみ』と囁いた。 それからマリーは太った婦人に「豚の鼻」と合言葉を言うと、欠伸まじりに夫人が開けてくれた入口へと四人の背中を押した。 「おやすみ。グレンジャー、ロングボトム、ウィーズリー、ポッター」 「おやすみなさい、マリーさん」 ゆっくり閉まっていく扉の隙間から、マリーの笑顔が見えた。 「おやすみ、レディ」 「おやすみなさい、マリー」 マリーと太った婦人の挨拶は、扉が閉まると同時に余韻もなく消えた。 ・・・ 四人はまるで夢遊病者のようにふらふらと談話室に入ると、体を包み込んだ暖炉の温もりに緊張感が溶けた瞬間。ぶり返して来た怪物犬への恐怖にぶるりと体を震わせ、ひじ掛け椅子にへたりこんだ。 「マリーさんが来てくれて、助かった……しかし、あんな怪物学校に閉じ込めておくなんて、連中は一体何を考えているをだろう」 ロンが額に滲んだ嫌な汗を拭いながら呟いた言葉に、ハリーも力なく頷く。 「貴方達、どこに目を付けてるの?」 先ほどのマリーへのしおらしい態度とは一転した、ハーマイオニーの突っ掛かるような言葉尻に、ロンがむっとした顔で彼女を振り返った。 「あの犬が何の上に立っていたか、見なかったの?」 ソファの背もたれに深く寄りかかり、腕組みをするハーマイオニーは質問の意味を理解してない男子達を睨みつける。 「床の上じゃない?」 ハーマイオニーは呆れたように溜息を吐き出すと、立ち上がって三人を睨み付けた。 「違う。床じゃない。仕掛け扉の上に立っていたのよ。 何かを守ってるに違いないわ。カウンシル先生もきっとそうだったのよ。 だって彼女には“ガブリエル”の力があるもの」 あの状況でよくそこまで見ていたなとハリーは感心する。命の危機に目の前の怪物犬の凶悪な歯並びにばかり目がいっていて、下に何があったなど全く気が回っていなかった。 だが確かに、マリーの登場はあまりにタイミングが良すぎた。ハーマイオニーが言う通り、彼女があの場所で何かを守っていたとしたら、どこか納得がいく。 そんなことをぼんやり考えていると、ハーマイオニーはかっかとした様子で「貴方達、さぞかしご満足でしょうよ」と吐き捨てた。 「もしかしたら皆、殺されていたかもしれないのに──カウンシル先生のように厳しい先生に見つからなかったから良かったものの、もっと悪い事に退学になっていたかもしれないのよ」 勝手に着いてきたくせに、とは流石のロンもあまりの剣幕に口が挟めなかったようだが、その口は物言いたげにパクパクと開閉していた。 だんまりのハリー達に、ふんと鼻を鳴らすとハーマイオニーは踵を返した。 「では、皆さん。差し支えがなければ、私は休ませていただくわ」 そう言い捨ててツカツカと女子寮に入っていったハーマイオニーを、ロンは結局ぽかんと口を開けて見送った。 乱暴に閉められたドアの音に、思わずびくりと肩を震わせてから顔を見合わせる。 「差し支えなんかあるわけないよな? あれじゃ、まるで僕達があいつわ引っ張り込んだみたいに聞こえるじゃないか、ねぇ?」 不愉快そうに顔を顰めるロンに、ハリーはそれよりもと自分の疑問を優先させる。 「さっきハーマイオニーが言ってた、“ガブリエル”の力って何?」 「さっき、ハリーも見ただろ。それだよ、それ」 ロンの言葉に、ハリーは「もっとわかりやすく言ってよ」と返す。 「僕……ばあちゃんから聞いたことがあるよ。《言霊魔法》って言うんだ」 ロンの代わりにそう言ったのは、幾分落ち着いて来たらしいネビルだった。 「《言霊》?」とハリーが繰り返すと、ネビルはぎこちなく頷いた。 「魔法を使うのに呪文がいらないんだ。鍵を開けたかったらそのまま『開け』って言えば、開いちゃうんだよ」 「そうそう、さっきだってマリーさん、それで鍵を閉めてたじゃないか」 ネビルの言葉を引き継いで言ったロンの言葉に、確かにと思い返してハリーは頷いた。 呪文の本に書かれている言葉は、普段ハリー達が使う言語とは違い古い言葉であるものが多い。呪文もなしに、思うままに口にしただけで魔法になるなんて、と呪文を覚えるのに日々頭を使っているハリーにとっては羨ましい話だ。 「さぁ……もう寝ようぜ、二人とも」 話は終わりと欠伸まじりにそう言って立ち上がったロンに、ハリーとネビルは頷いて立ち上がった。 男子寮の大部屋に足音を忍ばせて戻りハリーは自分のベットに潜り込んでから、ハーマイオニーが言っていた言葉をずっと考えていた。 あの犬は何かを守っている──そういえば、ハグリッドは何と言っていた? “グリンゴッツは何かを隠すには世界で1番安全な場所だ──たぶん、ホグワーツ以外では……” 713番金庫から持ってきた、あの汚い小さな包みが今何処にあるのか、ハリーはそれがわかったような気がした。 そして、この年にマリーがホグワーツへとやって来た理由も、それに関係するのであろうことも。 ・・・ 地下牢へ向かう廊下を歩きながら、マリーは口元を歪めた。 「今日は人が居て、失敗しましたか──クィレル教授」 足を止め投げかけた言葉に、びくりと背後の気配が震えるのがよくわかった。 「な、なんの事です、ミス・カウンシル。 あ、貴女こそ、一体何をしにあんな場所に……もしかして、貴女も守りを…?」 「さて……そうかもしれませんし、そうじゃないかもしれない」 煙に巻くようなマリーの言葉に、クィレルはひくりと頬を引き攣らせた。 「そ、そそ、それでは……ミス・カウンシルは、一体、どんな方法を使うんです……?」 成り立たない会話に1つ息を吐き出して、マリーは背後に立つクィレルを振り返った。 彼の頭を覆う大きなターバンのせいで、異様に頭を膨らました不気味な影が足元に横たわる。 幼き日に見た、恐ろしい話の挿絵にあった悪魔の形のようなそれを視線でなぞってからマリーは、月明かりに青白く光るクィレルの顔を見た。 クィレルの目はどこを見ようとしているのかわからないほどに揺れ続け、マリーと目をあわそうともしない。 余程この場から逃げたいのか、彼の足はじりじりと後ずさっていた。 『逃げるな、クィレル』 クィレルの体はネジが切れた人形のように動きを止めた。 魔法によって絡め取られ自分の意思ではぴくりとも動かない体に、彼の額に汗が滲んでいる。 頬を痙攣させながら、クィレルは「な、何を」を裏返った声で問う。 「そのターバンは随分と重そうだ──中に、何がいる?」 クィレルの顔が恐怖に引き攣ったのに、マリーは口元で歪な笑みを作った。 「そこで、何をしている」 張り詰めた空気を破ったのは、そんな固い声だった。 マリーはその声の主をゆったりとした動きで振り返り見た。 「……セブルス」 地下の暗闇から現れたスネイプは、対峙するマリー達に訝しげに目を細めた。 スネイプの登場にマリーはクィレルの動きを縛っていた《言霊》を切る。今夜はこれ以上の詮索は無理だろうという判断からだった。 ようやく自分の意識下に戻った体を手で摩り、クィレルは怯えた瞳をスネイプとマリーに走らせた。 「で、では、わ、私はこれで……!」 クィレルは逃げるように背を向け、足早に去って行った。 遠くに消えていくその足音を見送った後、マリーは隣に立ったスネイプをちらりと見上げた。 「見回り?」 問うた声に、スネイプもまた視線だけをマリーに向けた。 「夜中に寮を抜け出した生徒が四人もいるらしいのでな……君は見たかね?」 「いや、見てないな」 「ところで、マリー──あの男と何をしていた?」 黒い瞳に威圧的に見下ろされ、マリーは肩を竦めた。 「何の話かなんて……セブルス、君が1番よくわかっているんじゃないのか?」 軽い口ぶりで言うマリーの言葉に、スネイプはより一層眉間のシワを深く刻んだ。 「……お前も、そう思ったか」 それが答えだとばかりに、マリーは微笑んだ。 「ところで、セブルス」 微かにマリーの声が震えたのに、スネイプは不思議そうに体ごと彼女と向き合った。 「手を、握ってくれないか……情けないことに震えた」 自嘲気味に言って口元を歪めたマリーが差し出した右手は確かに、小刻みに震えている。 「だから言ったであろう、無理はするなと」 そう溜息まじりに言って差し出された手を握ってやると、マリーは「ごめん」と小さく呟いた。 震えの残る手は、まるで血が通ってないかのように冷たい。 体温を分け与えるように握り込んだ手に、息を吹きかけるように「マリー」と彼女の名前を呼ぶ。 緑の隻眼が、スネイプを真っ直ぐに見上げた。 「相手は危険過ぎる。一人で、無茶だけはするな」 握りしめた手が少しだけ離れ、そっと指が絡められた。 マリーはその手を目を細めて見つめると、ふっと頬を緩め重ね合う手を逆の手でそっと包み込んだ。 「それは、君にも言える事じゃないか」 「マリー……」 「セブルス──罪を背負いすぎるな、君ばかりが全て背負う事はないんだ」 穏やかにかけられたマリーの言葉に、スネイプは僅かに視線を反らした。 「心を閉じ込めて苦しむのは、──だけでいい」 「?……マリー?」 最後に落とされた声が小さすぎて言葉が聞き取れなくスネイプは聞きかえそうとしたが、マリーはそれ以上何も言わずそっと手を離した。 「ありがとう、セブルス」 するりと呆気なく離れていったマリーの手の震えはもう止まっていた。 マリーは先程までの弱気な様子を震えとともに抑えてしまうと、いつものぼんやりとした声で言う。 「セブルスはまだ見回りを?」 「あぁ……」 「そう、じゃあ私はこれで。おやすみ」 そう言ってあっさりと踵を返したマリーは、先程スネイプが出てきた地下の光の入らない廊下の闇へと姿を消していった。 その場に立ち止まったままスネイプは、微かに残る手の中の喪失感を無視して、拳を握った。