白いシーツの上に横たえられた彼女の回りを、忙しなく動くマダム・ポンフリーのことをスネイプはどこか現実味のない心持ちで見ていた。 閉ざされた瞼は与えられる刺激に震えることもなく、色を無くし薄く開いた唇からは本当に空気が取り込まれているのかも心配になってくる。 薄い胸が時折動いた様に見えるが、それさえも目の錯覚のようだと、スネイプは目をこらすように目を細めた。 「スネイプ教授!」 後ろからかけられた声にスネイプは、思考に沈み込んでいた意識を切り替えて医務室の入口を振り返る。 青い顔で部屋に入ってきたマクゴナガルは、ベットの上のマリーを見ると唇を微かに震わせてからスネイプを見上げた。 「一体……何があったんですか」 「突然倒れそうです。そうだな、ポッター」 スネイプは医務室で立ち尽くしていたハリー達に視線を移すと、微かに肩を震わせてから「はい」と答えた。 「でも、あの突然と言うか……マリーさん倒れる前に小さく呟いたんです。それから右目をおさえて……」 そう幾分落ち着いたハリーが告げた内容に、スネイプは眉を顰めた。 「何と言ったんだ?」 「ええと……あの、『声が、近い』って」 ハリーが告げたその言葉に、マクゴナガルは驚いた様子で口元を手で押さえた。 スネイプはそんなマクゴナガルの様子にちらりと視線を向けただけで、深く追求せずに三人に視線を戻すとわかったと呟いた。 「もう戻っていい」 そうスネイプが静かに言うとハリーは少し複雑そうな顔をしたが、ロンとハーマイオニーに小突かれて無言で軽く頭を下げると医務室を出て行った。その小さな足音が遠ざかるのを確認してからスネイプはマクゴナガルに向き直った。 「マリーに、何が起こっているのですか?」 「──……私が、答える事は出来ません」 そう言って珍しく視線を反らしたマクゴナガルに、スネイプは顔を歪めた。 「何故です?」 「彼女が……マリーが、それを望まないからです」 「っ、望む望まないは関係ないはずだ! 知らぬ者がどれほど辛いか、貴女にわからない筈がない!!」 「スネイプ教授!」 爆発したように声を荒げたスネイプに窘める様にマダム・ポンフリーが声をあげる。マクゴナガルは堪える様に瞼を伏せた。 「落ち着きなさい、セブルス。マリーは大丈夫じゃよ」 穏やかな声に、スネイプとマクゴナガルは弾かれた様に振り返った。 そこには優しい笑みを浮かべたダンブルドアがいた。 「彼女はただ眠っているに過ぎない」 「しかし……」 「君は心配しすぎだ──限りがあるとしても、何も今すぐに彼女がいなくなってしまうわけではなかろう」 「っ!」 見透かす様な青い瞳に見つめられ、スネイプは息を飲んだ。 ダンブルドアは穏やかに笑うとスネイプの脇を擦り抜け、マリーが横たわるベットの側に立った。 「マリー、わしの声が聞こえるかね? 少し──無理がたたったようじゃの」 声に答える事なく彼女は横たわっていたが、ダンブルドアは彼女の返事を聞いているかのように何度か頷くと「そうじゃの」と言ってまた一つ頷いた。 「しばらく、休みなさい。ゆっくりとな……うるさい声はしばしわしが遠ざけておこう」 そう言ってダンブルドアは、マリーの頭を撫ぜるとベットに背を向けた。 「しばらく休めば、すぐにいつも通り、君の助手が出来るじゃろう。 それまでは、大変だろうが一人で頑張っておくれ」 「──……はい」 「それでは、マクゴナガル先生。わしらは失礼しようか」 ぎこちなく頷いたマクゴナガルはちらりとスネイプを心配そうに見てぎこちなく「えぇ」と頷いてから歩き出した。 「マダム・ポンフリー、彼女をよろしく頼むよ」 「わかりましたわ」 医務室を出て行った二人を見送ってから、小さく息を吐いたスネイプにマダム・ポンフリーは眉根を下げた。 「スネイプ教授、私は少々医務室を空けますので。それまでマリーについていてくれませんか?」 「……わかりました」 マダム・ポンフリーはそれではお願いします、と言って頭を下げると足早に去っていった。 一人残されたスネイプはゆっくりマリーが横たわるベットへと歩み寄った。 「マリー……」 伸ばした手が彼女の血の気のない頬に触れ、ゆっくりと包み込んだ。体温の低いスネイプの手が冷たいと感じるほどにマリーの頬に熱がない。 「……マリー」 答える事のない彼女を目の前に名前を呟くスネイプはまるで、死体に話し掛けているような絶望感を感じていた。 自分は、次はいつこの感覚を感じることになるのだろう──。 「答えてくれ、マリー…っ」 悲痛なスネイプの呟きは誰もいない医務室に響いて、静かに消えた。 ・・・ 黒い海に漂うように微睡みに身を任せていたマリーは、突如頭を貫くような今まで感じたことのない激痛に、息も出来ず体を丸めた。 痛い痛い痛い痛い──脳みそを刺されてぐちゃぐちゃにされているような痛みに、マリーは夢と現実の狭間で頭を抱えて悲鳴を押し殺す。 呼ぶ声が、鳴き声が、エコーの様に耳の奥で響き、痛みに苦しむマリーの意識はまるで底無し沼にしずむようにぼやけてきた。 駄目だ、と抵抗するも纏わり付き、暴れる手足を絡め取るその泥のような声にマリーは声もなく叫んだ。 『目覚めなさい、マリー・カウンシル。 我々が惑星の読みを間違えることもある──そう今回も証明してください』 深い眠りに誘う魅惑的な声を掻き消すように、若い青年の力強い声が響いてマリーはそれに答えるように瞼を開いた。 「──……フィレンツェ」 呟いた声はむしろ声にはなっていなくて、ただ空気を震わせただけのようにも思えた。 マリーはこんな所にいるはずのない若いケンタウルスの姿を見たような気がして、ぱちぱちとまばたきをするとゆっくりと辺りを見渡した。 クリームいろのカーテンに、見慣れない真っ白なシーツと枕。 「医務室……?」 そう呟くとマリーはゆっくりと体を起こした。 力の入らない腕を伸ばしてカーテンを開けて医務室を見渡せば、少ない窓から見える空は少し白みはじめていて、今の時刻が夜明け前であることがわかった。 霞がかる頭を抱えて記憶を整理する。そして、自分は図書館でそれもハリー達の目の前で倒れた事を思い出した。 (しくじったな) まだズキズキと痛みを引きずる右目をおさえてマリーは喉の奥で呻いた。 「──……マリーさん」 「!」 押し殺すような小さな声にマリーは驚いたように顔をあげて、誰もいないはずの医務室を見渡した。 「……ハリー?」 そう言うとベットのすぐ側の空間が、まるで布が揺らめくように揺れてそこから一人の少年が空間を引き裂くようにあらわれた。 「もう起きても大丈夫なんですか?」 驚きに一瞬目を見開いた後、それが何なのかよく知っているマリーは力なく笑った。懐かしい、過去そうして何度彼らに驚かされただろうか。 「あぁ……心配をかけてすまなかった」 マリーは頬を優しく緩めると、立ったままのハリーを手招きしてベットの端に座らせた。 「私はどれくらい眠っていたんだろうか?」 「もう試験の一週間前です」 「そうか…」 そうすると自分は3ヶ月も寝ていた事になる。マリーは自嘲ぎみに「仕事をしないにもほどがある」と小さく溜息交じりに呟いてから、ハリーに視線を戻した。 「ハリー、ところでこんな時間に医務室に何の用で……?」 「マリーさん、さっき傷が酷く痛みませんでしたか?」 微かに見開かれたマリー瞳を肯定と受け取り、ハリーは言葉を続けた。 「今、僕は森でフィレンツェというケンタウルスに助けられました…。 相手は、ユニコーンの血を飲み命を長らえようとした」 「ヴォルデモート……」 マリーが低く呟いた名前は静まり切った医務室に嫌な余韻を残した。 「マリーさん」 かたかたと震えるハリーは涙に歪んだ瞳でマリーをまっすぐに見上げた。 「僕は、ヴォルデモートに殺されるんですか……?」 「……」 マリーは黙ってハリーの震える体を抱き寄せた。 「そんな事はさせない。私は、そんな事は絶対にさせはしない。 私は、君を守る。それが……リリーとジェームズとの約束だ」 「マリーさん…」 泣き出したハリーをきつく抱きしめて、マリーは自分も泣きそうな顔で静かに彼の背中を優しく宥めるように叩いた。 「絶対にハリー、君を守ろう」 例え、この身を犠牲にしたとしても。 私は──この子の幸せを願おう。 『ねぇ、マリー、この子はどんな子に育つかしら』 『もちろん、父親似だと思うだろマリー?』 『んー、ジェームズ似だと……どうかな?』 『マリー!それはどういう意味だ!』 『そうよねー、女癖は悪いところは似ないでほしいわねー』 『そ、それはないよ、リリー……』 『ハリーはさ、リリー、ジェームズ。 この子は二人のいいところをみんな受け継いで、素晴らしい幸せな子になるよ…』 『マリーが言うならそうだろうな』 『マリーが言うなら確かよ』 瞼の裏側に浮かぶ懐かしい笑顔を振り払うように開けた隻眼は、暗闇の向こう側に潜む敵を睨むような強い光を抱いていた。 ・・・ 森でユニコーンがまた襲撃され事をフィルチから聞いた翌朝、長い間眠っていたマリーが目を覚ましたとマダム・ポンフリーがスネイプの私室へと飛び込んで来た。 急いで医務室にいけば、まだ顔色は悪いものの穏やかな表情でベットの上で上体を起こしている彼女と目があった。 その表情に幾分の違和感を感じたが、あまりに一瞬のことであったためスネイプはそれ以上深く考える事はなかった。 「おはよう──随分、寝坊が過ぎてしまったね」 「……あぁ、そうだな」 スネイプはそれだけ呟くと、走って乱れた息を整えるように深く呼吸を繰り返した。 「忙しい時期に倒れたりして、役立たずの助手でごめん」 酷く真面目な顔で言うマリーに、スネイプは首を横に振った。 「いや、気にするな………それより大丈夫なのか?」 「うん……ねぇ、セブルス」 「……?」 ちょいちょいと手招きされてマリーとの距離を詰めると、伸ばされたマリーの手がスネイプのローブを掴んでひっぱった。 咄嗟の事にバランスを崩した上体を支えるようにベットに手を着いたスネイプは、至近距離のマリーの隻眼を睨んだ。 闇色のスネイプの鋭い視線を真っ直ぐと受け止める彼女の碧眼に、勢いを削がれスネイプは睨むのをやめた。 「セブルス──ユニコーンの血で、あいつは少しの復活を遂げている。 君も、気付いているね?」 そう言って触れられたのは左腕、罪の“証”がある場所だった。 思わず跳ね退けようとしたが、それより先に握る力を強く込められてしまい叶わなかった。 「私もわかるんだよ──この傷が酷く痛むから」 そう言ってマリーはスネイプの腕を掴んでいる手と逆の手で、右目を覆う眼帯を毟るようにとった。 あらわになるそこに、スネイプは目を見開いた。 そこには、眉の上から瞼の上を走る。ひどく見覚えがある形の、稲妻型の傷がくっきりと残っていた。 「マリー、お前」 「君はどこまで知っているのだろうね?……あの夜、私はポッター家にいて、そこであいつから呪いをうけた。 ハリーのせいで瀕死だったあいつは、私に完全な呪いはかけられなかったみたいだ……だから、私は生きてる。半分な」 からからと口の中が渇いて、うまく舌が回らない。なんとかスネイプはぎこちない口を動かした。 「なんの呪いを…かけられた?」 「最終的に……私は深い眠りに沈められ、あいつの思うままに操られる人形となる」 自嘲気味に歪められたマリー口元に、スネイプは顔を顰めた。 「何故、今、我輩にそのことを話した?」 「……言い渋って結局伝えられないのは、いけないことなのだと今回の事で実感したのさ」 そう言ってマリーは掴んでいた左腕を離し、ベットの上に落ちた眼帯を拾いつけ直し始めた。 「“知らぬ者がどれほど辛いか”……知らないわけじゃないんだ」 「マリー……」 「ごめんね、セブルス」 そう言ってひどく儚げに笑ったマリーを、スネイプは抱き寄せた。 「──…セブ」 僅かに身じろぎした彼女を逃がさないように力をいれる。 「死ぬな」 懇願するその言葉に、マリーはぴたりと動きが止まった。 「死にに行くような言い方はやめろと、昔も言った筈だ」 「………仕方がないよ、そう言うしかない…」 マリーの手が縋るようにローブの端を握りしめた。 「ごめん、セブルス……」 最後に、また小さく謝った理由がわからずに、ただただ彼女を抱く腕に力を込めた。