ルーピンは、手にした忍びの地図を見ながら苦く笑った。 「ハリーが気付いたみたいだよ、僕が辞任した事」 ルーピンの視線の先には、空っぽになった水魔の水槽をぼんやりと覗き込むマリーの姿がある。 その小さな背中を見つめて、ルーピンは一つ息を吐いた。 「意外だったよ」 マリーはその言葉に振り返った。 「君なら、無理にでも記憶を消してしまうんじゃないかと思っていたからね」 ハリー達のも、僕のも、とルーピンは静かに本心をのべた。 「消させてくれなかったのは、そっちだろ」 「さぁ? なにぶん僕はあの時、人ではなかったから」 軽い口調でそう言って肩を竦めて見せたルーピンにマリーは小さく笑った。 確かに、あの時のルーピンは薬を飲んでおらず、身も心も獣と化している状態だったためか、目覚めてみれば記憶はそのままだったという。 薬を届けに来たスネイプの様子に、全て悟ったルーピンがショックでまた気絶してしまったことは後から聞いた。 「《言霊》は、人の思いや構え方によって、かかりが悪くなるのは君もよく知ってるだろ」 「あぁ、だからセブルスなんかはとくにかかりが悪い」 「……だからこそ、何も言わずにかけたんだ」 溜め息混じりに呟くマリーの横顔は、いつものようにぼんやりとしており──そして、いつも以上に無表情だった。 「君やシリウス、そしてダンブルドア先生ならまだしも、ハリー達にあそこまで抵抗されるとは……正直、思ってもいなかった」 「それだけ、ハリーにとって君は大事な人なんだよ」 ルーピンの言葉に、虚空を見つめていたマリーが微かに苦く口の端を歪めた。 「──鍵は、増やしたくはなかったんだけどな」 「鍵?」 ルーピンの問いに苦く笑って返しただけで、マリーは踵を返した。 「マリー──?」 「私はハリーが来る前に失礼するよ。 さようなら、ルーピン」 ひらりと後ろ手で手を振ったマリーはルーピンの部屋を後にした。 「さようなら、か──またね、ではないんだね」 部屋に残ったルーピンの呟きは、マリーに届くのを拒むように扉の閉まる音に掻き消された。 ホグズミードに生徒達が出かけた後の、ひっそりとした廊下をマリーはぼんやりと歩いていた。 ローブのポケットに突っ込んだ手が、冷たい塊に触れた──二つの銀の指輪がカチリとぶつかって硬質な音をたてた。 「……どうにかしなきゃな、この“鍵”も」 溜め息混じりにそう呟いて、寮に向かっていた足を止め、くるりと方向を変えマリーは歩き出す。 指で名残惜し気に、指輪を弄びながらマリーは、温もりを持ち始めたそれに小さく苦笑した。 この未練がましさはなんだろうか、何の為に彼の記憶から自分を消したのかわからなくなるほどだ。 自分の弱さに自嘲的な色が浮かんだ口元を押さえて、俯きながら歩く。 「そこで何をしている?」 背後からかけられた声に、ビクリと肩を震わせて立ちすくむ。 思わずポケットの中の指輪をきつく握りしめた。 「何をしているのだと、聞いておるのだ」 不機嫌そうな声が近づいてくるのに、微かに乱れた息を整えながら振り返った。 「図書室に行こうと、思っていただけです」 振り返ったものの、顔など見れる筈もなく俯いたままマリーは抑揚のない声で答えた。 下を見るマリーの視界に、黒いローブが揺れている。 「ほう──何やらコソコソとしている、不審な姿に見えたのだがな」 自分のネクタイを見て、さらに不機嫌さとねちっこい厭味を混ぜて来た言葉をつむじ辺りに受けながら、マリーはぼんやりと自分の爪先に視線を移した。 ぎゅっと、ポケットの中で握りしめた手に力が入り過ぎて痛い。 「その手はなんだ? 何か隠し持っているんじゃないのか?」 ポケットで握り締めていた手に気付いたらしい──嗚呼、やめてくれと感嘆する。 「これは、別に……」 「別に、何だ?変な物でないのならば、見せられるだろう」 変に、隠し立てして興味を引くのも面倒で、なんとか頭の中で組み立てた理由を盾に、差し出されたその手に手の中の指輪を落とす。 「これは?」 怪訝そうに唸った言葉に「形見です」と直ぐさま答えた。 「叔母の、形見で、いつもは鎖で首にかけているのですが、切れてしまったので、ポケットにいれておりました」 無駄なくらいに流れるように口から零れた嘘に、口の端を歪める。 「──疑われるような行動は、しない事だ」 「はい」 返された二つの指輪をもう一度握りしめながら──今、してしまうかと口を開く。 「あの……スネイプ教授」 「なんだ」 「教授は、」 指輪を握る手に力が篭る。 「ガブリエル・マリー・カウンシルを、ご存知ですか?」 この短い疑問を言うだけで、喉がカラカラと渇くような緊張感が自分の中を駆け巡る。 ここでNOならば、《言霊》は完全に彼にかかっている事になる。 なのに──その答えを否定してしまいたくなる。 マリーは唇を噛んだ。 「知らんな──何故、私にそんな事を聞く?」 その答えに、詰まった息を吐き出しながら、俯いたまま彼には見えないようにマリーは緩く口元だけで笑った──《言霊》は確かに彼にかかっていた。 「叔母に関する書物にあった年代が、先生の年のものと一緒だったので。 ご存知のようなら、お話が聞きたかっただけ、なんです」 「……確かに、学年は一緒だったが。それだけだ。 寮も違ければ、面識もない」 スネイプの言葉に、胸の痛みを無視して、そうですかと呟く。 「お手間を、とらせてしまい、すいませんでした」 顔もあげぬまま頭を下げ、失礼しますと言い踵を返す。 握り閉めた掌には、血が滲んで来ている。 自分の背後で、ゆっくりとした足音が遠ざかっていく。 マリーはそれを聞きながら、そっと目を伏せた。 これで、よかったのだと、何故はっきりと自分は言えないのだろうか。 自分で決めた事のくせに──自分の愚かさに吐き気がした。 向かう先の扉を開けて入る。 人気のない女子トイレに、銀色の少女のゴーストが佇んでいた。 「何よ、あんたまでここに捨ててく気?」 「ははは……仕方がないじゃないか、マートル 見つからない“鍵”の処理はこれしかない」 “鍵”──そう言って見せるのは、銀色の二つの指輪。 「難儀なものだよ……鍵を失えば、隠した記憶は完全に消えるのに。 術者はそれを壊す事も消す事も出来ない」 「馬っ鹿みたい、そんな事しなきゃいいのに」 「そう永くないんだ、十二年も前に死んだ事にしても問題ないよ」 マートルの言葉に苦笑しながら、マリーはトイレの個室に足を向ける。 「で?その、記憶の鍵はいくつあるのさ?」 「んー……実はこれ意外に3つもあるんだよねぇ」 「だったら、忘却術のがよかったんじゃないの」 「それだと、忘れた隙間に違和感を覚えられる」 《言霊》による記憶操作は、取り繕いやすいが忘却術のように直ぐさま消す事は出来ない。 だから、鍵を閉めて隠してしまうのだ──その記憶は鍵がない限り思い出す事はない。 だが、鍵を消滅させることは人為的は不可能というデメリットはある。 「だから、うまく捨てないとね」 「…………」 「指輪みたいに、小さいのならパイプに詰まったりしないから、マートルには迷惑かけないよ」 「そういう事じゃないでしょ、馬鹿……」 マリーの手から指輪が離れ、流れる水の渦に消えていった。 「……あんた、死んだらここに住まない? そしたら、記憶なんか弄らなくったってずっといられるわ」 「素敵なお誘いだけど、私は死んだら魂も残らないんだよ──返さなきゃいけないからね」 「ほんと…てあんたって馬鹿」 マートルの呟きは震えていて、マリーは目を伏せながらごめんと小さく呟いた。 ・・・ 「もう、びっくりしちゃうよね! シリウス・ブラック逃げちゃうし、ルーピン先生いなくなっちゃうし! スネイプ先生なんか怖いし!!」 「レイナ、食事は静かにねー」 「マリーはいっつも、静かだよねー」 ハリーは、憶測が飛び交うグリフィンドールのテーブルで盛り上がる二人を見つめていた。 何も知らない、レイナの明るさにマリーは相変わらず引っ張られて、あの事件から引きずる影はなりを潜めているように見えた。 マリーはあれから、今まで以上にどこかぼんやりとしていて、不安定で危なっかしい。 去り際のルーピンもハリーに、気にかけてやってくれと言い残したぐらいなので、誰もが心配していたのだと思う。 レイナの存在は確かに、マリーの救いとなっていた──若干一部を除いて。 「いやーでも、不機嫌なスネイプ先生かっこいいよねー」 「告白すればいいのに」 「やだ、マリーったら! 告白はもう少しアピールしてからじゃないと!」 前からスネイプには好意を寄せていたレイナは、記憶が改ざんされ“スネイプはフリー”という事にされてから、その好意はなんの障害もなく恋に変わっていた。 始めは、流石にマリーの目の前でと思っていた三人は、むしろレイナの背中を押すマリーに微かな呆れを覚えた──レイナの好意を知り、友人とスネイプの幸せさえ願うこのお人よしっぷりにである。 本人に言えば「性格悪いだろ?」と笑っていたが、それも違うとハーマイオニーが流石にツッコミを入れていた。 とにかく──死を目前にしていながら、マリーは落ち着いていた。 レイナの話に相槌をうっていたマリーは、ハリーの視線に気付いたのか、微かに口の端を歪めた。 あれは苦笑か、とハリーはなんとなくわかってきたマリーの笑みの違いを感じとりながら、マリーに笑い返した。 「もー、マリーったら。ハリーと見つめあっちゃってさ! 私の話を聞いてくれないんだから!」 その横でプンスカ怒るレイナに、ハリーと#マリーは#顔を見合わせて笑った。 笑いながらハリーはちらりと、教員席を見た。 ルーピンの席が一つ空いてあり──その隣に座る、スネイプの表情は相変わらずだった。 マーリン勲章を貰い損ねたのが痛手だったからだと誰かが言っていた。 確かに、ハリーを見るたび嫌悪感をあらわに薄い唇を痙攣させ、まるでその首を絞めたくてムズムズしてるように、しょっちゅう指を曲げ伸ばししているのだ。 そう思うのも間違いではないだろう。 しかし、あの夜ダンブルドアが言ったように、スネイプは失った記憶に気付いていないものの、無意識下で悲しみや喪失感を抱いているのではないかと思うのだ。 ──そう思ってしまうのは仕方がないだろう。 スネイプも、そしてマリーも、大事な人を失ってしまったのだ。 ハリーは、スネイプに気づかれる前に、視線をマリーとレイナへと戻した。 「マリー、もっと食べて太りなさい! 細い!この体は羨ましいくらいに細いけど、不健康でーす」 「んんん……」 ステーキが刺さったフォークを差し出されて困ったように顔を背ける#マリ#を追って、レイナがフォークを動かしている。 レイナの言葉通り、マリーはまた少し痩せた。 「マリー、食べなきゃ駄目だよ」 「……肉、以外なら……」 「じゃあ!チーズ!」 「どのみち、タンパク質」 うーうーと唸りながら、チーズよりはとマリーが諦めて開いた口に、分厚いステーキが押し込められていた。 少しは切ってあげた方がよかったかな、なんて思いながらハリーは、ぷくりとリスのように膨れたマリーの頬がもごもご動くのを見つめていた。 なかなか飲み切れない量なのか眉間にシワを寄せているマリーに、レイナが頑張れ頑張れとエールを送っている。 ハリーはそんな様子に苦笑しながら、ようやく飲み込めたらしいマリーに、ぶどうを一つ剥いてやってから差し出した。 「はい、お疲れ様」 「ん」 素直に食べてくれたぶどうに笑っていると、澄んだ碧眼が拗ねたように細められた。 「ハリー……今、絶対子供扱いしただろう?」 「だって、マリー。好き嫌い多くて子供みたいなんだもん」 「好き嫌いしてるんじゃないよ……量がいらないだけなんだ」 生意気に言ってみた言葉に、渋い顔で文句を言うマリーの手はぶどうに伸びていた。 「マリー、ぶどうは好きよね」 レイナが、また綺麗に笑った。 「あぁ……」 マリーも、微かに目を細めて穏やかに笑った──ぶどうに、何か思い出があるのだろうか。 そうは思いながらも聞けるはずはなく、ハリーはぶどうを同じく一粒口にいれた。 それは、甘くなくて、酸っぱかった。