舐めた唇は相変わらず鉄臭い。 ハーマイオニーは紫の炎を突き抜けて、開けっ放しだった扉を出て急ぎつつしかし静かに気絶しているトロールの横を走り過ぎる。そしてロンがいる巨大なチェスの部屋まで一気に戻ってきた。 「ロン!!」 ハーマイオニーは部屋の片隅に横たわったロンに駆け寄り、ぐったりとした体を揺すった。 打った頭の事を考えると少し乱暴な気もしたが、一人で行ってしまったハリーの事もある。ぐずぐずはしてられない。 「ロン、起きてロン!」 ほぼ怒鳴るように叫ぶと、ロンが小さく呻いたのでハーマイオニーは小さな安堵の息を吐いた。 「ロン!大変なの、ハリーが一人で先に行ってしまったわ。 私達は急いでダンブルドア先生にふくろうを飛ばさなきゃ!この事を早く伝えないといけないのよ!」 「うぅっ……ハリー……?」 「そうよ!!だからしっかりしてちょうだい!」 顔色が悪いロンは何とか体を起こすと、ハーマイオニーに支えなれながらなんとか立ち上がった。 「さっきの箒に乗って、フクロウ小屋に行きましょう」 ハーマイオニーが言っていることを半分も理解できていない様子のロンは、うわごとの様な返事をする。 フラフラと足元が覚束ないロンを支えながら歩くハーマイオニーは、なんとか例の扉のところまで行き着いた。 その時、二人を覆う大きな影が立ち塞がった。 二人はその影の持ち主を見上げ、声にならない悲鳴をあげる。ひゅうっと喉の奥がおかしな音をたてた。 「貴様等…っ」 「ス、ネイ、プ…教授……」 此処まで走って来たのか乱れ切った息でスネイプは低く唸った。 二人は恐怖に硬直した。この男に立ち塞がれては、ハリーを助ける為にフクロウ小屋まで行けない。 しかし、スネイプは何か言いかけた口を一旦閉じると、少し間を開けてから再び口を開いた。 「ポッターはこの先か」 問うような言葉の割に放たれた声は断定的で、二人は言いあぐねて曖昧な声を呻き声のように漏らす。 「どうなんだ」と威圧感を増したスネイプに、ロンはほぼ反射的に「そうです」と答えてハーマイオニーに脇腹を強くつねりあげられた。 スネイプは忌々しげに舌を打った。 「なら、マリーもそこか」 そう吐き捨てたスネイプを、二人は不思議そうに見上げた。 「貴様等は今から何をするつもりだ?」 「ダ、ダンブルドア先生に、ふくろうを飛ばします」 「不要だ、すでに校長にはすぐ学校に戻るように伝えてある。 貴様らはすぐにマクゴナガルに状況を伝え、それから……これを戻ってきたダンブルドアに渡せ」 懐から出したそれをハーマイオニーの手に押し付けると、スネイプは二人の横を摺り抜け足早に部屋を横切る。 一瞬呆気にとられ固まっていたハーマイオニーは慌ててその背中に疑問を投げかけた。 「スネイプ教授は何を?!」 「ポッターとマリーを助ける!」 「!!」 きっぱりと言い切ったスネイプの背中を見送った二人はしばらくそこに立ち尽くした。 暗闇の奥へと消えていった足音が完全に途切れると、ロンは「なぁ」と呆然として言った。 「スネイプが石を狙ってたんじゃないのか? なのに、ハリーを助けるって?」 「わからない……でも……私達はやるべき事をやりましょう」 そう自分に言い聞かせるように言って、スネイプから受け取った紫紺の小包を懐にしまい直しハーマイオニーに、ロンは黙って頷くとふらつく足取りで、しかししっかりと走り出した。 鏡に悪態をつきながら鏡を調べ回るクィレルを気にしながら、縛り上げる縄で自由のきかない体でハリーは力無く横たわるマリーのもとへにじり寄った。 「マリーさん……!」 伏せられた瞼がゆっくりと開きぼんやりとした隻眼がハリーを捕らえた。 ハリーと、小さく呟いて薄く開けた口が血のせいで真っ赤になった舌がちらついた。 「血が…っ!大丈夫ですか?!」 「あぁ……それよりも、ハリーは?」 「僕は大丈夫です」 ハリーの答えにマリーは安堵の息を漏らすと、また瞼が閉ざされ碧眼が隠されてしまう。 「……ハリー、ポケットの中だ」 「え?」 マリーは辛そうにそれだけ呟くと、苦しげに息を漏らして黙り込んでしまった。 「この鏡はどういう仕掛けなんだ?どういう使い方をするんだろう? あぁ、我が君……助けて下さい!」 クィレルがヒステリックに叫ぶと、別の声が答えた。その声のおぞましさにハリーはぞわりと鳥肌が立つのを感じた。 《その子を使うんだ……その子を使え………》 震えた体を抱くようにマリーの手が力無く、ハリーの肩を抱いた。 しかし、クィレルが手を一回パンと打つと、ハリーはその手から引き離され。魔法の力で強引に立たされると、体を雁字搦めに縛っていた縄があっという間に解かれた。 「ここへ来るんだ! 鏡を見て何が見えるかを言え」 その命令にのろのろとハリーは重い足取りでクィレルの元へ、鏡の前へと歩いて行く。その最中にハリーは必死に頭を回転させた。 (嘘をつかなくては……) ハリーはこの鏡が何なのかよく知っている。みぞの鏡──望んだものを見せる、魔法の鏡だ。 (鏡に何が見えても、嘘を言えばいい) 鏡の前に立ったハリーが逃げないようにか、それとも同じものを見ようとしているのかクィレルがハリーのすぐ後ろに回った。 ハリーはぎゅっと目をつぶる。その時、視界を絶って僅かに敏感になった嗅覚が変な匂いを察知した。それはクィレルのターバンから出ているらしい。 ぐるぐると考えている頭に、滑り込んでくるように先ほどのマリーの言葉が蘇った。 (マリーさんが言った、ポケットの中ってどういう意味なんだろう…?) 答えがまとまる暇もなく急かすようにクィレルに背中を押されて、ハリーは恐る恐るゆっくりと瞼を開けた。 僅かに曇った鏡面に、青白い顔をした怯えた自分の姿が目に入った。 後ろに立っているはずのクィレルの姿はそこにはない。瞬きをして目を凝らしていると、鏡の奥のモヤのような中からマリーが姿を表した。 マリーはハリーの後ろに立つとハリーの肩に触れ、2つの碧眼を柔らかく細めて笑った。 (マリーさん?) 過去の写真の中で見た彼女のように、穏やか笑みを浮かべたマリーは懐に手を入れると、血の様に赤い石を取り出した。 マリーはその石を鏡の中のハリーに渡すと、鏡の中の彼はハリーにウインクするとそれをポケットにしまう。 すると、途端にハリーは自分のポケットの中に重いものが落ちてくるのを感じた。そう、ハリーはこの瞬間、《賢者の石》を手に入れたのだ。 (ポケットの中!) ハリーは先ほどのマリーの言葉を思い出し、呆然と鏡の中のマリーを見つめた。 彼女は静かに口元に人差し指を当てる。答えを急かすクィレルに、ハリーは嘘を言った。 「僕がダンブルドアと握手をしているのが見える」 きつく握った拳の中は、嫌な汗でじっとりと濡れていた。時間稼ぎをしなくては、とハリーは日頃の願いを震える声で並べ立てる。 「僕、僕のおかげで、グリフィンドールが寮杯を獲得したんだ」 「そこをどけっ」 クィレルが苛立たしげにハリーを突き飛ばし、鏡の前に立った。 よろめいたハリーは賢者の石がポケットの布越しに脚に触れているのを感じて、こちらに背を向けているクィレルを見ながら後ずさりをした。 逃げる事も考えたが、意識をまた失ったらしいマリーを置いていくわけにはいかない。とにかく彼女との距離を詰めようと脚を動かした。 しかし、ほんの五歩も動かないうちに、クィレルではない声が高く響いた。 《こいつは嘘をついている……嘘をついているぞ……》 「っポッター、ここに戻れ!本当の事を言うんだ。今、何が見えた!?」 クィレルが鏡から振り返り怒鳴り散らしたが、ハリーは背後にいるマリーを庇うように立ち尽くしたまま動こうとしなかった。 《わしが話す……直に話す……》 再びしわがれた不気味な声が響き、それにクィレルは顔を引き攣らせた。 「我が君、貴方様はまだ十分に力がついていません!」 《このためなら……使う力がある》 まるで一人舞台のようなクィレルの異様な状況を、ハリーは不気味に思いながらじりじりと後退していき、ついにマリーが倒れる側まで下がった。その事にほっと息を吐いてマリーから視線をクィレルに戻したハリーは、その場に釘づけにになった。 それの、あまりの悍ましさにハリーは視線をそらすことも指一本を動かすことさえできなかった。 解いたターバンからあらわになったクィレルの後頭部に、寄生するこの世の物とは思えないほどに恐ろしい顔が張り付いていた。 《ハリー・ポッター……》 醜悪な声がハリーに囁きかける。 《この有様を見ろ》 クィレルの後頭部の皮膚の、裂傷のような唇が震えるように動き、ハリーは顔を強張らせ唇を震わせた。 《ただの影と霞みに過ぎない……誰かの体を借りて初めて形になることが出来る》 宿主である、悪魔が取り付いたというような有様のクィレルは、“主”の言葉に静かに耳を傾けている。 《この数週間はユニコーンの血がわしを強くしてくれた……。》 ハリーは夜の森で見た、美しいユニコーンの滑らかな首筋から生き血を啜るあの恐ろしい光景を思い出す。 あんな事を、あんな人とは思えないことをして、こんな“生”を望んでいるのかと、ハリーは理解出来ない現状にただ震えるしかない。 《しかし、命の水さえあれば、わしは自身の体を想像することが出来るのだ……。 さて、ポケットにある石をいただこうか》 ヴォルデモートの言葉に、ハリーは唇を噛んでポケットの上から石を握りしめた。 《馬鹿な真似はよせよ、命を粗末にするな。……わしの側につけ。 さもないとお前もお前の両親と同じ目に会うぞ……二人とも命乞いをしながら死んで》 「嘘を吐くなっ!」 突然吠えたマリーの怒声に、ハリーは足元を見た。 ハリーの脚を掴んでなんとか上体を起こしたマリーはヴォルデモートを射殺すほどに睨みあげる。 「マリーさん!」 ハリーは膝をつき今にも倒れそうな、マリーの背中を支えた。 「お前は二人を護ろうと抵抗するジェイムズを殺し、リリーの命をも奪った……! お前なんぞに乞うことなく、勇敢に戦った!!」 ビリビリと肌を痺れさせる様な怒りに満ちたマリーの言葉に、ヴォルデモートは目をゆるりと細めて笑った。 《あぁ、そうだったな、ガブリエル・マリー・カウンシル……小僧の両親は勇敢だった》 ハリーは緊張からごくりと喉を鳴らした。 《そうさ──ハリー、二人ともお前を守ろうとして死んだ。 そして、お前ら家族を助けにのこのこやって来たマリーも犠牲になったのだ》 突きつけられた過去の出来事に、ハリーは息を飲んだ。 ヴォルデモートはマリーの鋭い視線に満足そうに笑いながら続ける。 《もうこれ以上の犠牲を望まないのであれば……さぁ、石を寄越せ》 「渡すなハリー!石を持って走れ!」 「で、でも!マリーさんは…?!」 ハリーの悲鳴のような声に答える事なく、マリーはハリーを突き飛ばし立ち上がった。 「行けっ!」 「──…っ!」 マリーの一喝に体をびくりと震わせた後、ハリーは足を縺れさせながら走りだした。 《捕まえろ!》 『“動くな”、クィレル!』 ヴォルデモートに命じられ飛び出したクィレルは、放たれた《言霊》に縛られた。 ぎちりと体を縛るそれに顔を歪めたものの、声を発したマリーが万全ではない状態だったせいで掛かりが甘かったのか、クィレルは強引に体を拘束する魔法を引きちぎると、マリーの首に掴みかかった。 「っ……!」 「先ずはお前からだ、マリー!」 「マリーさん!?──っぐぁっ」 扉の前で立ち止まり振り返ったハリーは、稲妻型の傷跡を貫いた針で指すような鋭い痛みにうずくまった。 頭が二つに割れるかと思うくらいの痛みに、ハリーは呻いた。 その痛みはクィレルに触れられているマリーの痛みを共有しているらしく、マリーもまたか細い悲鳴をあげている。 ハリーは歯を食いしばり立ち上がると、マリーに馬乗りになって首を締め上げているクィレルにタックルをかました。 ハリーは雄叫びをあげてクィレルを突き飛ばすと、予想外にクィレルは簡単に吹き飛んだ。 ハリーは痛みが和らいだ頭を抱えながら、咳込むマリーの肩を揺すった。 「マリーさん…!マリーさん!!」 「っ──何故戻っ、て来たんだ……」 荒い息を調えようと深い呼吸をしながら言ったマリーに、ハリーは「だって」と声を荒げた。 「僕、マリーさんがいなくなったらやだ!」 「……君が生きてれば私はそれでいい。 君の幸せが二人との約束であり、私達の願いだ……」 「僕は生きてもマリーさんが死んだらたくさん泣くよ!幸せなんかにならない!それでいいの?」 ハリーの言葉に、マリーは少し目を見開いた後喉を震わせて笑った。 「そう言われたら、敵わないな……」 伸ばされたマリーの手がハリーの手を握った。ハリーはそれに答えるように力強く握り返した。 「腕が……腕……」 体を丸めて自分の腕を抱えて痛みに体を震わせるクィレルのつぶやきに、ハリー達は視線を彼に戻した。 《捕まえろ!捕まえろ!!》 ヴォルデモートの甲高い叫びがまた響く。 なんと痛みを訴える体をゆっくりと起こしたクィレルに、マリーは目を細めるとハリーの耳元に囁いた。 「ハリー……辛いが……奴にしがみつけ」 耳に入った言葉が一瞬理解できず「え?」と小さな言葉を漏らして、ハリーはその横顔を見上げた。 「奴はお前には触れない、触れば肌が焼ける──」 そう言われて見たクィレルが押さえる腕は、さきほどハリーが突き飛ばす時に触れた場所だ。白い煙がか細くあがり燻っているように見えた。 ハリーは深く頷いて答えると走り出して、立ち上がりかけたクィレルに掴みかかった。 その瞬間、クィレルは恐ろしいほどの悲鳴をあげ、また酷い痛みがハリーの額を貫いた。 ハリーは背後で自分と同じように痛みに苦しむマリーの気配を感じながら、離すまいとクィレルに力の限りしがみついた。 《愚か者め、始末してしまえ!殺せ!》 クィレルの悲鳴とヴォルデモートの叫び声、さらに増した額の痛みに、ぐるぐると回りだした意識の中でもう一つの声が自分の名前を呼んでいた。 《殺せ!殺せ!》 「ハリー!!」 ハリーは掴んでいたクィレルの腕がボロリともげ取れて、手のひらの中で砕ける。 指の間を崩れたそれが砂のように滑り落ちていくのを感じながら、ハリーの意識は闇の中へと落ちていく。 意識が途切れる前に確かに優しい声を聞いた。 「よく、がんばったね……」 それは確かにマリーの声で、ハリーは全て終わったのだと安心して眠りに落ちた。 さらさらと灰となって消えた者達を見送り、マリーはぐったりと倒れたハリーの頭を優しい手つきで撫ぜた。