「やめて!」 ハリーは叫んだ。 持つれる足で駆け出して、杖を構えているマリーに抱き着くように縋り付いた。 ハリー、と小さく呟いてマリーの驚きに見開かれた碧眼が揺れた。 「殺してはだめだ」 ハリーは喘ぎながら言った。 「マリーさん、殺しちゃいけない」 ブラックとルーピンも、ショックを受けたようにハリーを見た。 「ハリー、この愚図のせいで、君はご両親を亡くしたんだぞ」 押し殺し切れなかった怒りと殺意を抱えたまま、ブラックが低く唸るように言った。 「わかってる」 緊張でカラカラに乾いた口でハリーはなんとかそう答えた。 マリーは未だペティグリューに杖を向けたまま、しがみつくハリーの肩越しに歓喜に震えるペティグリューを見下ろしていた。 「マリーさん……こいつを城まで連れて行こう。 僕達の手で“吸魂鬼”に引き渡すんだ。 こいつはアズカバンにいけばいい──殺すことだけはやめて」 「ハリー!」 ペティグリューが息を飲んだ。 そして、手を組んで救世主のようハリーを見上げた。 「君は……ありがとう、こんな私に──ありがとう」 「黙れ」 ハリーはマリーを抱きしめたまま、ペティグリューを睨見下ろし、吐き捨てるように言った。 「お前のために止めたんじゃない。 僕の父さんは、親友がおまえみたいなもののために、殺人者になるのを望まないと思っただけだ。 ──それに、大切な人の目の前でマリーさんが、わざわざ手を汚す必要はない」 ハリーは未だ《言霊》にかかり動けないスネイプをちらりと見ながら言った。 身動ぎもせずに立ち尽くしているマリーを、スネイプがただじっと見つめている様子に、彼の動揺を見た──通常なら今頃、マリーを抱きしめている自分はきつく睨まれていただろうと、ハリーは場違いな事を考えていた。 ブラックとルーピンは互いに顔を見合わせると、ハリーに抱きしめられまま顔を歪ませるマリーを見つめて、それから二人同時に杖を下げた。 マリーも、杖を下ろした気配に、ハリーは彼女から腕を離した。 「この男を生かす事が、本当に──お前の答えか、ハリー」 ペティグリューを睨んだまま呟いたマリーの問いに、ハリーは繰り返し言った。 「こいつは、アズカバンにいけばいいんだ。 あそこが相応しい者がいるとしたらこいつしかいない……」 マリーは、ハリーを見上げ悲しげ笑うと、その肩を叩いてハリーの脇を過ぎた。 「君がそう言うなら仕方がない──シリウス、奴を縛り上げといてくれ」 シリウスは頷くと、ペティグリューに向かって杖を振った。 先から細い紐が噴き出ると、それは蛇のようにペティグリューに飛びかかり、体をぐるぐる巻きに縛り上げた。 おまけに、さるぐつわを噛まされペティグリューは床の上で芋虫のようにもがいていた。 シリウスはその目の前にしゃがみ込み、ペティグリューに杖を突き付け、ブラックは唸るように言った。 「しかし、ピーター、もし変身したら──やはり殺す。 いいな、ハリー?」 ハリーは床に転がった哀れな姿を見下ろして、ペティグリューに見えるように頷いた。 「よし」 ルーピンが急にテキパキとさばき始めた。 「ロン、悪いが私はマダム・ポンフリーほど、うまく治す事が出来ない。 幸い、マリーのおかげで痛みがないようだから、医務室に行くまでは包帯で固定して置くのが1番いいだろう」 ルーピンはサッとロンの側に行き、屈んでロンの足を杖で軽く叩き「フエルーラ、巻け」と唱えた。 適当な木材で──少し前にシリウスが暴れたおかげでそこかしこに木片が落ちていた──添え木をしていたロンの足に、包帯がくるくると巻き付いた。 ルーピンが手を貸してロンを立たせて、恐る恐る体重をかけたが、マリーの《言霊》もあってか、小さな痛みに顔を顰めただけで澄んだ。 「大丈夫です、ありがとう」 ロンが言うと、ルーピンは笑顔で頷いてみせた。 マリーが何事か小さく呟いた後、スネイプを拘束していた影がするすると定位置に戻った。 開放されたスネイプにブラックは微かに身構えたが、そちらに目もくれずスネイプはじっとマリーを見下ろしていた。 「下手な動きはやめてくれ、セブルス。 殺せなかった代わりに、私は奴をアズカバンに確実にぶち込みたい」 「──……あぁ、わかってる」 すっと伸ばされた手が、マリーの頬に触れた。 虚空を睨んでいた碧眼がようやく、スネイプを映した。 「激情を押し殺してまで、お前はポッターの提案をのんだんだ。 私も過去の事は、今だけ──この場だけは、我慢してやろう」 「はっ、有り難いね」 ブラックを睨みながら言ったスネイプに、ブラックは鼻を鳴らし吐き捨てるように言いながらペティグリューを足で小突いた。 「誰か二人、万が一のために繋がっておかないと」 「私が、繋がろう」 「僕も」と、ルーピンに続いてロンが名乗りを上げた。 スキャバーズの正体がペティグリューだった事を、ロンはまるで自分への屈辱と受け取ったように見えた。 ブラックは空中からひょいと重い手錠を取り出すとペティグリューを立たせ、その左腕はルーピンの右腕に、そして右腕はロンの左腕腕に繋いだ。 「行こうか」 マリーのいつも通りに戻ったぼんやりとした声に、クルックシャンクスがひらりとベッドから飛び降り、先頭に立って部屋を出た。 瓶洗いブラシのような尻尾が誇らしげに上がっているのを見て、マリーは微かに笑った──その笑みに先程までの歪つさはなかった。 クルックシャンクスを先頭に、奇妙な組み合わせの人々が進んでいた。 ルーピン、ペティグリュー、ロンがムカデ競争のように繋がって歩く。 その後を杖を構えたブラック、そしてハリーとハーマイオニーが付き、しんがりはマリーとスネイプがつとめた。 繋がれた三人の歩き辛そうな様子をぼんやりと見つめるマリーを見下ろし、前に視線を戻してから隣を歩くスネイプは出し抜けに呟いた。 「お前は、いつもそうだ」 「……どの事を言ってるのか、思い当たる節が多いくらいにはね」 マリーがスネイプを見上げた。 「でも、もう大丈夫だ。もう君は、それに気をとられる事はなくなる」 「何──?」 スネイプの鋭い視線を緩い笑みで受け止めたマリーは、前に視線を戻した。 「これで、私の未練はまた一つ消える───なぁ、これが終われば自由の身になれるわけだからな、シリウス」 「そう、だな……」 前を歩くシリウスが頷いた。 「なら、言ってやればいい──ハリーはもうだいぶ知ってるけど」 「い、いや、しかし」 慌てたように振り返ったシリウスは、マリーとハリーを見比べた。 「言うべきだ、シリウス。それがハリーの為だ」 「──……」 「どういう事?」 口を噤んだシリウスをハリーは見上げた。 「私が……君の名付親だというのは、マリーや誰かに聞いているかも知れない」 「ええ、知っています」 「つまり……君の両親が、私の後見人に決めたのだ」 話しながらシリウスの声は緊張が色濃く滲みだしていた。 「もし、自分達の身に何かあればと……」 ハリーは次の言葉を待った──続くシリウスの言葉が、もし自分の考えている言葉と同じだったら? 「もちろん、君がおじさんやおばさんとこのまま一緒に暮らしたいというなら、その気持ちはよくわかるつもりだ。 しかし……まぁ……考えてくれないか」 振り絞るようにシリウスは言葉を続けた。 「私の汚名が晴れたら……もし君が……別の家族が欲しいと思うなら……」 「えっ?──貴方と暮らすの?」 ハリーは何か爆発したように、急に裏返った声で叫ぶようにシリウスに向き直った。 その時、しこたま頭を突き出ている岩にぶつけたが、今は痛みを感じていないらしい。 「ダーズリー一家と別れるの?」 「むろん!君はそんなことは望まないだろうと思ったが」 シリウスが慌てて付け加えるように言った。 「よくわかるよ──ただ、もしかしたら私と……と思ってね……」 「とんでもない!」 ハリーの声は、シリウスに負けず劣らず掠れていた。 「もちろん、ダーズリーの家なんか出たいです! 住む家はありますか?僕、いつ引っ越せますか?」 ハリーの言葉に、シリウスは酷く驚いた顔で彼を見下ろしていた。 シリウスの──久しぶりに見る本当の笑顔を見ながら、マリーは穏やかに笑っていた。 その横顔を見ながら、スネイプは拭い切れない違和感を抱えていた。 彼女の未練が──この世への未練が無くなってしまえば、一体どうなってしまうのか。 恐ろしいほど簡単に、予想出来た。 (私は──お前の未練になるのか? そうならば、決して消えたりはしない) 伸ばした手がしっかりと、マリーの小さな手を握った。 少し驚いたようにこちらを見上げたマリーの目が、一瞬泣きそうな色を映した気がした。 そのあとは、トンネルの出口に着くまで、誰も口を開かなかった。 出口が見えると、クルックシャンクスが最初に飛び出した。木のコブを押してくているらしい。 ルーピン、ペティグリュー、ロンの三人が、獰猛な枝に襲われず穴の外へ這い出た。 校庭は既に真っ暗だった。 明かりと言えば、遠くに見える城の窓から漏れる灯だけだ。 マリーは空を見上げ──ぞっとした。 雲の切れ間から覗く夜空に満月の端が見えていた。 「空を見るな、リーマス!! 今夜は満月だ」 ペティグリューの胸に杖を突き付けていたルーピンは、マリーの大きな声に驚いたように振り返った。 満月がその姿を、雲が切れた空から月明かりを覗かせる。 「どうしましょう──あの薬を今夜飲んでいないわ!危険よ!」 ハーマイオニーが震える声で叫んだ。 「逃げろ」 シリウスが低い声で唸った。 「逃げろ!早く!」 そう言うものの、ロンはペティグリューとルーピンに繋がれたままだ。 ハリーはマリーとほぼ同時に駆け出したが、シリウスが両腕を前に回してグイっと引き戻した。 「ルーピンはマリーに任せて逃げるんだ! スネイプ、ハリー達を頼む!!」 「貴様に言われなくても!」 その時──恐ろしい唸り声がした。 ルーピンは鼻先が伸び、手足が異様に伸び、真っ直ぐ背中が曲がり盛り上がった。 顔といわず手といわず、見る見る毛が生え出した。 『我の声よ、旋律を持って鎖となり──』 狼人間の前に立つマリーが、うたうように言葉を綴ると、彼女の回りにとぐろを巻くように太い鎖が渦巻く。 シリウスの姿も#ハリー#の側から消え、巨大な熊のような犬がマリーの隣に踊り出た。 『縛れ、拘束しろ』 マリーの言葉に合わせて鎖が空を走り、暴れる体を絡め取る。 ピンと張ったその鎖の上をシリウスが走り、ルーピンの首に食らいつき引き倒した。 ハリーはその光景に立ちすくみ、その戦いに心を奪われるあまりそれに気付かなかった──しかし、ハーマイオニーの悲鳴で我に帰った。 ペティグリューがルーピンの落とした杖に飛び付いていた。 「エクスペリアームス、武器よ去れ!」 ペティグリューに杖を向け、スネイプが叫んだ。 ロンがバランスを崩して倒れたっきり動かなくなっている、ハリーはペティグリューに杖を向けながら走った。 「動くな!」 しかし、遅かった。ペティグリューはもう変身していた。 だらりと伸びたロンの腕にかかっている手錠を、ペティグリューの禿げた尻尾がしゅるりとかくぐるのが見えた。 「マリー!奴が逃げた! ペティグリューが変身して逃げたぞ!」 スネイプが叫び、振り返ったマリーの表情は酷く冷静だった。 「奴は俺が追う!マリーはリーマスを!」 走り出そうとするマリーの前に立ち、シリウスがそう短く叫ぶと素早く森に消えていった。 狼人間が鎖をジャラジャラと鳴らしながら暴れている。 「セブルス、ハリー達を城へ──そして、大臣を呼べ。 もう……私が望んだ未来は、潰えた」 「どう言う意味だ?」 スネイプは三人の子供達の前に立ちながら、佇む一人の少女を見つめていた。 「世界は、また変わらず“あの”終末に向けて動く──だから、この予定していた未来はない」 「何を……意味のわからないことを!!」 淡々と話すマリーをハリーとハーマイオニーはロンの側に膝をつき、スネイプの背中ごしに見つめた。 満月を背負った彼女の表情は、読みとれない。 「大臣を呼び、お前の“真実”を話せばいい」 「マリー!お前は、一体──?!」 『おやすみ──そして、さよなら、セブルス・スネイプ』 満月が薄い雲に隠れたことで、弱まった月光に泣きだしそうに笑ったマリーが見えた。 それを最後に、意識が遠のいたスネイプが地面に倒れた。 「スネイプ先生?! マリー!一体何をしたの!!?」 倒れたスネイプを見開いた目で見てから、ハーマイオニーはマリーを見上げた。 悲しげに笑うマリーは、くるりと背を向けた。 「すぐに、わかるさ」 「マリー!!」 「……君達は、二人を城に連れていってダンブルドアに話をしてくれ」 「マリーさん……」 「行け──リーマス、君は一緒においで」 森に消えていくマリーの後ろを鎖がまだ絡みつくも大人しくなった狼人間が後を続く。 ハリー達は、その足音が消えるまで見送ってから、二人はほぼ同時にスネイプへと視線を落とした。 スネイプは眠るように草原に横たわっている。 「マリー……スネイプ先生に何をしたのかしら?」 ハーマイオニーは囁くように言った。 「わからない……でも、ただ眠らせるようなものじゃないのは、確かだ」 それは、マリーのあの悲痛そうな表情がもの語っていた。 「とにかく、早く城へ……」 しかし、そのとき、暗闇の中から、キャンキャンと苦痛を訴えるような犬の鳴き声が聞こえてきた。 「シリウス──」 ハリーは闇を見つめて呟いた。 一瞬、ハリーは意を決しかねた。しかし、今ここにいてもロンに何もしてやることはない。 スネイプも──マリーが命に関わるような魔法はかけていないだろう。 しかし、シリウスは窮地に陥っている──。 ハリーは駆け出した。 ハーマイオニーも後に続いた。 甲高い鳴き声は湖のそばから聞こえてくる。 全力で走りながら、ハリーは寒気を感じたが、その意味に気付けなかった──。 悲鳴のような鳴き声が、急に止んだ。