ハグリッドがいない外も、ダンブルドアがいなくなった城の中も。 何もかもめちゃくちゃにおかしくなっていると、ハリーは感じていた。 ダンブルドアがいなくなったことで、ホグワーツには恐怖感がこれまで以上に広がっている。 誰も彼もが、心配そうな緊張した顔をし。 静かすぎる廊下に笑い声が不自然に甲高く響き渡るので、たちまち押し殺されてしまうのだ。 自分勝手に歩き回ることも許されず、ハリーとロンは面会謝絶になってしまったハーマイオニーに会うことは出来なくなってしまっていた。 他のグリフィンドール生と一緒に行動し、先生に引率されて、教室から教室へと移動するのは、いいかげんうんざりしてきた。 たった一人。 その恐怖と猜疑心を思いっきり楽しんでいる者がいた──ドラコ・マルフォイである。 ハリーには一体なにがそんなに楽しいのかわからなかったが、ダンブルドアとハグリッドがいなくなってから二週間ほどたったある日、ハリーは理解した。 「父上こそがダンブルドアを追い出す人だろうと、僕はずっとそう思っていた」 スネイプに引率され温室に向かう為に廊下を歩いている時、マルフォイは声も潜めようともせずに話していた。 「お前達に言って聞かせたろう。 父上は、ダンブルドアがこの学校始まって以来の最悪の校長だと思ってるって。 たぶん今度はもっと適切な校長が来るだろう、秘密の部屋を閉じたりすることを望まない誰かが」 マルフォイはそうクラッブとゴイルに満足げに話しながら、向こうから歩いてくる人物をちらりと見てせせら笑った。 「今の校長は長くは続かない。 単なる穴埋めだから……」 ハリーはマルフォイの視線の先が、生徒を引率するマクゴナガルであることに気付いて顔を顰めた。 しかも、引率しているのは一年生のクラスだ。 静かな廊下にマルフォイの声は響いているであろう、丸聞こえであるのかマクゴナガルの表情は険しい。 ハリーはその後ろに無表情のマリーがいることに気付いた。 「スネイプ先生」 マルフォイは気にする事なく前を歩くスネイプを呼んだ。 「先生が校長職に志願なさってはいかがですか?」 「マルフォイ、ダンブルドア先生は、理事達に停職させられただけだ。 我輩は、間もなく復職なさると思う」 そう言いながら振り返ったスネイプが微かに笑っているのに、ロンとハリーは顔を顰めた。 「さぁ、どうでしょうね」 マルフォイはにんまりと笑った。 「先生が立候補なさるなら、父が支持投票すると思います。 僕が、父にスネイプ先生がこの学校で最高の先生だと言いますから……」 斜め前を歩いていたシェーマス・フィネガンが、ゲーゲー吐く真似をしていたのに薄笑いを浮かべているスネイプは気付いていないだろう。 「“穢れた血”の連中が、まだ荷物をまとめていないのにはまったく驚くねぇ」 マルフォイはまだ喋り続けている。 スネイプとマクゴナガルがすれ違った。 マクゴナガルは凄い表情だが何も言わなかった。 ハリーは微かに感じた悪寒に腕を摩った。 「次のは死ぬ。 金貨で5ガリオン賭けてもいい。 グレンジャーじゃなかったのは残念だ……」 マクゴナガルが足を止めた、流石に今のマルフォイの言葉には我慢ならなかったらしい。 ハリーはマクゴナガルが怒鳴る為に息を吸い込んだのがわかった。 だが、廊下に響いたのはマクゴナガルの噴火のような怒声ではなく、地を這うような冷たい声だった。 「ドラコ・マルフォイ。次にそのようなふざけた言葉を吐いてみろ。 貴様の口から二度とそんな言葉が零れないように、この手で縫い付けてやろうか」 驚いたようにその声の方向を振り返ると、マリーが凍りつくような冷たい目でマルフォイを睨み付けていた。 「嗚呼、それとも、少しはこの陰気な城の空気を和ませるために、貴様の声を鳥の囀りに変えて差し上げようか」 ふと微かな微笑みを乗せたマリーの言葉に、マルフォイの動きが止まったのがわかった。 驚愕と微かな恐怖を張り付け振り返ったマルフォイを、マリーは嘲笑う。 「その低脳で今の言葉が理解したなら──否、しろという話だが。 私の前でアルバス・ダンブルドアと友人、ミス・グレンジャーを侮辱しないことだ────次はない」 「は、はい」 マルフォイの掠れた返事に、マリーはふんと鼻を鳴らした。 「足を止めてすいません、マクゴナガル先生」 「いいえ、構いません、ミス・カウンシル。 さぁ、皆さん行きましょう、次の授業に遅れてしまいます」 マリーの啖呵に幾分すっきりした顔で、マクゴナガルは歩き出した。 その後ろを青い顔をした一年生が慌てて追い掛け歩き出す。 マルフォイを始め未だ硬直のとけないハリー達の列を残しながら、ハリーは後ろの方でマクゴナガルが、「そうです」とたった今思い立ったようなわざとらしい声をあげた。 こちらに聞こえるようになのか、マクゴナガルの声はいつもより大きい。 「ミス・カウンシル、貴女の叔母のマリーに、貴女の婚約者が校長職を志願なさりたいようだと伝えてあげたらどうです?」 「そうですね──叔母も“お喜び”の言葉を、スネイプ教授にかけて下さるでしょう」 早速フクロウ便でも飛ばしましょうと、せせら笑うマリーに確かにびくりと震えた先頭の“婚約者”殿に、ハリーとロンはザマァミロと小さく手を合わせた。 だが、ダンブルドアがいなくなってから不機嫌気味なマリーと、マクゴナガルに喧嘩を売ったマルフォイとスネイプの勇気は尊敬するよ、と笑みを押さえきれないロンが言ったが。 容赦なく叩きのめされた二人には少し同情するよと、ハリーと笑いながら返した。 マリーの恐怖に怯えている生徒の中で、彼女の協力者であり事情を知る二人は、若干一名に対しては今の一連の会話がどれほどの攻撃力があるのかを知っているのだ。 (とりあえず、ハーマイオニーが起きたら教えてやろうぜ) ロンが笑ってそう言った。 その夜。 ダンブルドアのいない校長室に、マリーとマクゴナガルはいた。 向かい合って座る二人の間に会話はない。 広く美しい円形の部屋に、小さな奇妙な物音が相変わらず満ち溢れていた。 研究そのままなのか、テーブルの上の銀の実験器具がくるくる回りながら、小さな煙りを定期的に吐き出している。 壁の歴代校長は、ダンブルドアが停職になったのが不満なのか、今夜もまた議論を繰り広げていた。 金色の止まり木の上のフォークスは、主の不在に悲しげな目をしている。 マリーはすっと、フォークスに手を伸ばした。 フォークスはその手に跳びうつると、マリーの肩にのり觜を頬に擦り寄らせた。 「しかし……それは本当なのですか、マリー?」 「推測の域は出ませんが、可能性はあります。 あの夜……ダンブルドア先生にこのお話をするつもりでしたが、タイミングが悪かった」 あの夜──ダンブルドアが停職され、ホグワーツを離れる前に、マリーはこの話をダンブルドアにするつもりだったが。 ダンブルドアとルシウスを説得するように回りをうろつくファッジのせいで、ついに言えずじまいになってしまった。 「ダンブルドア先生の意見が聞きたい。 しばらく、学校を出る許可を下さい」 「そんな! 貴女までホグワーツから離れると言うのですか?」 おそらくダンブルドアがいなくなり、副校長であるマクゴナガルが臨時であってもその任につくにはプレッシャーが大きいのだ、マクゴナガルの声は何時にもなく弱々しいものだった。 「大丈夫──私は、すぐに戻ります」 震える細いマクゴナガルの手を包み込んで、マリーは微笑んだ。 「早く秘密の部屋を、閉めるためにも」 マリーのまっすぐな目に、マクゴナガルは諦めたように溜め息を吐いた。 「──わかりました、気をつけてお行きなさい」 「はい、マクゴナガル先生」 立ち上がるとマリーは、フォークスを止まり木に下ろした。 フォークスは主の元へ向かうマリーに着いていきたそうにしていたが、マリーは駄目だよと囁いた。 「君は、ここで学校を見守っているんだ。 ダンブルドア先生が、君をここに残した理由を君はわかるだろう?」 フォークスは未だ未練そうに觜をカチカチと鳴らしたが、マリーから離れて、ここに残るという意志表示をして見せてくれた。 「スネイプ教授はこの事を知っているのですか?」 「──いえ」 マリーの言葉にマクゴナガルがさっと表情を強張らせた。 フォークスの見事な赤と金色の羽根を撫ぜながらマリーは目を細める。 「今は、会いたくないのです──……」 「昼間の事ですか? あれは……校長職は魅力的なポストです、そこに推されて嬉しくないはずはないでしょう?」 マクゴナガルの反応がわかっていたのか、それにマリーは小さく苦笑を浮かべただけだった。 「わかっております……スネイプ教授も、あれでダンブルドア先生に忠実な人間です」 「なら」 マリーは手の平で目元を覆ったのに、マクゴナガルは目を細めた。 「──勢いにまかせてしまった事は、私も後悔しています。 ただ、今はまだ……」 「マリー……」 マクゴナガルはそう小さく呟いて目を伏せた。 「マクゴナガル先生、私は──」 ドシンと校長への扉が開いた音が聞こえ、マリーは口を噤むとそちらのほうへと視線を向けた。 螺旋階段を昇っている足音を聞きながら、マリーが微かに身を引いた気配を感じ、マクゴナガルは振り返った。 「いってまいります。 申し訳ありませんが、先生からお伝え下さい」 「マリー…?!」 パチンと音とともに消えたマリーと、同時に校長室の樫の扉が開いた。 「失礼します」 マクゴナガルは校長に現れた人物を振り返って深い溜め息を吐いた。 黒いローブを薄暗い部屋の隅の闇に溶け込みながら、スネイプはマクゴナガルの前に用意されたもう一客のティーカップを見ながら「誰かいらっしゃったのですか」とたずねた。 「えぇ、マリーが先程まで」 「マリーが?」 マクゴナガルは魔法でそのカップを消してしまうと、物憂げに溜め息を吐きながらソフアのひじ掛けに寄り掛かった。 「マリーはしばらく、学校を離れます」 「──……」 驚きにいつもの顰っ面が崩れるのを横目で見ながらマクゴナガルは言った。 微かに苦痛に歪んだスネイプに、マクゴナガルははぁと溜め息を吐く。 「昼間の事で、貴方に愛想を尽かしたわけではありませんよ。 それほどの事で愛想を尽かすぐらいなら、マリーと貴方は婚約してはいません」 ぴしゃりとそう言えば、スネイプは微かに呻いて目を反らした。 「全く貴方達ときたら……くっついた後でも我々をヤキモキさせますね」 ぐぅの音もでないらしいスネイプに、マクゴナガルは呆れた表情をしながらも、小憎たらしい教え子と可愛い教え子が早く仲直りするように願っていた。 ・・・ 細い指が、たくさんの本が敷き詰められた本棚から、古い本を引き抜いた。 マリーはその少し埃っぽい表紙を撫ぜる。 丁寧に表紙を開き、擦り切れ始めたページをめくりながら暖炉の前の安楽椅子のほうに歩みよった。 「“その眼からの光線に捕われた者は即死する。 蜘蛛が逃げ出すのはバジリスクが来る前触れである”」 書物の一文を読み上げたマリーに、安楽椅子に座ったダンブルドアは愉快そうに目を細めていた。 マリーはパタンと本を閉じると、安楽椅子の傍のテーブルに積み上げられた本の山にそれをつみ重ねた。 「紅茶でもどうだね?」 「いただきます」 ダンブルドアに薦められ椅子に腰掛けると、用意されていたカップを渡された。 「ようやく、目的のものが見つかったようじゃの」 「えぇ……随分とかかりましたが、全てわかりました」 そう言ってマリーは部屋を埋めつくす本を見上げた。 目的の情報を全て探し切るまでにかかった時間は長く、学校を出た夜からもう3つ目の夜を越えた。 「前に、部屋を開け《毒蛇の王》を解き放ったのは──T・M・リドルですか?」 受け取ったカップに口を付けながら呟いた。 ダンブルドアは口髭を撫ぜながら、うむと低く唸った。 「そう思うが、残念な事にその時は証拠がなかった。 そして──ちょうどよい身代わりがおったからの」 「ハグリッドとアラゴグですね」 「そう言う事じゃ……」 マリーは前髪に隠れた右目に触れた。 幼い体にあの傷はないが、指は無意識にその場所をゆっくりと撫ぜる。 「マリー」 「はい」 あの心の中まで見通すような眼差しに見つめられ、無意識にマリーは目を細めた。 「セブルスに、話したようじゃな」 何を、とは言わないものの、マリーにはそれが何を指すのか理解していた。 「全て、ではないのだろうが」 「先生は全て、お見通しですか」 マリーはそう言って微かに笑った。 「君のルシウス・マルフォイへの反応の理由を、知らないようだったからのう」 「………」 背後に立っていたスネイプの表情はマリーにはわからない。 だがダンブルドアには見えていたのだ──そう、全て。 「言葉を選びました。 あれは、伝えるのは──難しい」 マリーは、そう言って俯いた。 その出来事は、目に焼きつき離れず──未だ悪夢となり、自分を苦しめる。 思い出してしまった記憶のイメージを消すためか、目を覆うようにマリーは手を翳した。 「そうじゃの……いつか言える時も来よう」 ダンブルドアは少し温くなった紅茶を飲みながらそう言った。 マリーも、それを指の間から見ると手を退け、残った紅茶を煽った。 「そろそろ、戻ります」 カップをソーサーに戻しながらそう言い、マリーは椅子から立ち上がった。 「そうか……まだ生徒達は授業で動きまわっておる。 気をつけて戻りなさい」 「はい」 マリーはダンブルドアに深々と頭を下げた。 「貴方のお帰りをみな心待ちにしております──もちろん、ハグリッドの事も。 尽力はつくします、今しばらくお待ち下さい」 「ありがとう──しかし無理はせんことじゃ、マリー」 マリーは顔をあげるとほぼ同時に、消えた。 ダンブルドアはマリーが立っていた場所から視線を外すと、本の山からひとつ抜きだしそれを広げた。