夜、息苦しいさに目を覚ますと、目の前に猫──クルックシャンクスの顔がドアップで、でかかったマリーは悲鳴を飲み込んだ。 がばっと起き上がると、クルックシャンクスは軽く床に着陸してこちらを見つめてくる。 「……用があるなら、もう少しまともな起こし方をしてくれよ」 溜息まじりに呟くと、クルックシャンクスは気にした様子もなく一声鳴いた。 ちらりとレイナを見る、彼女は眠りが深い方で中々目が覚めないのをマリーは知っている。 ゆっくりと規則正しく上下している胸を確認してから、マリーはまたクルックシャンクスを向き直った。 踵を返したクルックシャンクスがこちらを振り返る。 「着いて来いって、か……」 マリーはもう一つ息を吐いてから、ナイトローブを羽織りベットを降りた。 パタン、と静かに閉まったドアに反応するように、もぞりとレイナが寝返りをうった。 夜の学校を歩くのは嫌いじゃないなと、思いながらマリーは欠伸を噛み殺した。 手には小さなバスケットが揺れている。行きがけに、ツテを頼って用意してもらったものだ。 いったん止んだらしい雨に抜かるんだ地面をゆったりと歩くマリーを気にするように、クルックシャンクスが何度も立ち止まっては振り返ってくる。 「焦らなくても、見つかりはしないよ……そういうのを“かけた”からね」 言葉の意味を理解したのかクルックシャンクスの足取りはゆっくりになった。 聡い猫だな、と何度目かわからない感嘆を漏らしながら、マリーはちらりと校舎を見上げた。 強い風が禁じられた森から吹き、城の壁にぶつかり空気が揺らぐ。 廊下の窓からちらつく移動していく小さな光りに、今日の見回りは誰だったかと考えながら、ほんの少しだけ足を早めた。 「シリウス?」 叫びの屋敷の上階、寝室だったであろう部屋に足を踏み入れながらマリーは小さく呼び掛けた。 埃っぽいカーテンがかかった壮大な四本柱の天蓋ベットに、ぐったりと横たわる人物にクルックシャンクスが擦り寄る。 マリーはベットの脇に立ってその人物を見下ろした。 「また窶れたな、シリウス……ちゃんと食事はとれてるのか?」 そう言って差し出したバスケットには、夕食の残りを挟んだサンドイッチとまだ温かい紅茶が入った水筒が入ってある。 勢いよく跳ね起きたシリウスが、受け取ったバスケットから慌てた手つきで取り出したサンドイッチに噛り付いた。 #マリーは水筒からコップに紅茶をうつすと、あっという間に一切れを胃袋に収めたシリウスに差し出した。 「あぁ……すまないな、マリー」 恥ずかしげに一つ咳払いをしてコップを受け取ったシリウスに、マリーは小さく溜め息を吐いた。 「先に、餓死でもしそうだ」 「そう言うが、“吸魂鬼”がうろついていて中々──その、残飯漁りもままならなくて……」 微かに口ごもったシリウスに嗚呼と、マリーは額を覆った。 シリウスを追う“吸魂鬼”は、獣になると目の前にいても存在を彼として認識しなくなるらしい。 そのため彼の行動は基本的にアニメーガスの状態であり。 彼の最近の食事は村のゴミ箱を漁っていたのだろう、マリーは失念していたと唸った。 「そう何度も訪ねることは出来ないからな……日曜にでも、一週間分をまとめて持って来るようにするよ」 「そうしてくれるとありがたい……流石に人としてきつい」 しみじみとサンドイッチを見るシリウスに、マリーはだろうなと頷いた。 空になったカップに、紅茶を注いでやりながらマリーは今日呼ばれた理由を尋ねた。 理由は、彼が餓死寸前だった、という事ではないのである。ある意味、ふと思い付いた“おみあげ”が彼の命を救ったのだが。 「クルックシャンクスに、奴を捕まえてくれるよう頼んだんだが。 中々捕まらなくてな」 「それは仕方がないよ……奴の飼い主、と言うのもおかしいが……とにかく、食べられないように気を張っているからね」 シリウスは深い溜息を吐いた。 伏せられた瞼が、落ち窪んだ眼窩のせいで暗く影になり、まるで髑髏のように見える。 綺麗だと褒めそやされていた髪も、櫛をいれてないせいでもじゃもじゃと絡まりながら肘あたりまで伸びていた。 「マリー」 シリウスをぼんやり見つめていたマリーは名前を呼ばれ、彼と目を合わせた。 「マリー、地図だ。“忍びの地図”を使えば。 あれがどこにあるか、知らないか?」 懐かしい名前に##目を細める。 「確かに──あれがあれば確実だが……私もどこにあるのかわからない。 ジェームズが卒業前に、後輩に残すとどこかに隠したようだが、場所はわからない」 「嗚呼……そうか、私も聞いていないな」 顔を歪めたシリウスは感嘆を吐き出しながら、がりがりと頭を掻いた。 「いい考えだと思ったんだが………」 「悪いな……私は奴に存在が気付かれているのか、姿も見せないんだ」 「いや……マリーは下手に動かないほうがいいのかもしれん」 シリウスの言葉に、マリーは微かに首を傾けた。 「どういう………」 「奴は、ヴォルデモートと繋がっている……警戒が確信に変わったら……。 お前の存在が外に知れるのはまずいんじゃないか?」 マリーは小さく息を飲んで、微かに視線をさ迷わせた。 「マリー……」 シリウスの手がそっとマリーの肩に触れた。 「すまない、あの時、私が君にあんな……」 「いや……遅かれ早かれ起きていた事だ。 覚悟はあったんだよ……」 マリーは肩に載せられたシリウスの手をとって握った。 「とにかく、出来る限りの事はする」 「無理はするな……お前、あの“スニベルス”に、また変な勘繰りをされると面倒だぞ」 「シリウス……彼を“泣き味噌”と呼ぶのは、やめたらどうだい……」 「ダーリンと、呼んだ方がいいか?」 微かに自嘲気味な笑みを浮かべたシリウスに、マリーは困ったように目を細めた。 「……からかって悪かったな……。 何かあったら、クルックシャンクスに伝言を頼む」 「あぁ……」 「もう、戻るといい」 シリウスに促され、マリーはベットから離れた。 「睡眠時間、削らせて悪かった」 「最近……余り寝たくないんだ、構わないよ」 苦笑まじりの小さな本音に、顔を顰めてしまったシリウスに、マリーは小さく後ろ手を振ってから部屋を後にした。 「マリー……君は……」 背中にかけられた言葉は聞こえない事にした。 ・・・ スネイプは夜間の見回りの途中、ルーピンの部屋を訪ねた。例の煙をあげているコブレットを手にである。 ドアを叩けば、随分間があってからドアが薄く開いた。 その隙間から中に入ると、シーツを深く被ったルーピンが、ドアの隙間から入る光を避けるように立っていた。 体を包み込むまっさらなシーツは、その内側にある歪つな形を浮かび上がらせている。 「セブルス……すまないね……」 「昼よりは安定したようだな」 弱々しく伸ばされた手にゴブレットを押し付けながら、スネイプは口早に話した。 「まぁね……二鍋分も飲めば」 シーツから覗いた長い鼻先がゴブレットの匂いを嗅いで、小さく身震いしながらルーピンは呻いた。 「それもきちんと飲めよ」 「わかっているさ……しかし、ミス・タチバナは文句も言わずにこれを飲んでるのかい? 尊敬するよ……」 「君のように薬などに甘味など求めんからな、おとなしく飲んでいただいている」 「………マリー、もう少しましな味のを作ってくれないかなぁ」 「文句を言ってないで、さっさと飲んで寝ていろ」 付き合ってられんと言わんばかりにドアごとルーピンを部屋に押し込める。 小さな苦笑とともに「おやすみ」と囁き声が聞こえたが、スネイプは返す気など微塵もなく足早に見回りに戻った。 不機嫌に廊下を歩きながら、スネイプは先程のルーピンの言葉に小さな引っ掛かりを感じていた。 大の大人である──しかしかなりの甘党ではあるが──ルーピンも嫌がるほどの、表現しづらい味の薬を十代の子供が文句を言わず飲むのは確かに、あまりに素直過ぎると思った。 (薬を渡す君の顔が、あまりに怖いからじゃないの?) 愛すべき人物のそんな言葉が思い浮かんだが、スネイプはそれを一笑した。 (しかし……いくら補助としてついていても、マリーに薬の事まで任せられないからな……) レイナの“病気”の真実については、本人の希望により表立ってはマリーに教えられていない。 が、魔法薬を極めた魔女であり、友人に同じ“症例”を持つ者がいて、あの薬がなんの為のものかわからないはずもないのだ。 しかし、本人の意思もありマリーは知らないふりを未だ続けている。 だからこそ、マリーは薬関係では少し引いた位置にいるようにしているようだ。 擬装の病気の内容も、好奇心で子供達が踏み荒らさないようなものになっているからなおさらなのだが。 スネイプは常々、それが面倒だと考えていた。 はっきりいってルーピンやレイナを、スネイプは未だに危険視している。 特にルーピンに関しては──学生時代のあの事もある。 思わず険しくなった表情に溜息を吐きながら、凝り固まった眉間をほぐした。 ふと、泣き喚く声が遠くの曲がり角の方から響いているのに気付いて、スネイプは廊下の十字路で足を止めた。 (これは……) 場所と、聞き覚えのある声にスネイプは呆れたように溜め息を吐くと、その“住人”がいる部屋のドアを開けた。 「深夜に騒がしいぞ、マートル」 ぴたりと、泣くのをやめた銀色の半透明な姿がこちらを振り返った。 「あら、貴方、ここは女子トイレよ」 「……知っている」 「マリーはいないわよ」 「別に、探しているわけではない」 噛み合わない会話にスネイプは苛立だしげに、女子学生のゴーストを睨んだ。 学生時代ここに入り浸って仲良くこいつと話していた奴の頭の中が心配になってきて、痛む頭を押さえる。 「だいたい、私に泣いて欲しくないなら、アレ!どうにかしてよ!」 「………」 ヒステリックに叫ばれて透明な指が指す場所を見ると、何かが詰まったのか水が溢れている個室のトイレである。 去年の事を思えば忌ま忌ましい場所だなと考えながら、スネイプは「フィルチに伝えておく」と言い残してさっさと踵を返した。 女子トイレに長居と言うのも、正直居心地が悪い。 「何よ!貴方があんな薬を作るから、棄ててくんでしょうが!」 「──何?」 「だから、貴方のせいだって言ってんのよぉ!」 マートルの言葉が本当であれば、自分の薬煎じているのは先程の男を除外すれば。 ダンブルドアの虫歯の薬と、マリーの薬、それから──。 「来たばっかりで私の事知らないからってさ、変なあだ名みたいので呼ぶのよ!信じられる?! “トイレのハナコ”って何よ!!」 「此処に、薬を棄てた奴は誰だ──?」 いつも以上に低い声で感情を押し殺すようなスネイプに、マートルはきょとんとしたあとまた不機嫌そうな顔をした。 「貴方のハニーがガードマンしてる、日本人の女の子よ」 その言葉を聞くと黒いローブを翻してスネイプは走り出した。 呆気と見ていたマートルはその背中を追うような叫んだ。 「ちゃんと、フィルチに言ってよ?!! じゃないと廊下をまた水浸しにしてやるんだからぁぁー!!」 「おやおや………」 戻ってそうそう、ひどい有様の自室にマリーは困ったように腕組みをして、散らかした本人を見遣った。 「随分、荒れているねぇ──レイナ」 名前を呼ばれて、ようやくマリーの存在に気付いたのか、振り返ったその姿は昼までの可愛いらしい面影はなく、伸びた体は、天井の低いこの部屋では頭が擦りそうだ。 振り上げた鋭い鈎爪が生えた手をヒョイっと避けると、マリーのベットのカーテンがさらにボロボロになっていた。 「おかしいな……薬を飲んでいなかったんだね、レイナ?」 話しかけた言葉を理解していない─否、理解出来ない状況なのか。 レイナは恐ろしい唸り声をあげながら、腕を振り回してマリーに襲い掛かる。 マリーは諦めたように一つ息を吐くと、短くひゅうっと息を吸った。 『体が重くて大変だろう』 レイナの体が急にガクリと崩れ、膝をついて呻いた。 マリーはゆっくりと歩み寄った。 ぐるぐると唸りながら獣の目がマリーを睨む。 「悪いな……薬が来るまで眠っていてくれ」 彼女を寝かせてからスネイプを呼ぼう、そう思いながらマリーは彼女に手を伸ばした。 抵抗するように震える鈎爪が持ち上げるように、おそらく振り下ろす事は出来ないのだろう──マリーにはわかっていたが、タイミングが悪かった。 「っ、マリー!!」 部屋のドアが開く音に反応して振り返れば、スネイプが杖を構えたところだった。 「セブっ、やめ──!!」 止める声を彼には届かず、キャンと甲高い悲鳴を上げて彼女は壁に激突した。 「セブルス!!やめてくれ、彼女は《言霊》にかかってる! もう抵抗出来ないんだ!」 杖を向けたまま冷たい表情で彼女に足早に近寄るスネイプに、マリーはしがみついて止めた。 振り返った双眸が暗い光を宿して、マリーを見下ろす。 「また、庇うのか? こいつは自分の存在よく理解せずに、薬を飲まずに棄てていたのだぞ」 「彼女は幼い!短慮なのは仕方がないんだよ、セブルス!」 マリーの言葉にスネイプは遂にキレた。 「いい加減にしろ!!」 スネイプは一喝するように怒鳴ると、マリーの小さな手を振り払った。 あの時のように、彼女に向けられた鈎爪を見てささくれ立った精神は、もう限界だった。 「これは、貴様の“崇高”な自己犠牲だけではすまないんだぞ?!」 「──……」 微かに見開いた目でスネイプを見上げるマリーを冷たく見下ろしながら、スネイプは猫撫で声で話し始めた。 「ミス・カウンシル──君の大事なご学友のように、学校外での事とは違い。 彼女が寮の部屋から出てしまえば、大変な事になっていのですぞ。 君の可愛がっている生徒が、彼女の同類になってもいいのかね?───そんな事もわからないのか」 突き放すように話しながら、スネイプは耳の奥でそれ以上は言ってはいけないと警鐘が鳴り響くのに気付いてはいたが、枷が外れ溢れ反った言葉は止まらない。 微かに揺らいだ碧眼が写す感情を、今の精神状況では読む事が出来ず。 ただ、激情をどうにか止めようと奥歯を噛み締めが歯止めがきかない。 「セブルス、でも彼女は……」 「そうだな、貴様がサポートをしているから大丈夫だと? 常々自分で言っているではないか、自分は万能ではないと───お友達ごっこに夢中になりすぎではないのか?」 マリーの薄い唇が微かに震えた。 「……わかってる……」 空気が漏れるような呟きに、スネイプはハッと口を噤んだ。 暗い部屋で俯いてしまったマリーの表情を読み取る事は出来なかった。 言いかけて開いた口は、何を言うべきかわからずスネイプは微かにもごつかせ、そして諦めて閉ざした。 伸ばした手も触れる事が躊躇われてさ迷わせているうちに、ふらりと動いてしまったマリーに触れることなく下ろさずに終えなくなってしまった。 痛みにうずくまる彼女の側に立つと、マリーはゆったりと彼女の毛むくじゃらな背中を撫ぜた。 くぅん、と鳴らした鼻に、横顔が優しく微笑んでいるように見えた──ひどく悲しげにも見えたが。 「スネイプ教授」 「──……」 変えられた呼び名に、思わず手が震えた。 「私は彼女の不調に気付き、貴方を呼びに行った。 彼女の正体は見ていない、だからこそ私は今此処にいてはいけない──そう言う事にしましょう」 「……また、そうやって秘密にするのか」 淡々と話される内容に、これでは前と同じだと言わんばかりに睨めば、ようやくこちらに向けられた碧眼にまた口を噤む。 「秘密ばかりの私が、秘密をばらすのは、なんだか矛盾でしょう?」 伏せられた瞼のせいで、彼女が何を思ってそんな事を言ったのかわからなかった。